恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-14
モーレックの手が顔に触れて、アガサは意識を取り戻した。
「ままあ、あむあむ」
「昨日の夜、ミルクしか飲まなかったから、お腹がすいたんでしょう……」
窓から差し込む朝日の眩しさにうっすらと目を開くと、ドラコがマリオを抱いたまま、アガサと同じくモーレックの子ども用ベッドの中で丸くなって眠っているので、アガサは少し驚く。そして、昨晩は一度も目を覚まさずにマリオにミルクをあげなかったことに気づき、アガサはゾッとした。そうか、あまりに疲れすぎていてアガサはきっと、マリオの泣き声に気づかなかったのだ。だからドラコが代わりに赤ん坊の面倒を見てくれたのだろう、と、アガサは思って申し訳ない気持ちになった。母親失格だ。
「ドラコ、ごめんなさい。昨晩はあなたがマリオを見てくれたのね……」
アガサに触れられて、ドラコが身じろぎした。
狭いベッドの上で縮こまって眠っていたせいで、体がこわばっているのを、苦しそうに声を漏らしながら伸ばしながら、ドラコが言った。
「どうして謝るんだ? 俺だってこの子たちの父親なんだから、面倒をみるのは当然だろう。それより、……」
不意にドラコは上半身を起こすと、身を乗り出してきてアガサにキスをした。
「おはよう」
えらく機嫌がよさそうに、ドラコが微笑んだ。
「寝ぼけてるの?」
怒りはしなかったが、アガサは眉をひそめてドラコの肩を軽く押し返した。
「まま、もれ あむあむ」
「わかったわ、モーレック。キッチンでオムツをかえて、朝ご飯にしましょうね」
モーレックを抱き上げてベッドから抜け出していくアガサに、ドラコは慌てて声をかける。
「ちょっと待って。……それだけ?」
きょとんとして振り返るアガサに、ドラコはすごくショックを受けた顔をする。
「どうしたの?」
「昨晩、俺は君にプロポーズをして、アガサは承諾したじゃないか。それなのに、朝起きたら別人みたいにそんな冷たい態度なの」
「……プロポーズ?」
アガサは小首をかしげて、少し考えてから、突然ハッとして自らの左手を見た。そして、声にならない悲鳴を上げる。
「嘘でしょ、夢かと思ってたわ!」
左手の薬指にはめられているダイヤモンドの美しい指輪をまじまじと見つめて、「すごく綺麗」、と、アガサは感動して呟いた。それから潤んだ瞳でドラコに視線を移す。
「ああ、ドラコ、すごく嬉しい。でも、」
アガサは起き抜けのドラコを短くハグすると、困ったような顔をした。
「昨晩は実のところすごく眠たくて、記憶に不明瞭なところがあるの。ごめんなさい、」
「ああダメだ、ダメだ、君はもう承諾したんだから、取り消しは受け付けないからな」
「そうじゃなくて、……プロポーズの言葉をもう一度言ってくれない?」
ドラコは、ショックと、戸惑いと、恥ずかしさの混ざる複雑な表情をしてベッドに座り込んだ。
「俺と、結婚してください」
ぽつりと零されたドラコの言葉を聞いて、アガサはまた驚いて口を手で押さえ、しばし言葉を失う。
「二度も言わせるなよ、どんな思いで俺がここまで準備をしてきたと……」
だが、不意に近づいて来たアガサに顎を持ち上げられ、その先の言葉は彼女の唇によって塞がれた。
――「喜んで」
唇がはなされて再び話せるようになると、アガサが吐息を漏らすように囁いた。
「本当に覚えてないの」
かすれる声でドラコが問いかけた。
「夢の中のことはよく覚えてるわ。あなた、三度も私にキスをしたのよ」
「それは、夢じゃないよ」
ドラコがアガサの腰に手を回して引き寄せ、もう一度顔を寄せたとき、
「そうね、これは現実だわ」
お腹を空かせたモーレックが痺れを切らしてグズりだし、マリオも目を覚ましてミルクを求めて泣き始めたので、二人は引き離された。
子どもたちが本格的に泣き出すと手がつけられなくなるので、ドラコとアガサはモーレックとマリオを抱えて急いでキッチンに下りて行った。
◇
朝食の片付けが済んでひと段落したとき、食後のコーヒーを飲みながら、ドラコはアガサに話しかけた。
「ボスは世界中の幹部をイタリアの本拠地に招集することにしたようだ。マリオの一件で、ノストラ―ドがアルテミッズに攻撃を仕掛けてきているから、【俺たち】にもすぐに来るようにと、昨日、連絡があった」
「俺たち、って?」
食洗器のスタートボタンを押して、アガサがドラコを振り返った。
真っすぐに向けられている彼の目と、アガサの目が合う。
「ボスは、アガサとマリオに会いたいそうだ」
「マリオに何かするつもりじゃないでしょうね」
アガサが不安な顔をした。
【マリオ】の裏切りでアルテミッズファミリーの仲間たちが危険にさらされることになったのは事実だが、まさかその子どもに罪はないのだから、真っ当な良識があれば子どもに怒りをぶつけることは、ないと思いたいが……。
ドラコも同じ見解のようだった。
「それはないと思いたいが、もしマリオに危険が及ぶようなことになれば、俺が何をしても阻止する」
アガサはその言葉を疑わなかった。
「私たちが行くなら、当然、モーレックも一緒に行くことになると思うけど」
「ボスにはもう話してあるよ。もちろん、俺が話す前からボスは全て知っていただろうが」
つまり、モーレックがロシアンマフィアのブラトヴァの血を引く赤ん坊だということを。そして、アガサとドラコが婚姻契約を結び、モーレックを育てているばかりか、今は、アルテミッズファミリーの裏切者である【マリオ】の赤ん坊まで引き取って育てようとしていることを、フェデリコは全て知っているのだ。それをフェデリコがどう思っているのかはドラコにさえ定かではないが、少なくとも昨日の電話で話したときのフェデリコの様子から、それは歓迎されていない、という印象をドラコはもっていた。
「アルテミッズファミリーのドン、フェデリコは、俺の育ての親でもあるんだ。だからいずれは、アガサを紹介することになったと思う」
「どうしても行かなくちゃいけない?」
「何も隠すことはないし、やましいこともしていないから、俺は、アガサのことをちゃんとボスに紹介したいけど、――怖い?」
「怖くはないけど、心配ではあるわ。知っての通り、私は誰に対しても媚を売るタイプじゃないから、もしかしたら、あなたが大切に思っている人たちから嫌われるかもよ」
「嫌われたってかまわないよ。棲む世界が違うから、ニースのときみたいにきっとイヤな思いをさせるだろうし、アガサはいつも通りにしていればいい」
ニースのヴィラでアルテミッズファミリーの仲間たちと短い間、同居生活をしたとき、アガサはニコライから酒のグラスを取り上げ、アーベイの乱暴な態度を幾度もたしなめ、エマには女性としての道徳的な行いを説き、ラットのことは食べ物の好き嫌いをするなと叱った。みんなが、アガサのことをうざがっていたはずだ、と、アガサは思った。
だがドラコは、
――彼らがアガサを好いていたことを知っていた。
「私が行けば、あなたの面目を潰すことになるんじゃない?」
「楽しみだよ。遠慮しなくていい、そもそも、潰されて困る面目なんて俺は持ち合わせていないよ」
「呑気に言って。私たちを連れて行くことを全然心配していないの、ドラコは」
「いや、実はすごく心配なんだ、君を失うかもしれない、って気がするから。あと、子どもたちも」
「失うって、私、殺されるの?」
「前にも言ったけど、アルテミッズファミリーは堅気の人間には手を出さない、【大抵は】」
「例に漏れるかも」
「そんなことは、俺がさせないよ」
穏やかな表情だが、その声には言い知れぬ覚悟の響きがあった。
「ただ、君に嫌われたり、見放されるような気がして、怖い」
「それはあり得るかもね」
「そこは否定しろよな。俺はプロポーズをして、君はそれを承諾したんだから、嫌いになっても取り消しはさせないからな」
アガサは肩をすくめた。
「私は、どうすればいいの? あなたと一緒にイタリアに行って、何かできることがあるのかしら」
「俺を信じて、傍にいてくれ」
「それだけ?」
「それだけ? そんなに簡単なことじゃないはずだ」
アガサは少し考えて、それからキッチンカウンターに頬杖をついてドラコの顔をまじまじと覗き込んだ。
「私は目に見えない神に仕えているのよ。それは知っているでしょ」
「ああ、よく知っている」
「それに比べたら、目の前にいる夫を信じて傍にいることは、難しくないわ」
ドラコも頬杖をついて、アガサを見つめ返した。
「今言ったことを、忘れないからな。絶対に――」
ドラコの眼差しがいつになく真剣だった。
◇
ノストラ―ドファミリーが【マリオとアナトリアの赤ん坊】を血眼になって探しているので、小さな赤ん坊のマリオを連れて出国するには、ドラコは赤ん坊のために新しいパスポートをとる必要があった。以前のパスポートを使えば、出国の際にノストラ―ドに見つかってしまう危険があるからだ。
アガサにはどうやったのかわからなかったが、ドラコは書類を揃えて、モーレックにしたときと同じように、マリオをドラコとアガサの子どもとして養子縁組すると、難なく赤ん坊のために新しいパスポートを作った。ただし、誰かに調べられても赤ん坊の出生元が明らかにならないように幾重にも防衛線を張って。
そうして速やかに準備を整えて、ドラコはアガサ、モーレック、マリオを連れてアルテミッズファミリーの本拠地、イタリアに向かった。
◇
第5話END (第6話につづく)