恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 5-1
敬虔なキリスト教徒として純潔を守るように教えられて育ったアガサにも、人並みに恋をした経験はある。
高校時代の同級生や、大学時代の先輩、社会人になってから知り合った見合い相手などがそれだ。
だが、彼らとロマンチックな関係に進展しそうになると、そのたびに決まって何か予期せぬ事態が起きて、アガサの恋ははかなく散った。
だからきっと、自分には男性との縁がないのだろうな、と、アガサは思うようになった。
年齢的にも28歳でもうそれほど若くはないし、カリフォルニア工科大学に就職してまだ二年目だから、仕事への情熱も手放したくない。シャローム・プロジェクトや、モーレックのことがあるから、今から新しい恋愛を探すつもりも毛頭なかった。別に、一生独身でも構わない。
そんな彼女の前に現れた、ドラコという男。
彼はこれまでにアガサが知り合ったどの男性よりも魅力的で、恋愛に対して躊躇することがなく、積極的でもあった。
平凡で、平和な暮らしを願うアガサとは違って、危険な暗い世界に棲むドラコに、ダメと分かっているのに、アガサは心惹かれずにはいられなかった。
ニースの教会で、彼への恋心を退けてくださいと神に祈ったのに、アガサの中でドラコがどんどん大きな存在になっている。
ロシアの一件を経て、婚姻契約書と婚姻証明書にサインしたので、アガサとドラコは契約上でこそ夫婦と認められてはいるが、アガサには、この関係がいつまでも続くとは思えなかった。ましてや、正式に『婚姻届』を出したわけではないので、普通の結婚とは異なる。
この関係は、二人が同意しさえすれば書類上の解約手続きをいつでも行なうことができる、希薄なものだ。
この世の中には、アガサよりも魅力的で若い女性はたくさんいるのだ。たとえば、エマとか。
物珍しさから、今はアガサに興味を抱いてくれているドラコも、きっとそのうち平凡なアガサに飽きて、他の女性のところに行ってしまうような気がした。
キリスト教徒であるアガサと、マフィアの一味であるドラコの生き方はそもそも異なる。
当初はアガサにとって、それこそが最大の障壁であるように思われたのだが、今となっては、それはさほど大きな問題ではないように思われた。というのは、ニースで彼らと一緒に仕事をしたり、モスクワで彼らに助けられた経験から、彼らがいたずらに人を殺したり、暴利を貪っているのではないことを知ったからだ。もちろん、彼らのやり方には強引で暴力的な側面があることは否めないが、それでも、その根本にある動機には、アガサにも共感し得る正しさや、優しさがあるように思えた。
もし、アガサ一人だけの問題であったなら、今なら、ドラコとの関係性をよりロマンチックなものに発展させることができたかもしれない。もし彼女一人だけの問題であったなら、ドラコがいつか他の女性に心奪われて彼女のもとを去ったとしても、それは彼女だけが傷つく問題として割り切ることができた。
しかし、モーレックを息子として迎えた今は、問題はより複雑になった。
モーレックがもし、ドラコのことを父親だと思ってしまったら、いつか彼が去ったときに子どもながらにきっと傷つくだろう。
父親を失ってモーレックが悲しむことだけは、アガサは絶対に避けたかった。それならば、最初から父親などいない方がいい。不確かな愛はいらない。
◇
「ママ、って呼んで、モーレック。まーま」
「ま、ま……」
「上手ね、モーレック。大好きよ」
「俺のことは、いつパパと呼ばせるつもりだ? 名前で呼ばせるよりも、パパと呼ばせるほうが、赤ん坊にはずっと楽だろう」
キッチンシンクでアガサがモーレックを沐浴させているのを覗き込みながら、ドラコが不満そうに呟いた。
モーレックはドラコのことを、「だー」、と呼ぶ。
「あなたのことを、『パパ』と呼ばせたくないのよ」
モーレックの頭を支えてシンクの上に屈みこんでいるアガサがそう言ったので、ドラコはまた、グサリと傷ついた。
どうしてこの女は、ドラコのことをこうも傷つけられる言葉を持っているのだろうか。
大嫌い、とか、あなたからもらったものは小切手で返す、とか、地獄に蹴り落とす、とか。
その度にドラコは、寿命が縮む思いがして、深く傷ついてきた。
今回は、『あなたのことを、パパと呼ばせたくない』、ときた。
平静を装いながらも、ドラコは抗議した。
「オムツ替えだって手伝っているのに、それはあんまりじゃないのか。俺が、何度コイツのために、この手を汚したと思う?」
「さあ、100回くらい?」
ドラコは否定しなかった。
アガサはベビーバスの中にモーレックを仰向けに浮かべていて、今は赤ん坊の顔を丁寧に指先で洗っているところで、泡がモーレックの目に入りそうになったので、赤ん坊の小さな顔を濡れたガーゼで拭き取りはじめた。顔を洗ってやるのは、沐浴の中でも神経をつかう工程なので、彼女のドラコへの対応は自然とおざなりになる。
「この子があなたをパパだと認識したら、いつかあなたがいなくなったときに悲しむでしょう。ちょっと、タオルとってくれる?」
10分もかからずに、モーレックの全身を泡で洗い終えると、アガサはそれらを綺麗にゆすいでモーレックをベビーバスから引き上げた。
ドラコは自分の両手の中にバスタオルを広げて、モーレックをアガサから受け取る。
すぐにバスタオルで小さな体をくるんでやり、キッチンカウンターの上に寝かせて、頭から順に拭き取ってやる。
「俺が、いなくなると思ってるの」
「あなたがいつかいなくなる可能性なんて、無限に考えられるわ」
モーレックの体に塗る保湿クリームを手に広げながら、アガサが真面目な顔でそう言うので、ドラコは鼻で笑った。
「全て否定してやるから、全部言ってみろよ」
ドラコからバトンタッチして、アガサがモーレックの胸、お腹、首から肩、脇から指先まで、太ももから小さな足の裏まで、と次々にマッサージをするように素早くクリームを塗り込んでいく。モーレックはキラキラした目でアガサのことを見上げていて、時々、キャッキャと楽しそうに声を上げた。今夜はご機嫌だ。
「スピードの出しすぎで車の事故を起こすかもしれないし、道で撃たれるかもしれないし、FBIに捕まって国外追放されるとか、あるいはそうね、別の素敵な女性と新しい恋をして、ここから出ていくかもしれない」
「なるほど」
ドラコは話を聞きながら、次に使う顔用のローションのボトルをアガサの手元に押し出してやる。
アガサはそれを受け取って、モーレックの顔に優しく塗り込んでいく。
モーレックがまたキャッキャと笑って、興奮した様子で何かを喋りはじめたので、アガサはモーレックの口に食むようなキスをして、赤ん坊を静かにさせた。
「俺はこう見えて車の運転は慎重にするほうだし、いつも警戒しているから、よほどのことがなければ撃たれても死なないと思うぞ。それにFBIや警察とは、いつも【良い関係】を築くようにしているから、今のところは、国外追放されるような心配はない。あと、」
そこで一呼吸ついてから、ドラコが静かに、だが念を押すようにゆっくりと話し出した。
「――他の女はいらない。もし、機会さえ与えてくれれば、俺がどれだけ一途にアガサだけを求めているかってことを、腰が砕けるほど情熱的にベッドで証明できるんだけどな。どうかな、今夜にでも、」
「あなたとベッドインするつもりはないからね」
ピシャリと言われて、ドラコはすぐに引き下がる。モーレックがいなければ、おそらく例によって、またぶん殴られていたことだろう。
「そうですよね」
それにしても、そんなに怖い顔をしなくてもいいのに、と、ドラコは思う。
濡れたタオルを片付けて、アガサは素早くモーレックにオムツを履かせ、あらかじめセットしておいた肌着とカバーオールを着せこんでいく。
手慣れたものだ。ドラコにはまだそんなに上手くはできない。
「今日は、リンゴジュース?」
「そう、そこに出してあるやつ」
あらかじめ常温に出しておいたリンゴジュースが、すでに哺乳瓶に入れてある。
ドラコがそれを取ってくれたので、アガサは受け取って、モーレックに風呂上がりの水分補給をさせた。
勢いよく喉を鳴らして、モーレックが吸い付く。
「そんなに焦らないで。また、おえ、ってなっちゃうわよ」
「ン、……」
モーレックの小さな手が、哺乳瓶を掴むアガサの指を強く握った。
「明日、この子を一歳検診に連れて行くわ。もう病院に予約を入れたの」
モスクワの病院で告げられた、モーレックの余命宣告の一か月間は、とうに過ぎていた。
食欲があるし、発語もあるが、一人にしておくと相変わらず、ボーっと宙を見上げていることがあるので、アガサは心配していた。
体は、もう一歳になるのにまだとても小さく、掴まり立ちとハイハイがやっとできるようになった程度だ。早い子は一歳で一人歩きができるようになるらしいので、アガサはモーレックの発育が遅いことも心配だった。
「何時?」
ドラコが聞いてきたので、アガサは答えた。
「午後3時。本当は午前が良かったんだけど、混んでいて予約がとれなかったから、最後の枠をなんとかとってもらったのよ」
「わかった。アガサの車で行こう、俺が運転するよ」
「え、一緒に来てくれるの?」
予想外の申し出に、アガサは驚いた。
「もちろん」
明日は休みを取って、ずっと一緒にいるから心配しなくていい、とドラコから言われ、アガサは思わず涙ぐんだ。
「……ありがとう。正直、この子のことで何かまた悪い診断が出るんじゃないかって不安だから、あなたが一緒に来てくれると心強いわ」
アガサが嬉しそうにドラコを見つめると、ドラコがニヤリとした。
「惚れ直したんなら、君の夫にキスしたらどう?」
こういう軽口さえ叩かなければ、もっと素直にドラコに対して愛情を表現してあげる気になるのに、と、アガサは苦笑いする。
でも、感謝しているのは本当だから、アガサはキッチンカウンターのスツールに腰かけているドラコの髪に触れ、彼の頬にキスをした。
「本当にありがとう」
それからアガサはドラコにおやすみを言うと、モーレックを連れて寝室に下がって行った。
キッチンに一人残されたドラコは、しばらくその場から動くことができなくなる。
アガサからキスをされたのは、これで二度目だ。
一度目はモーレックをリビングであやしていた時。床から起き上がるドラコの腕にアガサは優しく触れて、モーレックにしたのと同じようにドラコの頬にもキスを落としてきたのだった。
あの時は一瞬のことで、何が起こったのかわからずに混乱するばかりだったが、今は、驚いて言葉も出ない。
胸の鼓動が早くなっている。
今回はモーレックと同じように子ども扱いされたのではない。彼女はドラコに感謝を述べて、愛情のこもるキスをしてくれたのだ。
不思議だった。
アガサの指が髪に触れたとき、ドラコは全然嫌じゃなかった。
これまでは女性に触れられると、暗に性的な誘いを受けているような、どこか挑発的な攻撃性を感じ、ともすればそれを不快に感じることさえあったのだが、アガサの手は優しくドラコに触れて、安心や心地よさを与えるものだった。
彼の存在が受け入れられ、感謝され、尊重され、――大切にされているという感覚。
ドラコにとってそれは、初めての経験だった。
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