恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-9


 ニコライが買ってきてくれた哺乳瓶に粉ミルクを入れ、お湯で溶いて、ちょうどいい湯加減まで冷ましている間に、アガサはリビングのソファーでモーレックにオムツをはかせ、新しい肌着と、前開きのカバーオールを着せていった。モーレックの方でも、そうされることに慣れているようで、嫌がることもなく、されるがままに着せこまれている。
 サイズはピッタリだ。
 ニコライは買い物リストの注文通りのものを、全て揃えてきてくれた。
 彼ならいい父親になれそうだ、と、アガサは思った。少なくとも、泣いている赤ん坊の顔に枕を押し当てろと言うようなドラコとは違って。

「さあ、モーレック、ミルクの時間よ。これを飲んだら、朝までぐっすり眠れるからね」
 嫌がって顔をそむけるだろうことは分かっていたが、アガサはモーレックを横向きに抱っこして、人肌の温度まで下がった哺乳瓶の先をモーレックの口元にあてがった。
 すると、意外にもモーレックはすぐにそれを口に咥えて、喉を鳴らして飲み始めた。
「うそ、飲めるの? どうしたのかしら……」
「赤ん坊がミルクを飲むのは普通なんじゃないのか? 何を驚くことがあるんだ」
 ドラコが向かいのソファーに座り、アガサの腕の中の赤ん坊を見やる。
「この子、いつもはこんなふうにミルクを飲まないのよ。脳に異常があって、食事することを嫌がってるからこんなに痩せているの」
 哺乳瓶を支えるアガサの指先に、赤ん坊の小さな手が重なった。温かい。
「不思議ね。怖いおじさんに見つめられて、生存本能が芽生えたのかも……」
「おじさんはないだろ」
「まあまあ、そう不貞腐れなさんな。そんな赤ん坊にとっては、僕たちはみんなおじさんなんだろうさ」
 ニコライがドラコの隣に座って、ソファーの背もたれに腕を伸ばした。
「アガサの服は、洗濯機で洗って乾燥機にかけてるよ。ブラとパンティーも一緒にいれたけど、良かったかな。一応ラベルを見たけど、大丈夫そうだったから」
 ニコライはいたって平然としているが、ドラコは隣で唖然とする。
 アガサは赤ん坊と見つめ合った視線を反らさずに、ニコニコしながら礼を述べる。
「ありがとう、ニコ。ワイヤレスのスポーツブラだから、全部まとめて洗って大丈夫よ」
「どういたしまして」
 ドラコが同じことをしても、果たしてアガサは素直に礼を言うのだろうか、という疑問が頭をもたげる。

「俺の服は?」
 ドラコはニコライの紺色のTシャツと、トレーニング用のスウェットパンツを履いていた。
 アガサほどではないが、やはりニコライの体が大きいので、ドラコが着ると少しオーバーサイズだ。
「ああ、ドラコのスーツはダメだね。あんな高級なスーツを運河の水で汚してしまったら、クリーニングに出しても原状復帰は難しいよ。あれはもう捨てちゃった方がいい。かわりに僕の寝室のクローゼットに新しいのを掛けておいたから、明日はそれを着なよ」
「気に入っていたのに」
 ジョルジオ・アルマーニのスーツだった。
 勝負のかかった日には、ドラコは好んでそのブランドを着る。
 アガサと初めて古城で会った嵐の夜も、アルカトラズのオークション会場でも、そして、アガサを救いに来た今夜も。


 ドラコが幾重にも不貞腐れていることになど気づかず、アガサは、モーレックがこの日はじめてミルクを全部飲んだので、感激して何度も赤ん坊の顔にキスをした。赤ん坊が迷惑そうに小さな手で押しのけると、アガサはその手を食んで赤ん坊をあやした。
「なんて可愛いのかしら。食べちゃいたい」
 それからモーレックを抱き起こして、自分の肩にナプキンをあてがい、モーレックの小さな背中をそっとさすってげっぷ出しをする。
 げっぷを出した後も、いきなりミルクをたくさん飲んだから吐き戻してしまうかもしれないと思い、アガサはしばらく横向きに抱いたまま注意深くモーレックを観察していた。
「大丈夫? 吐きそうだったら、教えてよ」
 アガサの心配をよそに、赤ん坊は眠そうに目をこすると、怪獣のように大きな欠伸をして、やがて目を閉じて動かなくなった。
 買ってきたばかりのおくるみを、ニコライがアガサに手渡してくれる。
「ベッドで寝かせるかい?」
「もうちょっと抱っこしてる。今夜はずっとこの子から目を放さないようにするわ、【その人】がこの子に手を出さないように」
 ドラコは両手を広げて降参のポーズをした。
 どうやら今夜は、彼女の要注意人物リストからドラコが除外される望みは薄いようだ。


 アガサはモーレックを抱いたまま、ソファーに深く沈み込んで、考えを巡らせた。
 ゴリヤノヴォの孤児院と連絡をとり、モーレックをどうやって守るか相談をしたかった。
 この国にいる限り、ブラトヴァから命を狙われるなら……、そこで、アガサは一つの考えにたどり着く。
 モーレックをアガサ自身が引き取り、ロサンゼルスに連れ帰ることはできないだろうか、と。
 金銭的には問題ないし、シャローム・プロジェクトでともに働いた経験から、マリア・ペトローヴナ院長も、アガサの人柄を理解しているはずだ。加えて、現在のモーレックに差し迫った命の危険があることを説明すれば、速やかに、かつ完全にモーレックをアメリカに連れ帰る処置を講じてくれるかもしれない。

「その子をどうするつもりだ?」
 まるでアガサの思考を読み取ったかのようなタイミングで、ドラコが鋭く尋ねてきた。

「この子との養子縁組が可能かどうか、ゴリヤノヴォの院長と相談してみようと思う」

 アガサが答えると、目の前のソファーに座る二人の男はそれぞれに口を閉ざした。
 ニコライはいつも通りの穏やかな表情で、ただ黙っているのだが、隣にいるドラコは、どこか刺々しく、責める様にアガサを見つめながら、しばらく黙っていた。
 だが、この際、この二人がどう思うかは重要ではない、とアガサは思った。
 これは彼女自身の決断なのだ。

「その様子じゃ、俺が何を言っても、考えを変えるつもりはないんだろうな」
 長い沈黙の後、ついに諦めの色が滲むひどく疲れた様子で、ドラコが静かに言った。
 アガサは黙って頷いた。

 小さな赤ん坊を胸に抱く彼女の腕の震えから、この子は絶対に私が守る、という強い意思が感じられる。
 もしそれを強引に奪い取って川に捨てれば、きっと永遠に彼女を失うだろう、と、ドラコは思った。

「この国から無事にその子を連れ出すには、俺たちの手助けが必要だと思うぞ」
「あなたたちを巻き込むつもりはないの。相手はブラトヴァでしょ? マフィア同士の抗争に発展すれば、事がより大きくなってしまうんじゃないの」
「何も心配しなくていい」
 ドラコは無表情にそう言うと、アガサの視線を捕まえて微かに笑みを浮かべた。
「あとは俺に任せろ」

――俺に任せろ。
 ドラコはそう言ってアガサとモーレックをニコライの寝室に下がらせた。
 それからニコライと二人で、何やら遅くまで話し込んでいるようだったが、アガサには二人が何を話しているのかまでは聞き取ることができなかった。
――俺に任せろ。
 ドラコは親切で優しいところもあるが、時々アガサの想像を超えた突拍子もない行動をするので、アガサは不安だった。けれど、どうしてか、俺に任せろと言ったドラコのことを信じたい気持ちがあったし、頼りに思う気持ちがあるのもまた、事実だった。
「神様、どうか私たちを助けて、導いてください……」
 アガサはモーレックを抱きしめたまま、祈りながら眠りについた。





次のページ 第4話10