恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-10


 翌朝早くにニコライは出かけ、昼頃にいくつかの書類を携えてバット・ケーブに戻って来た。

「マリア・ペトローヴナ院長はモーレックの養子縁組の手続きを早急に進めてくれたよ。僕がゴリヤノヴォの孤児院の出身だということを彼女は思い出して、すごく喜んでくれた。アルテミッズ・ファミリーからの持続的な庇護と、モーレックの養子縁組の後見人には僕がなることを条件に、あとは、この書類に【君たち】のサインをしてもらうだけで済む」

――君たち?
 昼のミルクを飲み切ったモーレックは、ニコライのベッドでぐっすり眠っている。
 アガサはキッチンカウンターの上に広げられたいくつかの書類に目を通し始めた。
 養子縁組申請許可書が二通、それぞれロシアとアメリカの家庭裁判所に提出するものだ。ほかには、資産状況証明書、アガサの戸籍証明書、本人確認書類、それから、……婚姻契約書と、婚姻証明書?
「……、これは?」
「ああ、ゴリヤノヴォの孤児院は、養親を夫婦に限定しているからね。独身の女性はモーレックを引き取ることはできない」
 よく見ると、すべての書類に二名分の養親申立人のサイン箇所がある。
 新しいスーツに着替えたドラコがやってきて、カウンターの上のペンをつかむと、特に考える様子もなくすべての書類にサインをしていくのを見て、アガサは目を丸くした。
「え、うそ……」
――ドラコ・ヴィクトル・ヤコブソン
「ちょっと待ってよ。そんなの聞いてないんだけど」
 動揺するアガサを面白そうに見つめ返しながら、ドラコがペンを差し出してくる。
「今日から、俺と同じヤコブソンを名乗るんだ。嬉しくないとは言わせない。おめでとう、アガサ・ハルカワ」
「ねえ私、騙されてない?」
 たまらずニコライに助けを求めるが、彼も楽しそうに首を横に振るばかりだ。
 アガサは顔を強張らせる。
「まずは、書類に目を通させて。何か見落としがあるかも」
 カウンターの上の書類をすべてかき集めて、アガサは二人から離れてソファーに移動した。
 それから1時間以上もかけて隅から隅まで書類に目を通し始めるが、やはり見落としはない。
 モーレックと養子縁組を結ぶためには、夫婦二人が揃っていることが絶対条件であることを知り、アガサは困り果てる。

「なあ、あんなに悩むなんて失礼だと思わないか? せっかくお膳立てしてやったのに」
「プロポーズや結婚式を吹っ飛ばして、いきなり婚姻契約だからねえ。やっぱり、女の子は迷うんじゃないのかなあ」
 無神経な男たちが、キッチンカウンターで肘を突き合わせて優雅にコーヒーを飲んでいる。
 アガサはこれほどムカついたことはない。
 一体、彼らは何を考えているのか。

「ねえ、私たち、しっかり話し合うべきよ。こんなに安易に婚姻契約を結ぶべきじゃないと思う」
 アガサが泣きそうな声でキッチンに声をかけると、コーヒーカップを片手にドラコが近づいてきた。
「モーレックを引き取るのを諦めるのか? 別に構わないぞ。もともと、俺はアガサがあの子を引き取ることには反対だ」
「どこまでも卑劣な人ね……」
 アガサが本当に涙ぐみ、ペンを手に取る。
「この書類にサインするけど、時期がきたら、婚姻無効の手続きをしてくれるんでしょう?」
「どうしてそんなことをする必要がある?」
「それはだって、私たちは本当の夫婦じゃないからよ」
 ドラコはソファーの背もたれに腰をあずけて片膝をかけ、アガサを見下ろした。
「婚姻無効はしない」
「でも……」
「そのうえで、どうしたいか言ってみろ」
「モーレックのために、私はこの書類にサインをするべきだと思うの。少なくとも差し迫った状況にある今はね。だけど、あなたとの関係性はこれまで通り、変えてほしくない」
「俺たちの関係性って、つまり、キスをしたら聖書でぶん殴られたり、海に突き落とされたりする関係性のことかな」
「そう。善き隣人、善き友人の関係性のままでいてほしい」
「でも、俺がそうは思っていないことはニースで伝えたはずだよな。当面は偽装夫婦の立場に甘んじてもいいが、法的に夫婦となるからには、……」
 そこでドラコは言葉を詰まらせた。
「なんなの? 夫婦の夜の営みをしたいなんて言ったら、絶対にこの書類にはサインしないからね」
「……わかったよ。だけど、法的に夫婦となるからには、俺をちゃんと夫として大切に扱って欲しい。俺も、そうすると約束するから」
「わかったわ。でも、本当に婚姻無効はないの?」
「それは絶対にない」
「事情が変わるかもよ」
「もしそうなったら、また話し合おうじゃないか」
「わかったわ」
 ドラコが手を差し出し、二人は契約の握手をした。

 アガサが書類にサインをするのを見守りながら、これで一歩前進だな、と、ドラコは心の中で思った。
 恋人期間も、プロポーズも、結婚式もすっとばして、いきなり子どもができて、婚姻契約を結んだのだから、順番は滅茶苦茶だが、少なくとも彼女との関係を深めるための足掛かりを得た。まったく突拍子もないことだが、ドラコはこれで良かったのだと思えた。アガサの方はすごく不安そうだが、知ったことではない。





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