恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-8


 ニコライのアパートは、映画に観るバット・ケーブのようだった。
 古い防空壕を改造して作られた地下駐車場は、そのまま居内のエントランスに続いて、高い天窓の下で噴水と植栽が庭を演出している。
 エントランスから扉を一枚くぐると、そこには木彫のクラシックな空間が広がっていて、シンプルで洗練された家具が、使いやすい場所に配置されているのが、大人の男性の一人暮らしを色っぽく醸し出している。ただし、生活感はあまり無い。
 アガサから渡された、ミルクや紙オムツのほか長い買い物リストのおつかいをしてくる代わりに、ニコライはアガサにすぐにシャワーに入るように命じた。
「こういっちゃなんだけどね、君たち運河臭いよ。僕の新車も台無しになったことだし、このうえ住処まで悪臭まみれにされちゃかなわない。僕が戻ってくるまでに、その赤ん坊はドラコに預けてすぐにシャワーに入るんだよ。わかったね、アガサ」

 ニコライが再びバット・ケーブから車を発進させて行ってしまうと、ドラコがすぐに赤ん坊をよこせと言ってきた。
 アガサはそれを頑なに拒否する。
「目を放したら、あなたはこの子に何をするか分からない」
「一か月で死ぬ赤ん坊をわざわざ自分の手にかけたりしないさ。死ぬまで待つよ」
「あなたには【絶対に】任せられない」
 アガサはモーレックを連れたまま、ニコライの寝室のシャワールームに入った。

 二人で一緒にシャワーを浴び始めると、眠っていたモーレックが目を覚まして泣き叫び始めた。
 アガサは、今までモーレックがそんなに大きな声で泣くのを聞いたことがなかったので、とても驚いた。
「ごめん、ごめん、モーレック。目が覚めちゃったのね。お湯が熱すぎた?」
「おい、大丈夫なのか?」
 シャワールームの外からすぐにドラコが声をかけてきた。

「大丈夫だから、こっちに来ないで!」

 モーレックを抱いたまま素早く全身を洗い、アガサは10分以内にシャワーから上がった。
 まず、モーレックの体をタオルでくるみ、それから自分の体を拭いて、濡れた髪をまとめると、ニコライが貸してくれたシャツを着る。体格の大きなニコライのワイシャツを、小柄なアガサが着るとぶかぶかだ。
 洗面台の上にモーレックを寝かせ、タオルで体を丁寧に拭いている間も、モーレックは不満そうに鼻を鳴らして怒った。
 新しいタオルでモーレックの体を包み直すと、今度はクシュンとくしゃみをして、それが気に入らなかったのかモーレックはまた悲壮に暮れて泣き出した。

「赤ん坊をあやすのが上手いじゃないか」
 あけすけな嫌味が洗面所の入口から飛んでくる。見ると、上半身裸のドラコが心配そうにこちらを見ている。
「いつもはこの子、こんなに泣かないのよ。お腹がすいているのかしら。病院でミルクを飲んだばかりなんだけど……。もしかしたら、どこか具合が悪いのかも」
 アガサはモーレックを抱き上げて、赤ん坊の頭を自分の肩にのせると、トントンと優しく小さな背中をさすった。
 体をぴったりとくっつけてあやしていると、なんとか泣き止んだ。
 だが、まだ言葉にならない恨み言を、うー、うー、と唸っている。機嫌が悪いようだ。

「きっと悪いおじさんたちに囲まれて、怖いのね」

「俺には、一晩のうちに二度も水攻めにされたことを怒っているように見えるけどね。シャワーが嫌だったんだろう」

 言いながら、ドラコが洗面所に入ってきてアガサの目の前でズボンのベルトをはずし、脱ぎ始めた。

「ちょっと、そんなところで脱がないで。今出ていくから、待ってよね」
「俺も寒くて低体温症になりそうだ」
 アガサはモーレックを抱いたまま、急いで洗面所から飛び出した。

 ニコライはまだ帰ってきていないが、アガサはモーレックと一緒に遠慮なく彼のベッドに入った。
 とても疲れた。
 少しでも眠らないと、倒れてしまいそうな気がした。
 アガサはニコライの掛布団にくるまり、モーレックを胸に抱いたまま目を閉じた。ニコライのコロンと、ほんの少し、葉巻の芳ばしい臭いがする。
 いつもなら他人の匂いが気になるところだが、今晩のアガサは気持ちがとても疲れていたので、他人の匂いを感じて安心した。


 ドラコがシャワーから上がって来た時には、アガサはモーレックを胸に抱いたまま、ぐっすり眠り込んでしまっていた。

 髪からしたたる雫をタオルで拭きながら、ドラコは不思議に思う。
 子どもを抱えた女は、こんなにも大胆で、無防備になれるものなのか、と。
 キスをしただけで大騒ぎする女が、子どものためなら素肌を露わにすることも厭わずに服を脱ぎ捨て、今は男と二人きりの暗い部屋で、シャツ一枚を羽織ってベッドの中で丸くなっている。それはアガサの、自分への信頼、つまり無防備に眠る女性にドラコが何もしないと思っている安心の表れなのかもしれなかったが、それは大きな勘違いだ。

 ドラコは車の中で、アガサの裸を初めて見た。
 もっと扁平で、凹凸のない体つきをしているものとばかり想像していたのに、意外にも胸は柔らかに膨らんで、脇から腰にかけて流れる滑らかな曲線は、思わず舌でなぞりたくなるほど美しかった。車の中で、ドラコが本能的欲求を必死に抑えていたことなど、きっとアガサは知らないのだろう。
――大嫌い。
 そう言われたことに、ひどく傷ついたし、彼女の腕の中にいる見知らぬ赤ん坊が今回のトラブルの発端であることには、殺意さえ沸いてくる。
 この赤ん坊さえいなければ、目の前で眠る彼女を自分のものにできるのに。今すぐに、この場所で――

 ギシ。
 マットレスに手をついたときに、思いのほか大きな音でベッドが軋んだ。
 アガサの胸元に顔をうずめて眠っていた赤ん坊がピクリと動き、目を開いた。と、突然に機関銃のように甲高く泣き叫び始めた。
 
 ドラコが驚いてベッドから一歩退くと、アガサも飛び起きた。
「何をしたの!?」
「まだ何もしてないよ」
 両手を上げて、思わず正直に罪を認めてしまうと、アガサが軽蔑するような眼差しで一瞬、ドラコを睨んだ。
 だが、赤ん坊がドラゴンの産声よろしく耳を塞ぎたくなるような金切声を上げて泣き続けるので、ひとまず彼女の注意は赤ん坊に全集中される。
 ガレージからニコライが入って来たことにも気づかないほどだった。

「どうしたんだい? その声、外まで轟いているよ。すごい声だ」
「ドラコがこの子を怖がらせたのよ!」
「なんだって?」
 あろうことか、ニコライまでがドラコに疑いの眼差しを向けてくる。その両腕には大量の買い物袋が抱えられたままだ。
「俺は何もしていないって。ああ、煩い! 早くその赤ん坊を静かにさせてくれ。その枕を顔に押し当てたらいいんじゃないのか?」
「そんなことをしたら窒息してしまうよ」
 ニコライが唖然としてドラコを赤ん坊から遠ざけている間に、アガサはモーレックを抱き上げて頭を片手で包み、もう片方の腕で抱き寄せて優しく体を揺らした。
「よーしよし、怖かったのね、モーレック。もう大丈夫だから、大丈夫よ、モーレック」
 モーレックの耳元で、子守歌のように囁きながら、キスを落とす。
 やがてモーレックの泣きわめく声はピタリとおさまったが、まだ文句を言い足りないらしく、言葉にならない、うー、で鼻を鳴らして抗議している。
「そうよね、あのおじさんが100パーセント悪い。もう大丈夫よ、あなたには指一本触れさせないからね」
 そう言って赤ん坊をあやしながら、アガサは赤ん坊の耳を塞いでドラコを睨んだ。
「今度この子に何かしたら、私があなたを【地獄に蹴り落とす】からね」
 顔つきからして、冗談ではなさそうだった。

 それからアガサがお湯を沸かすためにキッチンに出て行ったので、その隙にニコライがそっとドラコに耳打ちした。
「本当に、彼女をあんなに怒らせるなんて、何をしたのさ?」
「眠っている彼女にちょっと触ってみようとしただけだ。誓って言うけど、俺は赤ん坊には指一本触れていない」
「アガサを触ろうとしたって……そんなことをしたら、いずれにしても彼女を怒らせることになると想像できたろうに」
「つい、出来心で手が伸びたんだよ。だいたい、お前のベッドが軋みすぎなのが悪い。それで赤ん坊が驚いて目を覚まして……全部、お前のベッドのせいだ」
「スプリングの軋むやつを、あえて好んで使っているんだよ。僕は女性を抱くとき、音で感じる方だからね」
 ニコライがニヤリとするので、ドラコは眉をひそめる。
 分からないでもないが、変態だな、と呟くと、赤ん坊の目の前で女性に欲情した君も同類だ、とやり返されて、ドラコは言葉を詰まらせる。
 確かに、その通りだった。
 今回は未遂ではあるが、誕生日の夜に強引なキスをしたときと同じ過ちを、またやってしまったのだ。
 ドラコは、自分の内にある抑えがたい性衝動を忌々しく思った。まるで、10代の頃に体が戻ったみたいだ。





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