恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-7


 モスクワ運河のほとりの自然公園エリア。
 こんなところにポツンと降ろされてしまって、さて、ここからどうやって孤児院まで帰ろう、とアガサが考えあぐねた。
 暗闇から音もなく影が忍び寄り、運河を背に立つアガサに狙撃手が狙いを定めているとは露ほども知らずに。
 タクシーを呼ぼうと思いつき、病院で携帯電話の電源を切りっぱなしだったことに気づく。
 電源を入れると、すぐに着信音が鳴ったのでアガサはビクっとした。見覚えのない番号だ。

『もしもし?』
『アガサ、僕だ、ニコライだよ!』
 言われてみれば聞き覚えのある声に、アガサの表情がぱっと明るくなる。ニコライにしては珍しく、なんだか切羽詰まった様子だ。
 彼女が口を開きかけると、ニコライがさらに切羽詰まった様子で、『今すぐ運河に飛び込め!』、と言ってきた。
『なんですって?』
『狙われてる!』
 パーン!
 ニコライの電話の声に振り返って、思わず足がよろけた瞬間に、空気を引き裂く発砲音が耳に届くのとほぼ同時に、アガサの頬を銃弾がかすめた。
『運河だ、運河に飛び込むんだ!』
 最初の銃声で、驚いて地面に落としてしまった携帯電話からニコライの叫び続けている。
 携帯を拾うのは諦めて、アガサはわけもかわらずに運河に向かって走り出した。
 パーン! 
 二発目の弾丸が足元のコンクリートを打ち砕き、足がもつれて転びそうになる。
 それでも、運河を目指して這うように走っていくと、今度は彼女の行く手を塞ぐように前方に複数の銃弾が撃ち込まれた。
 意識とは無関係に悲鳴を上げて、アガサはモーレックを両手で抱きしめた。
――この子だけは、なんとしても守らなければ!
 死を覚悟してうずくまりかけた、そのとき、背後から抱きかかえられるようにしてアガサの体が浮き上がり、そのまま運河の中に転がり落ちて行った。

 思いのほか冷たい水に、心臓が跳ねあがり、酸素と光を求めてアガサは必死に水面に顔を出した。抱っこ紐の中のモーレックは無事だろうか、と、思った直後、
「頭を下げろ!」
 と怒鳴られて、また水中に引きずり込まれた。
 息が苦しい。
 暗くて何も見えない水中を引っ張られて、ようやく水面に顔を出したときには、橋を一つくぐり抜けていた。
「モーレック!」
 胸を高く上げて、モーレックが息をできるように持ち上げるが、すでに赤ん坊はグッタリして、息をしていないようだった。
「ああ、神様、お願いです」
 アガサは無我夢中で岸によじ登り、抱っこ紐をほどいてモーレックを仰向けに寝かせ、心肺蘇生を試みた。二本の指で胸を圧迫し、口から息を吹き込む。
「アガサ、ここは危険だ。早く離れないと」
 声の主が誰かも判別せずに、アガサはその手を振り払った。
 そうして二度目に息を吹き込んだ時、赤ん坊は水を吐き出した。
「よかった! モーレック……」
 安堵して赤ん坊を抱きしめるアガサは、また引きずられるように体を持ち上げられて、運河の傍らに停車した車の中に押し込まれた。

「危機一髪だったねえ」
 車はすぐに出発した。運転しているのはニコライだ。
 驚いた。後部座席にアガサと一緒に座っているのは、ずぶ濡れのドラコだ。
「あなたたち、どうしてここにいるの?」
「その前に、助けてもらった礼を言うのが先だろうが。それと、これからは携帯の電源は常に入れておけ」
 冷たい運河の水に当てられたせいもあるのかもしれないが、ドラコはいつになく不機嫌だった。
「助けてくれてありがとう。あなたたちがいなければ、本当に死んでたと思う。すごく、恐ろしかったわ……」
 そう言いながらも、モーレックがぶるぶると震え出したので、アガサはハッとした。
 迷っている場合ではない。トレンチコートを脱ぎ、続いてトレーナー、インナーシャツを次々に脱ぎ捨てていく。
「おいおい、こんなところで脱ぐなよ……」
 アガサがブラのフックに手をかけたのを見て、ドラコが視線を反らした。
「モーレックが、低体温症だわ。すぐに温めないと。この子、衰弱しているの」
 アガサは素早くモーレックを裸にすると、赤ん坊の全身を自らの上半身にあてがって抱きしめた。

 ドラコは窓の外に視線を向け、ニコライはバックミラーを見ないように努め、車内にはちょっとした気まずい沈黙が訪れた。
「僕のジャケットを使うといい」
 信号待ちのタイミングで自分の上着を脱ぎ、ニコライが後部座席のアガサに差し出した。それをドラコが受取り、彼女の肩からすっぽりかぶせてやる。

「どうして、命を狙われたのかしら」
 モーレックの震えが徐々におさまって、また眠たそうに額を彼女の胸にうずめ始めた頃、アガサが思い出したように問いかけた。
「強いて言うなら、慈悲だろうな」
 と、ドラコが呟く。
「人を殺すことが慈悲なものですか。どういう神経の持ち主なの」
「その子は、ブラトヴァ・ファミリーのドンの系譜だ。おおかた、始めはその子を養子にしようと考えて近づいたが、治癒できない障害があると知って、楽に死なせてやろうと思い直したのさ」

 所詮、娼婦が産んだ子ども。
 苦しんでいるなら尚のこと、早く逝かせてやるのがいい。
 私には、そんな赤ん坊は見るに堪えない……

 アガサはつい先ほど、リムジンの男が言った言葉を思い出して、胸が締め付けられた。

「でも、私のことを狙っているように見えたけど」
「それはアガサが、何かブラトヴァの気に障ることを、言ったんだろうさ」
「別に、私は何も言ってないけど……。ただ、この子と最後までずっと一緒にいると、言っただけ」
 ドラコが呆れたように小さく息をつく。
「だから、奴らはアガサをその赤ん坊と一緒に逝かせようとしたんだろうねえ……」
 と、ニコライが優しく呟いた。

「医者の診断では、この子の余命はあと一か月ほどだろうって。だからそれまでの間、少しでもこの子に幸せでいてもらいたいのよ」
「この国にいる限り、きっとまたブラトヴァが襲ってくるぞ。あと一か月なら、楽に死なせてやったほうが……」
「そんなことを言うなんて信じられない!」
 あのリムジンの男と同じようなことをドラコが口にしたので、アガサの頭には一気に血が上った。
「大っ嫌いよ、ドラコなんか!」
「なっ……」
 にわかに傷ついた表情を見せるドラコに、ミラー越しにニコライは気づいた。
 アガサは赤ん坊の頭に顔をうずめて、涙を堪えている。
「だいたい、猫はどうしたのよ」
「……、猫?」
「あなたが安易にモーニングという名前をつけた猫のことよ。世話をほったらかしてきたんでしょう」
「ああ、それならちゃんとラットに、……」
「ネズミに猫の世話をさせるとはね!」
 不謹慎にも、ニコライが笑いを零しそうになり、片手で口元を押さえる。
 後部座席では尚もアガサの攻撃が続く。
「やっぱりあなたはそういう人なのよ。命のことを軽く見てるから、楽に死なせてやれなんてことを言えるし、飼い猫も放ったらかしてくるんだわ」
「俺がこっちに来たのはアガサのためなのに、どうしてそんなことを言うんだよ」
「その通りだからよ! ……ねえ、ちょっと、孤児院に向かっているんじゃないの? どこに向かってるの? 止めてよ」
「孤児院には帰らないよ」
「なんで、どうして?」
「言っただろ、【危険】だって。すでにゴリヤノヴォの孤児院はブラトヴァの襲撃にあって、被害が出てる。今あそこに戻れば、みすみす殺されに行くようなものだぞ」
 ドラコの言葉に、アガサの表情は凍り付く。
「……みんな、無事なの?」
「さあ」
 ドラコが興味もなさそうに流そうとすると、氷の仮面がすぐに溶け落ちて鬼の形相になる。
「一人、かなりやられてたよ。牧師風の、詰襟の若い男だった。まだ死んでいるようには見えなかったが」
「そんな……アリョーシャ副牧師」
 アガサはデニムのポケットに手を伸ばした。そこで、携帯電話を運河に落としてきてしまったことを思い出して頭を抱える。
「今は連絡を取らない方がいい。通話は盗聴されている可能性が高い」
「じゃあ、私のホテルに」
「見張られてるだろうねえ」
 と、運転席からニコライが言った。
「それなら、私たちは一体どこに向かっているの?」
「僕のアパートだよ。あまり広くはないけど、ひとまず身を隠すにはちょうどいいからねえ」
「そう……」
 アガサは力なく返事をして、不安をなんとか鎮めようと深呼吸を繰り返した。それから困ったようにニコライに問いかける。
「ねえ、……あなたの家には、ミルクと紙オムツはある?」

 まさか、最初から赤ん坊は見捨てるつもりだったからそんなものは用意していない、とは言うことができずに、ニコライは苦笑し、ドラコは深いため息をついた。





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