恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-6


 時間外の特別診療を終えたアガサは、モーレックを連れて夜間通用口から外に出た。
 駐車場に向かって暗い地下通路を歩きながら、アガサは抱っこ紐で胸の前に抱えたモーレックをぎゅっと抱きしめて、泣いた。
――この子は、もう長くは生きられない。
 それが、医者のくだした診断だった。

 心理的外傷性ショック。
 生後間もなく、何かとても恐ろしい体験、あるいは悲しい体験をしたことが原因で、モーレックの脳は正常に発育していないということだった。そのせいで、情動や、生きるために必要な基本的な欲求がない。モーレックが食事をなかなか口にしないのも、食べたい、という欲求がないからだということが分かった。
 ここまで深刻なケースは赤ん坊には極めて珍しく、そもそも脳や心理状態が未発達の状態なので、手術や心理療法にも効果は期待できないと説明を受けた。

――可哀そうに。

 アガサは誰もいない薄暗い地下通路で立ち止まって、シクシクと涙を流した。
 モーレックの小さな手が彼女の頬に伸ばされて、触れる。
 温かい。
 少し金色がかった、ガラス玉のように透明な水色の瞳が、孤児院の子ども部屋の天井を見上げるときと同じように、今も不思議そうにアガサを見上げていた。

「大丈夫よ、モーレック。私がずっと、あなたと一緒にいるからね」

 鼻をすすり、涙をぬぐって、アガサはまた暗い道を歩き続けた。車はすぐ近くに停めてある。
 病院の地下通路を抜けて、階段を上り、外来患者専用の屋外駐車場まで、ほんの少しの距離だ。
 6月も下旬にさしかかる頃だというのに、夜は肌寒く、寒気がするほどだった。モーレックが寒くないようにと、アガサはおくるみを手繰り寄せ、強く抱き寄せた。
 車まであと数歩というところで、黒塗りのメルセデツベンツのリムジンが、突然アガサの前に滑り込んできた。
 一瞬、轢かれるかと思ったのでアガサはビクリと体を震わせ立ち止まり、すぐに車の運転手に文句を言おうと口を開きかけた、その時。
 リムジンの後部座席のドアが開き、同時に助手席から降りてきた男によって、アガサはいきなり車の中に押し込まれた。
 あっという間のことで、声を上げることもできなかった。

 リムジンはそのままモスクワ運河に向かって走り去った。





 人さらいだろうか。モーレックのことで頭がいっぱいだったので、取り乱す気にもなれなかった。
 夜の街並みが静かに流れていくのをウィンドウごしに横目に見ながら、アガサはリムジンの柔らかな革張りのシートに深く沈み込んで考えた。
 身なりのいいアスコットタイの男が、歳はおそらく50代くらいだろうか、足を組んで、アガサのことを品定めするように見つめてくる。その男の耳の後ろから首筋にかけて、短剣のタトゥーが彫られていることに、アガサは無性に気味の悪さを感じた。
 リムジンの客室内は足元からも天井からもライトが照らされ、眩しいくらいだった。
 眠いのか、モーレックが目をこすって彼女の胸元に顔をうずめてきた。抱っこ紐の外側から、そっとモーレックの背中をさすってやる。
 愛しさが込み上げてきて、アガサの目にまた涙が溢れてきた。

「何もとって食いやしない。泣くことはないだろうに」
 プラチナブロンドの髪をしたその男は、目を細めて静かにアガサに言った。
 少しだけ金色の入った、薄い水色の瞳だ。モーレックと同じ、珍しい色の瞳だな、とアガサは思う。

「泣いているのは、さっき病院でこの子の診察をしてもらったからなんです」
「ほお、何かよくない診断でも下ったのかな」
 アガサは涙を呑み込んで、鼻をすすった。
「心理的外傷後ストレス性ショックだそうです。その程度が深刻なので、脳に機能的な障害が出てしまって……この子は、あと1カ月生きられればいいほうだ、と」
 言いながら、アガサの声は悲しみに震えた。
 これには、初老の紳士もショックを受けたのか、しばらく言葉を失った。
 車は夜の街を進見続け、窓の外を流れる外灯の数がどんどんまばらになっていく。

「その子を、見せてくれ」
 男がアガサと同じ悲しみを抱いていることに気づいて、アガサは抱っこ紐をほどいて、眠っているモーレックを男に抱かせた。
 アガサの手から離れたことに気づいたのか、モーレックがパッと目を開いた。
「あの子と同じ瞳だ……」
 男が、一瞬だけ愛おしそうにモーレックを見下ろした。だが、すぐにその赤ん坊の異常さに気づき、眉をひそめる。
「随分と、痩せているな」
「脳の機能の異常で、その子は食べたがりません。さっき、病院で栄養剤を点滴してもらったんですけど、そんなことをしても、その子の苦しみをいたずらに引き延ばすだけだろうと、医者からは言われました」
「この子は、苦しんでいるのか」

――色も、音も、温度もない世界。
 そんな世界で一人で彷徨っているようなものだ。

 医者はアガサにそう言った。
 こんなに小さな赤ん坊が、孤独な闇の中でただ死という安らぎが訪れることだけを、ジッと耐えて待っている。


 アガサの説明を聞いて、男は、黙ってアガサにモーレックを返してきた。
 その目は色を失い、先ほどちらりと垣間見せた赤ん坊への愛情も、今は跡形もなく消え去っていた。
 男はアガサが再びモーレックを抱っこ紐に収めるのを待ってから、運河のほとりに車を停めさせて、そこで彼女たちを降ろした。

「あなたはこの子のご親族の方ではないんですか?」
 別れ際に問うと、男は悲し気に頷いた。
「我が最愛の息子の、忘れ形見だ。だが、死にゆく子を引き取っても仕方あるまい」
「でも、最後のときまで、この子に寄り添ってくれる肉親がいたらよかったんですけど」
「所詮、娼婦が産んだ子だ」
 男は嫌そうにかぶりを振った。
「苦しんでいるなら尚のこと、早く逝かせてやるのがいい。私には、そんな赤ん坊は見るに堪えない……」
 モーレックの前で実の肉親が放った残酷な言葉に、アガサはショックを受けた。
「そんなことを言うなんて、あんまりです」
「医者も匙を投げたとあっては、もはや打つ手はない。死なせてやるべきだ。それが無慈悲だと言うなら、じゃあ君には何ができるというのかね」
「モーレックを愛し、ずっと一緒にいます。最後のときがくるまで、決してこの子を諦めません」
 男は鼻で笑って、片手を上げた。
「どうぞご自由に」
 リムジンのドアは自動で締まり、車はアガサとモーレックを暗いモスクワ運河のほとりに置き去りにして走り去っていった。

――今夜、あの女と赤ん坊を、楽に逝かせてやれ。それが我々にできる最大の慈悲なのだから。
 走り去るリムジンの中で、車内電話を通じて男が部下たちにそんな指示を出したことなど、アガサには知る由もなかった。





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