恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-5


 「じゃあ、ちょっとモーレックを病院に連れて行ってきますね」
 アガサは、痩せた小さなモーレックをおくるみに包んで、レンタカーの後部座席のチャイルドシートに寝かせた。
「あなたが人参を嫌いだということだけはよく分かったけど、このまま食べずにいると、本当に天国からお迎えが来てしまうことになるのよ?」
 アガサのお小言を聞いてか聞かずか、モーレックの視線は虚ろに宙を泳いでいる。
 今日は、聖ペテロ・パウロ大聖堂の信徒が勤務する軍事病院で、時間外に特別診療を受けて、モーレックに栄養剤の点滴をしてもらうことになっている。

 孤児院の夕方の時間帯は大忙しだ。
 手の空いている男たちはエミール爺さんの一日の大工仕事の片付けを手伝っているし、婦人たちは厨房で奉仕者たちの夕飯と、子どもたちの食事を準備している。子どもたちに沐浴をさせるのもこの時間帯だ。
 アガサは衰弱の激しいモーレックのことを特に気にかけていて、可能な限り彼の世話を引き受けているが、ある晩、孤児院での一日の仕事を終えて、夜遅くにアガサが帰ろうとすると、モーレックが一度だけアガサを後追いして泣いたことがあった。
 そんなことは初めてだったので、院長のマリア・ペトローヴナはとても驚いて、以来、モーレックとアガサの間には特別な絆が芽生えているのではないかと感じて、より積極的にアガサにモーレックの世話を任せるようになった。
 そうはいっても、モーレックは相変わらず離乳食をなかなか口にしようとせず、反応も乏しくて天井を見上げてばかりいるのだが。

 マリア・ペトローヴナは悩んでいた。
 シャローム・プロジェクトの働きが始まって二週間を過ぎたころに、ゴリヤノヴォの孤児院に一通の手紙が届いたのだ。
 差出人はモーレックの祖父を名乗るウラジミールという人物からのもので、手紙には今すぐにでも赤ん坊を引き取りたいとの内容が、やや脅迫めいた調子で書かれていた。
 ウラジミールは、不動産や金融取引で財を築いた、ロシアで3本の指に入る大金持ちだ。政治家や警察にも強いコネがあると聞くが、その実、裏では犯罪組織に荷担しているという、後ろ暗い噂があることも、マリア・ペトローヴナは知っていた。長年、ならず者たちを相手に孤児院を運営してきたので、裏社会の噂は隙間風のように彼女の元に舞い込んでくるのだ。
 直感的に、マリア・ペトローヴナは赤ん坊を彼に渡すことに、ある種の抵抗を覚えた。
 だから手紙の返信で、赤ん坊の健康状態が極めて悪いことを伝え、里親申請のためにはさらにいくつかの審査が必要であることを丁寧にしたためて投函したのだが、それ以来何故か夜が来る度、深い闇が孤児院に迫ってきているような不気味な気配を感じて、マリア・ペトローヴナは恐れている。
 彼女には孤児院の子どもたちを守る義務がある。
 夜な夜なこんなに怖ろしい気分になるくらいなら、他の子どもたちと安寧な夜を過ごすために、もうそう長くは生きられないだろうモーレックを、ウラジミールに渡してしまうべきではないだろうか。そんな考えにマリア・ペトローヴナは頭を悩ませていた。
 

 その日の夕方、マリア・ペトローヴナが漠然と感じていた不安は、予期せず現実のものとなる。
 体つきの大きな男たちが4人ばかり、突如、孤児院の正面玄関から押し入って来たのである。彼らは食事を奪うでもなく、金銭を要求するでもなく、ただ見せつける様に銃を受付の上に置くと、当然のようにかの子どもを要求してきた。
 男たちの手の甲や、開いたシャツの襟元から、刑務所タトゥーがのぞいて見えた。

 長い間、この治安の悪い地域で孤児院を運営してきたマリア・ペトローヴナは、略奪者には抵抗せずに与えることが身の安全を守る最善の策だと心得ていた。だが、渡すのが命ある子どもとなると、やはり躊躇った。
 彼女は返答に窮して、生唾を呑み込んだ。
 食堂で夕飯の皿を準備していたアリョーシャ副牧師とソーニャが、すぐに異変に気付いて受付まで出てきてくれた。
「どうされましたか、ペトローヴナ院長?」
「こ、この方たちが、子どもを渡せと」
「モーレックという名の赤ん坊が、ここにいるはずだ。俺たちはウラジミールの代理の者だ」
 男は咥えていた爪楊枝を吐き捨てて、マリア・ペトローヴナににじり寄った。
「お手紙でもお伝えしたとおり、モーレックの健康状態が悪いので、……」
「そんなことは問題じゃないんだ。必要な治療はこっちで受けさせる。すぐに、赤ん坊を渡してもらおう」
「ちょっと、待ってください」
 アリョーシャ副牧師が男の前に割って入り、マリア・ペトローヴナの盾となった。
「里親申請には、正式な手続きが必要です」
「血の繋がりのある肉親が引き取りたいと言っているんだ。こんな場末の掃き溜めで、その手続きとやらに何の意味がある? もちろん、金は出すから、さっさとモーレックという赤ん坊を渡してもらおう。二度も言わせるな」
 男が怒りに口元を歪めた。
「お引き取りください」
 まだ年若いアリョーシャ牧師は、断固として男たちに言った。
「全ての命は等しく庇護される権利があるのです。たとえ実の肉親であろうと、一度捨てた命を簡単に金で買い戻すような真似は、……」
 直後、にわかに悲鳴が上がり、テーブルが倒れ、夕食の準備に並べられていた食器が割れて床に散らばる音がして、アリョーシャ副牧師は床に倒れた。
 男たちの一人が、アリョーシャ副牧師の上に馬乗りになり、銃身でその顔を殴りつけると、胸倉を掴み上げて額に銃口を突きつけた。
「やめてください!」
 兄を助けようと飛び出したソーニャも別の男に捕まり、割れた食器の散らばる床の上に軽々と投げ飛ばされた。

「一つ。俺たちの掟では、【命には序列がある】。平等などということは、――決してあり得ない」
 そう言って男は、アリョーシャ副牧師に突きつけた銃のハンマーを引いた。
「二つ。次に俺がこのトリガーを引けば、お前の頭は粉々に砕け散る。スミス&ウェッソン、どうだ、美しい銃だろう」
 同じ人間とは思えないほどに、男たちは冷徹な目をしていた。
 アリョーシャ副牧師は、偽りのない真っすぐな眼差しで男を見つめ返した。
「君のために祈ろう。僕はいつも命をかけて神に仕えている。死ぬことは怖くない」
「アリョーシャ!」
 ソーニャが叫び、院長のマリア・ペトローヴナは泣いて男たちにすがった。
「お待ちください! 赤ん坊の居場所を教えますから!」
 アリョーシャ副牧師が抵抗する。
「いけません、ペトローヴナ院長!」
 その言葉に、入れ墨の男はさらにアリョーシャ副牧師の頭を銃身で殴ると、彼が気絶したのを見て取ってから、再びマリア・ペトローヴナに詰め寄った。
「居場所、と言ったな」
「モーレックはここにはいません。ゴスピタリヤナの軍事病院に向かいましたので。アガサという女性が、モーレックを連れています」
 そう言ってしまってから、命を天秤にかけた罪悪感が押し迫り、マリア・ペトローヴナはその場に泣き崩れた。
 男たちはすぐに出て行った。

 騒ぎを聞きつけた人々が駆け付けてきた。
 顔から血を流して気絶しているアリョーシャ副牧師や、ガラスの破片で腕に怪我をしたソーニャ、それにすっかり動揺して泣き震えている院長の介抱をしていると、そこに新たに金髪の長身男性と、黒髪にディープ・ブルーの目が美しいダークスーツの男が並んで入って来た。

「おやおや、遅かったか」
「お前がちんたら車を走らせるからだろうが」
 金髪の男の方はロシア語を喋ったが、黒髪の男の方は英語だった。
「安全運転。モスクワでスピード違反で捕まったら、下手すりゃ即時拘留されることもあり得るんだからねえ」
 片方はロシア語、片方は英語を話しているのに、どうやら二人の会話は通じているようだ。
 黒髪の男が不機嫌そうに携帯を取り出して、どこかにかけはじめた。
「ダメだ、なんだってこんなときにあの女は電源を切ってるんだ」
 
 それを聞いてから、金髪の男の方が、ロシア語で受付にいる人々に向かって優しく語り掛けた。
「こんにちは、僕はニコライ。アガサの友人だ。誰か彼女の居場所を知っていたら、教えてもらえないだろうか」
 先ほどの男たちとは違い、この二人は物腰が柔らかそうではあるし、銃であけすけに脅しつけるような素振りもないが、マリア・ペトローヴナをはじめ、ソーニャや、他のご婦人方も皆一様に、不審な目で二人を見つめた。というのも、血や暴力の現場を前にして皆が動揺している中、ひょっこり入って来た彼らがあまりに落ち着きすぎているので、とても彼らを堅気の人間とは思えなかったのだ。
「彼女に危険が迫っているから、助けに行きたいんだ。頼むよ」
 このとき、黒髪の男がはじめてロシア語を口にしたので、ソーニャの心は動いた。

「アガサはゴスピタリヤナの軍事病院に、モーレックを連れて行っています。17時からの予約で、2時間くらいかかると言っていましたから、きっとまだ病院に」
 時計の針は18時半をさしていた。
「Спасибо, девушка(ありがとう、お嬢さん) 」
 黒髪の男は踵を返すと、ニコライと名乗った金髪の男にまた英語で話しかけた。
「俺が運転する」
 と。
 その後をニコライが慌てて追いかける。
「道がわからないでしょう。土地勘のある僕に任せた方がいいと思うけどねえ」

 突如現れて、そしてまたすぐに去って行く、アガサの友人と自称する二人の男を、一同は呆然と見送ることしかできなかった。





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