恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-4


 子ども部屋の天井には、雨漏りによってできた無数の茶黒い染みができていた。
 無反応な赤ん坊の傍らで、その視線の先にある天井を同じように見上げながら、アガサは言った。
「たったの、4色なんだって――。たった4色あれば、平面上にある図形は、隣り合う図形どうしが同じ色にならないように全て塗りわけられるらしい。あなたはこれをどう思う、モーレック?」
 偶然かもしれないが、このときはじめてモーレックの視線がアガサと重なった。
 ガラス玉のように色の薄い青い瞳が、不思議そうにアガサを見ている。
「本当よ。1976年に、コンピューターが膨大な数の計算をして、証明したの」
 赤ん坊の視線が、また天井に戻る。
「だけど、私はあの証明は美しくないと思う。だって、およそ人には処理できない無数の計算を、力技でコンピューターにやらせただけなんだもの。それって、美しくないでしょう?」
 アガサはベッドの上のモーレックの小さな頭を優しく撫でた。プラチナブロンドの猫毛は、まだ短くまばらだ。
「エレガントな証明は、もっとシンプルで誰にもわかりやすいものなのよ。その答えを、私たちは未だに見つけられずにいる」
 モーレックの瞳が、またアガサに向けられた。
「ねえ、モーレック。あなたはその答えを見つけるかもね」
 アガサは屈みこんで、モーレックの小さな額にそっとキスを落とした。石鹸の香がふわりと鼻に入る。

 アガサがロシアに来て二週間がたとうとしていた。
 教会から派遣された奉仕者たちの手によって、子どもたちには毎晩、沐浴が行なわれている。
 ベッドとシーツは新しいものに取り換えられて、子どもたちの紙オムツや着替えも、今はふんだんにある。
 掃除と改築作業が着々と進められて、ゴリヤノヴォの孤児院は見違えるほど清潔になった。
 シャローム・プロジェクトからの持続的な支援で、滞納されていた水光熱費は全額支払われ、夜でも孤児院は明るくなった。
 労働に対して適切な報酬が支払われるので、教会の貧しい信徒たちの雇用を生んだ。
 天使たちが年に一度、アガサの古城に運び込んでくる荷物の中味が、今こそ役にたったというわけである。アガサはそれを、神の富――と説明したが、聖ペテロ・パウロ大聖堂のアリョーシャ副牧師をはじめ、信徒たちはそれを、世界中の神の僕たちからの献金だと受け止めた。

 アリョーシャ副牧師とソーニャは精力的に働き、持続的な活動を推し進めるために教会と、ゴリヤノヴォの孤児院との連携を強化した。
 また、自分たちの活動をアピールしてさらなる献金を募るために、毎日のように新聞に記事を投稿した。
 はじめのうちは鼻にもかけられなかったアリョーシャ副牧師の投稿記事は、ゴリヤノヴォの孤児院に光が灯り、廃墟と化していた建物の改修がみるみるうちに進められ、さらには孤児院の周囲に教会の婦人たちの手で美しい庭が作られる頃になると、機を得て新聞に取り上げられるようになった。
 大きな記事ではなかったが、教会の婦人たちが剥き出しの路地にレンガで道をつくり、孤児院の周りに薔薇や、ハーブを植栽している様子を写した写真も掲載された。その写真の中には、麦わら帽子をかぶってTシャツとジーンズ姿できゅうりとトマトの畑を作っているアガサの姿も写っていた。

 はじめはローカル紙しか取り上げていなかった記事が、今ではモスクワ新聞にも掲載されている。
――暗闇に、希望の光。
 聖ペテロ・パウロ大聖堂の敬虔なキリスト教徒によって、ゴリヤノヴォの孤児院がにわかに活気づいている。
当孤児院は、かねてからの地域の治安の不安定さにより、ここ二週間で少なくとも二回にわたり略奪にあっている。しかし、信徒たちの弛まぬ情熱と神の恵みが、子どもたちを守り、地域に新たな活力をもらたしている。これらの善意ある活動、シャローム・プロジェクトへの寄付の窓口は、聖ペテロ・パウロ大聖堂のアリョーシャ副牧師まで。運転手、調理場コック、大工労働者の数が不足している。求職者は同教会へ連絡されたし。

 新聞の記事や、教会で作った手作りの広告を見て、多くの働き手たちが集まってきた。





 ロサンゼルスで行儀の悪いギャングをとっちめた後、ドラコはスーツの汚れを払ってから、愛車のストラダーレに乗り込んだ。
 メキシコから麻薬を運び込もうとするギャングたちには困ったものである。
 マフィアの中には、麻薬取引を資金源にする組織もあるが、アルテミッズ・ファミリーは断じて麻薬を擁護しない。
 麻薬は地域を腐らせ、治安を悪化させ、組織間の理性的な制御を奪うからだ。ドラコも麻薬は好きじゃなかった。

 古城への道をストラダーレで滑走しながら、車内電話で番号を呼び出す。
 ほどなくして電話の向こうから眠そうな声が返って来た。
『アロー、ボス。こっちが今何時かわかっているよねえ』
『もうすぐ朝だろ? それと、俺がボスだったのはニースの仕事でだけだ。名前で呼べよ、ニコライ』
 寝返りをうつ息漏れの音がする。
『何か、機嫌が悪そうだねえ。ちなみにこっちはまだ、明け方の3時なんだけどねえ。悪者たちも寝てる時間さ』
『今日の、いや、そっちにとっては昨日か、モスクワ新聞を読んだか?』
『もちろん、いつも読んでるよ』
『ゴリヤノヴォの孤児院にアガサが行っているんだが、週に一度は略奪行為があると読んだ』
『あの地域は荒れているからねえ。金品をせびられたら、抵抗せずに渡すほうがむしろ安全だ。まあ、僕が見る限り、アガサは略奪者に対してもむしろ与えたがっているように見える。そういうところ、彼女って本当に変わってるよねえ。――彼女はコソ泥たちに、窓を割らずに正面から入るように伝えて、持ちきれないほどの食糧を持たせて帰らせてるんだ。お決まりの聖書の文句を添えてね。あの時のコソ泥たちの呆気にとられた表情といったら、』
 電話の向こうで、ニコライがクックックと笑い出す。
『アガサに会ったのか?』
『いや、【僕は】接触していない。まあ、ニースでは世話になったからねえ、初日にちょっと部下に送らせただけで、あとは遠くから見守っているだけだよ。彼女の方はこちらに気づいてもいないよ』
『あの地域を仕切ってるのは、お前のチームだろ、ニコライ』
『言いたいことは分かるよ。もちろん、ゴリヤノヴォの孤児院に手出ししないように、ちゃんと手を回してあるから、心配しないで。けど、地域の治安の悪さでいったら、ゴリヤノヴォの連中はもうみんなアガサのことが好きになってしまっているみたいだから、そっちの方はあまり心配してないんだ。むしろ地域が連携して、カトリック教会やロシア正教会まで巻き込んでさ、モスクワ全体の孤児院の活性化に向けて、動き始めているくらいだからね』
『何か他に、懸念すべきことがあるみたいな言い方だな』
『鋭いねえ。実はさあ、想像よりも悪いことが起きそうなんだよねえ』

 一呼吸を置いてから、ニコライが不気味に喉を鳴らした。

『ブラトヴァだよ』

 ロシア・マフィアのブラトヴァ。
 アルカトラズでもやり合った相手だ。
 『盗賊の掟』を掲げるブラトヴァは結束力が固く、【法に則った盗み】を心情とするプロ集団だ。
 このロシア最大の犯罪勢力に抗うため、アルテミッズ・ファミリーのドン・フェデリコはあえてニコライをボスにしてモスクワに支部を進出させているが、ブラトヴァのやり口があまりに過激で見境がないので、勢力争いには苦戦を強いられているというのは、ドラコも耳にしている。
 ブラトヴァが裏切りを禁じ、仲間を重んじるのはアルテミッズ・ファミリーにも通じるところがあるが、国家機関との妥協を禁じるという、ソ連時代から続く掟は風化し、最近は国家権力との癒着がむしろ目立つようになってきているのが厄介だ。
 今や警察や司法権力を後ろ盾にして人身売買や麻薬取引、武器取引、暗殺など様々な闇のビジネスで大手を広げているが、果たしてそれがシャローム・プロジェクトのような孤児院への慈善活動にどう関わってくるのか、ドラコにはいまいちピンとこなかった。

『わからないな、奴らがゴリヤノヴォのような小さな孤児院に興味を示すのか? 人身売買がらみなら、孤児院に連れてこられる前にブラトヴァが手を回しているはずだ。むしろ、奴らは白昼堂々赤ん坊を盗むだろう』
『――昨晩、一人の娼婦がモスクワ運河で遺体となって発見されたんだ』
 何やらきな臭くなってきたことに、ドラコはストラダーレのハンドルを切りながら、眉をひそめる。
『娼婦の名前はマリヤ・スカノヴァ。ブラトヴァ・ファミリーのドン、ウラジミールの一人息子の愛人だった女だ。彼女は、ウラジミールの一人息子ペトロフの子を出産したんだけど、その子どもは未熟児で生まれて、障害があったし、娼婦は子を望んでいなかったから、ペトロフには内緒で子どもを捨てたらしいんだよ』
 まだ話が見えないので、ドラコは黙ってニコライの話の続きを待った。

『ペトロフはこの前のニースの仕事のときにボス、おっと、つい癖でそう呼んじゃうね、ドラコが撃ち殺したあの機関銃の男だよ。覚えている?』
 もちろん、覚えている。
 アルカトラズのオークション会場で撃ち合いになったとき、軍用の大型機関銃で会場にいる多数を虐殺したキチガイ野郎だ。
 なるほど、一人息子にとどめを差したのがドラコだと知れば、ブラトヴァ・ファミリーは怒るだろうな、と、ドラコはどこか他人事のように思った。
『けど、それは大きな問題じゃないんだ。ドラコがペトロフを殺したことは俺たち以外は誰も知らないし、アルカトラズに乗船していた者は全滅したと信じられているからね』
 ただし、と、ニコライは続けた。
『ブラトヴァ・ファミリーのドン、ウラジミールは、アルカトラズの一件で息子を失った悲しみのあまり、忘れ形見の孫を今更になって探し求めているのさ。赤ん坊の名前は、――モーレックというらしい。ウラジミールはマリヤから赤ん坊の居場所を聞き出した後、孫を捨てた腹いせに彼女を殺して川に捨てたという経緯だ』
 イヤな予感がした。
『もしかして、そのモーレックという赤ん坊が、』
『そう、アガサのいるゴリヤノヴォの孤児院にいる』
 ドラコは古城の前でストラダーレを停車させ、車のエンジンを切った。
 それだけで、不気味な静けさが押し寄せるが、さらに、車内電話の向こうからニコライの声が暗く響いた。
『金品なら惜しみなく差し出すアガサでも、ウラジミールのような邪悪な男に素直に赤ん坊を渡すとは思えないだろ。ブラトヴァの奴らが赤ん坊を強硬に奪い取りに来るのか、はたまたウサギの皮を被って里親に名乗りをあげてくるのかはともかくとして、いずれにしても、アガサならすぐにウラジミールの正体を見抜いて、赤ん坊を渡さないような気がするんだ。そうなれば、きっとブラトヴァの奴らは容赦しないだろう。
 ウラジミールは、本当に危険な男だ。――アガサのような堅気の女性が、絶対に歯向かってはいけない相手、なんだよねえ……』





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