恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-3


 翌朝、ゴリヤノヴォの孤児院に向かう途中、カザンスキー駅のアーケード内で子どもがパンを盗み、アガサたちのいる方へ駆けて来た。アリョーシャがすかさずその少年を抱き留めるように捕まえると、『盗みはいけないことだよ、なぜなら僕たちにはすでに神からの十分な恵が与えられているのだから』、と言った。ソーニャが少年に紙切れを渡し、『日曜日に教会に来なさい、そこであなたは必ず満ち足りるから』、と少年に伝えた。
 パン屋の店主が怒って追いかけてくるのを見て、アリョーシャとソーニャは少年を放し、行かせた。
 アリョーシャは少年を許すように店主に話したが、店主が尚も警察に通報すると騒ぎたてるので、パンの代金だといって10ルーブルコインを3枚手渡した。アガサは後で知ったことだが、それは兄妹のその日の全財産だった。彼らはそのお金で、アガサを連れてゴリヤノヴォの孤児院までの片道の切符を買おうとしていたのである。帰りのことは、また後で考えるつもりだったらしい。

 それなら、電車はやめてタクシーで行きましょう、とアガサは提案した。
 神が備えてくださっているので、お金のことは何も心配いらない、と説明すると、兄妹は子どものように喜んで従った。

 ゴリヤノヴォの孤児院までは、車で片道20分ほどだった。
 建物を見上げて、アガサは胸が締め付けられた。崩れかけた、石積みの二階建ての孤児院は、外壁がひどく黒ずんで、緑がかった瓦の屋根は大部分が剥がれ落ちていた。雨が降れば雨漏りをしてしまうだろうことが、容易に想像できた。
 建物の周囲は舗装されていないので、剥き出しの土があちこちに飛び跳ねて、建物自体の廃墟感と相まって不衛生な印象を与えていた。

 院長のマリア・ペトローヴナは60代半ばの慇懃な人で、眠れないのか、酷くやつれた顔をしていた。
 元は夫婦で孤児院を切り盛りしていたらしいのだが、資金繰りが困難となったことで夫は徴兵に応じ、そのまま戦争で命を落としてしまったと、後でアリョーシャとソーニャがアガサに教えてくれた。今は、ゴリヤノヴォの孤児院はマリア・ペトローヴナとその一人娘が、数人のボランティアたちの助けをかりて、その日一日をなんとか切り盛りしている状態だった。
 国からの支援はスズメの涙ほどで、たまに個人から寄付金が入っても、地域の治安が悪いので食糧やお金はすぐに盗まれてしまうのだという。

 アガサが訪問したとき、孤児院に収容されているのは、3歳以下の子どもたちが男児ばかり7人。
 適切な医療を受けさせることができないので、多くは3歳になる前に死んでしまうのだという。よほど幸運であれば、自分で食い扶持を稼げる年齢まで育って、孤児院を巣立っていくこともあるというが、この地域で里親を見つけることはほぼないらしい。マリア・ペトローヴナは明確な表現を避けたが、この孤児院で保護している子どもたちはいずれも出生に後ろ暗い事情があることが、里親を見つけられない原因のようだった。
 孤児院に女児が一人もいないのは、人身売買の盛んなロシアの裏社会で、女児は生まれてすぐに売られていってしまうからだ。
 その元締めとなっているのが、ロシアン・マフィアのブラトヴァだ。アルカトラズの一件で、アガサもその名前を耳にしていた。

 何から始めましょうか、と、マリア・ペトローヴナが言うので、アガサはまず子どもたちに会わせてくれるように頼んだ。
 マリア・ペトローヴナは、その申し出を快く受けてはくれたが、彼女の表情にはどこか後ろめたさそうな、躊躇いの影が浮かんだ。

 アガサにはその理由がすぐに分かった。
 子供部屋に入ると、まず最初に糞尿の臭いがした。それにかすかに、嘔吐物の臭いも。
 マリア・ペトローヴナの説明では、使い捨てのオムツが買えないので、布オムツを使っているのだが、それも充分に数がないので、洗いまわしが間に合わずに、オムツの交換はどうしても最小限になってしまうらしかった。そのせいで、布オムツから漏れた排泄物がベッドに沁み込んでしまって、悪臭の原因になっている。また、子どもたちは粉ミルクや離乳食をよく吐き戻した。何かの感染症かもしれないし、げっぷ出しなどの哺育管理に手がまわらないせいかもしれない。

 子どもたちの入浴は、週に一度できればいい方だと聞いた。
 公共の光熱費を支払うこともままならず、お湯は薪を燃やして沸かす必要があり、電気や暖房も最小限で、ゴリヤノヴォの孤児院は昼間でも薄暗く、寒々しかった。
 どの子どもも表面上は綺麗に見える様に拭き取られていたが、近づくと臭かった。
 それでも、子どもたちはマリア・ペトローヴナが入って行くと、嬉しそうに目を輝かせたり、甘えて泣き出したりするのだった。

 中に一人、とても静かな赤ん坊がいた。
 その子は仰向けに寝かされて、アガサたちが部屋に入って来たことにも気づかないのか、天井をジーッと見つめていた。
 ひどく痩せて、小さな赤ん坊だったが、もうじき1歳になるということを教えてもらった。
 マリア・ペトローヴナの知る限り、その子はこれまでに泣いたことがなく、ミルクや離乳食も嫌がってほとんど食べないのだという。彼女は、その赤ん坊には何か知的な障害があると考えているようだった。医者に診せたわけではないが、日に日に痩せる一方なので、おそらくこの子はもう長くもたないだろう、と、マリア・ペトローヴナは悲しそうにアガサに言った。

 その赤ん坊の名は、モーレックといった。
 赤ん坊を捨てていった娼婦がつけた名前だというが、それを聞いたアガサはさらに心を痛めた。なんて酷い名前だろう。
 ヘブライ語のモレクを語源とするその名前は、古代の中東の神の名前だ。涙の国の君主、母親の涙と子どもたちの血に濡れた魔王という意味があり、悪魔的な儀式の象徴でもある。それは実の母親が子どもにつけるにはあまりにも悲しい名前だった。

「はじめまして、モーレック。私の名前は、アガサよ」

 そう呼びかけても、やはり赤ん坊は微動だにしなかった。


 やるべきことは多かった。
 その日は孤児院の視察にとどめ、アガサは急いで聖ペテロ・パウロ大聖堂に戻り、アリョーシャ副牧師とソーニャとともに、シャローム・プロジェクトの今後の仕事の進め方について話し合った。
 多くの買い物リストを作り、車の手配をし、教会から奉仕者を募ることにして、その日は一日が終わってしまった。
 明日は朝早くから大仕事だ。
 皆で買い物に出かけ、紙オムツや質のいい粉ミルクをたくさん買って、シーツやマットレスも全部交換するのだ。
 まずはあの不衛生な環境を一掃しなければ。

 アガサは、教会からの奉仕者たちには、シャローム・プロジェクトから正当な報酬を与えることを約束した。そして、その日の食事もこちらで準備するから心配することがないようにと、アリョーシャ副牧師からすべての奉仕者たちに伝えてもらった。

 腕のいい大工もいる。どんなにお金がかかってもいいから見つけてほしいとアガサが頼むと、アリョーシャ副牧師とソフィアはその日のうちに、教会の信徒の中にいる一人の大工を推薦し、アガサに紹介してくれた。通称、エミール爺さんだ。
 エミール爺さんは齢70を迎えようとする小柄な体格の、だが、筋骨隆々、まだまだ現役を張っている元気な老人だった。
 アリョーシャ副牧師の話では、エミール爺さんが信徒であるのに大酒飲みであることは有名らしい。曰く、ウォッカがエミール爺さんの元気の秘訣らしい。
 昔は宮廷や歴史的建築物の補修作業にも携わったことのある、腕のいい大工だが、近年の不景気を受けて、仕事をしても支払いを踏み倒される事が重なって、エミール爺さんの稼業は倒産目前まで追い込まれていた。
 シャローム・プロジェクトの資金でゴリヤノヴォの孤児院の全面改修依頼をすると、敬虔なキリスト教徒であるエミール爺さんは喜んで引き受けてくれた。
 アリョーシャ副牧師立ち合いの元、アガサはその日の夜にはエミール爺さんと契約を交わし、前金を振り込んだ。
 これで家族や従業員を養えると、エミール爺さんは神に感謝した。





 ミニホテル・コムサモルスカに戻ると、アガサはばったりとベッドに倒れ込んだ。
 朝から晩まで動きどうしだったので、体中が痛い。たえず不慣れなロシア語で会話しているので、頭もガンガンした。
 間もなく夜の10時だったので、アガサはショートメッセージを打った。
――首尾良好。おやすみ
 シャワーは明日の朝にしようと、そのまま力尽きて目を閉じる。
 と、枕元で携帯のバイブ音が鳴り始めた。
『アロー? (もしもし)』
 着信画面を確認せずに電話に出ると、
『すっかりロシアに染まったようだな』
 と、聞きなれた声がした。
『もう寝てるんだけど』
『お疲れのところ悪いんだが、伝えておきたいことがあるんだ』
『何なの? まさか私の部屋に勝手に入ったんじゃないでしょうね』
『いや、まだだけど』
 電話の向こうの声は呑気だ。【まだ】、ということは、【これから】押し入るつもりなのか。
 でも、今はそれを突っ込んでいる気力はない。
 目を閉じたまま話の続きを待っていると、ドラコが続けた。
『実は、街で猫を拾ったんだ』
 猫? 遠くなりかけた意識を手繰り寄せながら、アガサは頭の中にドラコが猫を抱いている姿を思い浮かべようとしたが、疲れているせいか上手くイメージできなかった。
『ここに置かせてもらってもいいかな』
 別に構わない、という旨の内容を、アガサは夢うつつになりながら返した。ただし、
『本当に飼うなら、餌とか、トイレとか、ちゃんとお世話してあげないと可哀そうなことになるのよ。あなたにちゃんとそれができる?』
『さっき猫缶とトイレを買って戻ったところだ。ところが、目を放した隙にどこかに行ってしまったみたいで……、姿が見えない。まいったよ、多分、城の中のどこかにはいると思うんだけど』
『ちゃんと見つけてあげてよ』
『わかってる』
『あと、病院で検査をしてもらった方がいいわ。野良猫だったなら、ワクチン接種も必要よ』
『連れて行くよ』
 アガサには意外だった。
 初めて会ったとき、ドラコは動物にはあまり興味がないように見えた。
『あなたが猫好きだとは知らなかったわ。いいところあるのね』
 アガサがそう言うと、電話の向こうのドラコはややしばらく沈黙した後、戸惑った様子で返してきた。
『この城に一人にされて寂しかったんだ。アイツも寂しそうだったから、つい、柄にもないことをしてしまったようだ』
 子どもみたいなことを言う。
『いつこっちに戻る?』
 聞かれて、まだロシアに来て二日目だということにアガサ自身も気づく。アガサは小さく嘆息した。
『やることがいっぱいだから、しばらくかかりそう。一か月くらいかしら』
『……そうか』
 やけに気落ちした声を、アガサは冗談だと受け止めた。
『私が帰るまでいい子にね、坊や』
 かすかに笑う声がしたのを聞いて、アガサは電話を切った。

 寝返りをうって、本格的に寝る体勢に入ると、ほどなくして今度はメッセージの着信音が鳴った。
 油の切れた体を軋ませながら携帯の画面を開くと、――猫の写真だった。
 青みがかった深い灰色の、毛色が美しい子猫だ。

――可愛い。 a.

――彼女の名前はモーニング。俺がモーニングコーヒーを飲んでいるときに見つけたから。 d.

 随分と安易な名前をつけられたものだな、と、思いながら、アガサはそのまま気絶するように深い眠りに落ちていった。





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