恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-2
ロシアのモスクワ州ヒメキ市にあるシェレメーチエボ国際空港に到着したアガサは、肌寒さに春物の薄いトレンチコートの襟を立てた。
予約しているホテルまでは車で30分ほどなので、慣れない土地で鉄道を乗り継ぐよりも迷わずタクシーを拾うことにした。
ロシア語は得意ではなないものの、ノーヴァヤ・バスマンナヤ・ウーリツァ通りの聖ペテロ・パウロ大聖堂に向かって欲しいというアガサの言葉は、なんとか通じたらしい。
旅行者なのか、と聞いてきたので、そうだ、と答えると、20代のまだ若いタクシー運転手はルイスと名乗って、人懐っこくさらに話しかけてきた。
「お客さん、とてもいい顔をしてなさるね。わたしが観察する限り、利用者の半分以上が暗い表情でタクシーに乗り込んでくるんですよ」
ロシア人から見ると、自分はそんなに能天気にヘラヘラした顔をしているのだろうか、と、アガサは少し心配になった。
「いや、そうじゃありませんよ。ただ、あなたは優しそうで、チャンスさえあれば誰かに幸せを分け与えようとしている人に見えた、ってだけです」
初対面の客にそんなことを言ってくるなんて、変わった人だな、と、アガサは思った。
よくよく聞けば、彼は暗い乗客が乗って来た時は、信号待ちの時にウクレレを弾いて歌ってあげるらしい。助手席にあるかなり使い込まれたウクレレを、実際にアガサに見せてくれもした。
「ロシアのタクシー運転手さんって、みんなあなたのようにユーモアがあるの?」
アガサが聞くと、ルイスはクスクスと笑って肩をすくめた。
「ぼったくりをしたり、お釣りをごまかしたり、悪い運転手もいるから気を付けて。でも、よく海外のお客さんが言うのを耳にするんですがね、どうやらロシアには世界でも類を見ないような変わり者が多いという話です」
アガサはロシアに来たのは初めてだが、ルイスの話には多少の覚えはあった。
陥没した道路をコンクリートで補修する代わりにレンガや木材で埋めたり、右の急カーブを注意する道路標識が左の急カーブを示していたり、ガードレールで塞がれて渡れない横断歩道があったり。そういう話を耳にしたことがあった。日本からアメリカに行くと、文化的に大雑把なことに驚いたりするが、そのアメリカからロシアに来てみると、さらに大雑把が上振れしている感じだろうか。
時刻は夜の10時を回ろうとしていた。
ドラコへの定時連絡は毎晩、夜10時頃にすると伝えてあったことを思い出して、アガサは鞄から携帯電話を取り出した。今、ロサンゼルスは昼の12時頃だ。
空港にいる間は電源を切っていたので、電源を入れ直してWi-Fiを復旧させた。すると、すでにメッセージが届いていた。
――無事についた?
タクシーで教会に向かっていることを伝えると、ホテルに着いたらまた連絡するようにとのメッセージがすぐに返って来た。
「ボーイ・フレンドですかい? 嬉しさ半分、煩わしさ半分という顔をしていますね」
暗い車内で、バックミラーごしにそこまで表情が読み取れるものなのかと、不思議に思いながらアガサは答えた。
「友人よ。ちょっと過保護なところがあって、私のことを子ども扱いしてるの」
「それは、きっとあなたのことを大切に思っているからですよ」
「ええ、そうかもね」
ルイスは笑うと笑顔が素敵な、歯並びのいいハンサムな青年だった。
ほどなくして、ルイスの運転するタクシーはノーヴァヤ通りに面する、白とピンクを基調とする大きな教会の前で停車した。
尖塔の先に十字架が立っているので、すぐにそれとわかる、聖ペテロ・パウロ大聖堂だ。建物自体はとても美しいが、外壁や、建物を囲む塀が崩れかかって、すぐにも修復が必要に見えた。
「こんな遅くに、教会でいいんですか?」
「こっちを案内してくれる知人が待っているはずなの」
アガサはルイスに丁寧に礼を述べると、チップをはずんで、彼のビジネスカードをもらった。
「帰りもあなたにお願いできると嬉しい」
「もちろん、喜んで。いつでも電話してください」
そう言ってルイスは、アガサが正面の門から教会に入るまで車を発車させずに待って、見届けていてくれた。
どこか寂しげで不安のたちこめるモスクワの、夜の暗さを知らないわけではない。この土地には悲しみや、痛み、人々の無関心がある、と、車を降りた瞬間にアガサは肌で感じ取った。
けれど、彼はその中にあっても光を見続けている杞憂なロシア人なのだ。アガサは、旅の初日をルイスに励まされた気がして、心が温かくなった。
シャローム・プロジェクトは、世界中にある教会とネットワークを築きつつある。
聖ペテロ・パウロ大聖堂もその一つで、副牧師のアリョーシャと、その妹のソーニャが、ゴリヤノヴォの孤児院を仲介してくれることになっていた。
二人とも赤みがかったブロンドの巻き毛で、オリーブ色の目をもつ、優しそうな顔立ちをした20代の兄妹だ。
簡単な自己紹介と、遅くまで待っていてくれたことに心からの礼を述べると、シャローム・プロジェクトの詳しいことは翌日に回そうということになって、アガサはすぐに教会の隣のミニホテルに案内された。
ミニホテル・コムサモルスカ。
部屋は2階で、パステルカラーの黄色とパープルの壁が印象的だった。簡易キッチンと、ダイニング、ツインベッドが、ワンルームの中にうまい具合に配置されている。全体的に素朴な印象ではあるが、部屋は広々としていて清潔感もあり、気取らずにゆっくりと休めそうだった。
翌朝の待ち合わせ時間を確認して、アリョーシャとソーニャはすぐに帰って行った。
教会のキャンドルの光の中では気づかなかったが、ホテルの部屋で見たときに、二人の着ている服や靴が、かなり擦り切れてよく使い込まれたものであることに、アガサは気づいた。肘や靴のつま先の破れには当て布がされ、いづれも小奇麗に磨かれているのだが、そこまで古いなら修理するよりも新しいものを買った方がいいと思えるほどで、彼らの生活の貧しさが窺い知れた。
鞄の中で、携帯のバイブ音が鳴っていた。相手が誰なのかは着信画面を見なくても分かる気がした。
『もしもし? 無事ホテルに着いたわ』
開口一番にそう伝えると、電話の主はやや不機嫌に返してくる。
『連絡をしてくるのが遅い。そっちからかけてくるはずだろう』
『11時間半のフライトでくたくたで、それに、バタバタしていたものだから。ついさっきまで、アリョーシャ副牧師と、彼の妹のソーニャに挨拶をしていたの。とてもいい人たち。明日から、彼らと一緒に孤児院を訪問するわ』
それからアガサは、聖ペテロ・パウロ大聖堂がいかに素晴らしい建物かということ、老朽化が進んでいるので建物の修復が必要だと感じたこと、それから空港から教会まで利用したタクシー運転手のルイスのことや、モスクワ全体に漂っているどことなく暗い雰囲気について、しまいにはホテルの部屋の壁がパステルカラーで可愛らしいことなどを、次々にドラコに話して聞かせた。
話があまり長くなってしまったので、電話の向こうでドラコがちゃんと話を聞いているのか心配になったが、それに気づいたのはすでに全てを話し終えたときだった。
「ドラコ、聞いてる?」
意外にも、ちゃんと聞いているよ、と言う応答がすぐに返って来たので、ホッとする。
話を切り上げるつもりで、アガサは最後に言った。
「ここに来て良かったと思ってる。時期を早まったんじゃないかって、出発前は少し不安だったのだけど、今、神が私をここに導いた理由がきっとあるのだと思う。明日から忙しくなりそうだから、もう寝るわね」
電話の向こうはまだ昼を少し過ぎた時間だったが、ドラコが「おやすみ」と言うのを聞いて、アガサは電話を切った。
電話を切ってしまってから、アガサは少し申し訳ない気持ちになった。気兼ねなく話せてしまう相手だから、あまりにも一方的に話過ぎてしまったと思う。
もしかしたら、ドラコの方にも何か言いたいことがあったのではないか、という気がした。例えば、古城の水や電気やガスの循環システムのことで、何か困っていることがあるとか。
だから、アガサはシャワーを浴びて、眠る前の祈りを捧げた後に、ドラコにメッセージを送った。
――『もし困っていることがあったら、いつでも連絡して。 a. 』
返事が割とすぐに返って来たことに、アガサは焦る。やはり、何か困っていることがあったか、と。
――『君の部屋の鍵はどこ? d. 』
アガサは携帯の画面をすぐに消し、少しでもドラコのことを心配したことを後悔した。
ついに部屋を見つけられてしまったようだが、別に見られて困るものはない。でも不在の間に万が一にもクローゼットやドレッサーを物色されるのは、女性としては気持ちがいいことではない。
念のため鍵をかけてきて正解だったようだ。
アガサは返信することなく、安心して眠りについた。
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