恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-12


 帰りもあなたにお願いしたい、と言った通り、アガサはタクシー運転手のルイスを呼び出した。
 ドラコの顔を見たらウクレレを弾き出すかもしれないと思うと、アガサは少し楽しみになる。

「そろそろタクシーがくるけど、もう出られる?」
「いつでもいいよ」
 すでに教会や孤児院の皆には別れの挨拶を済ませていた。
 ブラトヴァがまたいつ攻撃をしかけてくるかも分からない状況なので、アガサとドラコは、まだ教会のみんながガーデンで食事を楽しんでいるうちに、ひっそりと聖ペテロ・パウロ大聖堂を後にした。彼らが秘かに旅立つことは皆、承知の上だ。

 ルイスのタクシーは、教会から歩いて9分の所にあるカザンスキー駅の乗り場に来てくれることになっていた。
 アガサは抱っこ紐でモーレックを胸に抱え、身の回り品だけを肩から下げていた。スーツケースは先に国際宅配で送り返した。
 ドラコの方は旅先で必要な物はいつも現地調達をする人なので、自分の荷物がないかわりにモーレックのベビー用品の入った、機内持ち込み用のドラムバッグを持ってくれていた。

「どうしてそんなに小さな赤ん坊に、こんなに大がかりな荷物が必要なのか、理解に苦しむよ」
「11時間以上のフライトなのよ? ミルクにオムツ、予備の着替えに、寒かった時のおくるみ。必要なものしか入っていないんだから、絶対に無くさないでね」
 太い道を避けて路地を進み、いくつか角を曲がっていくと、前方に黒いベンツが二台停まっているのを見つけて、ドラコが不意にアガサの腕を掴んで引き留めた。
「まずいな」
「なんなの?」
「ブラトヴァだ」
 ドラコは路地の曲がり角に身を潜めて周囲を素早く見回し、迷うことなくアガサに一本の道を指し示した。
 道は、アガサたちが今進んできたカザンスキー駅までの最短路の他に、右に迂回して陸橋を渡る道と、左に迂回して入り組んだ細い路地を遠回りする道とがある。
 ドラコは陸橋を指さしてアガサに言った。
「アガサはモーレックを連れて、あの陸橋を渡って全力で駅まで走れ。今やつらが持っている銃の射程距離はせいぜい50メートルだから、よほど運が悪くなければ弾は当たらない。だから、もし銃声が聞こえても怖がらずに走り続けるんだ。できるな?」
「わかった。けど、あなたは?」
「俺は左側から奴らに近づいて、アガサが駅にたどり着くまで注意を引き付ける。悪いけど、この荷物はここに置いていくからな」
 荷物は惜しいが、命には代えられない。
 アガサは従った。
「……わかった」
「いい子だ」
 ドラコは腰のホルスターから銃を抜き、片手でアガサを抱き寄せて額にキスをした。
「じゃあ、駅で。もし俺が遅れたら、俺のことは放っておいてすぐにタクシーに飛び乗って、モーレックと一緒に空港に向かうんだ。わかったな?」
「私が遅れても置いていくつもり?」
 アガサがあまりに深刻にそう質問するので、ドラコの表情がいくばくか綻ぶ。
「置いていくわけないだろうが。だから、死ぬ気で走るんだ」
 今だ、というふうにドラコが指で合図したので、アガサは言われた通りに陸橋を目指して全速力で走り出した。
 直後に、背後でいくつもの銃声が沸き起こる。多分、最初に撃ったのはドラコの方だ。

 ブラトヴァのベンツの位置からは、陸橋の足元の階段付近は死角になって見えないはずだった。
 アガサは迷わずに一気に階段を駆け上った。体が揺さぶられて、モーレックが苦しそうにうめき声を上げている。
「ごめんね、モーレック、あと少しの辛抱だから」
 アガサは片手でモーレックの頭を支え、陸橋の上を走った。赤ん坊を抱えているせいか、極度の緊張のせいなのかはわからないが、早くも疲労で足がもつれ始める。
カーン!
 半分ほど陸橋を渡ったところで、何かが手摺に当たって火花が飛んだ。
 咄嗟に悲鳴が口をつき、モーレックを抱きしめて身を屈める。
「ああ、神様……」
 左側の路地の方では、より一層激しい銃撃戦の音が巻き起こっていた。まるで戦場のようだ。
――よほど運が悪くなければ当たらない。
 そう言ったドラコの言葉を信じ、アガサは立ち止まらずに走り続けた。息が上がり、足がもつれて転びそうになるのを耐えて、アガサは陸橋の階段を息も絶え絶えに下り始めた。
 カザンスキー駅はもう目と鼻の先だ。乗合所に何台かの黄色いタクシーが見えて、その中の一台がアガサの方に向かって走って来た。

「アガサ、乗って、早く!」
 ルイスだった。
 アガサは後部座席のドアを開けて、無我夢中で中に転がり込んだ。ドアを締める前にルイスが走り出し、その勢いでドアが閉まる。
「ドラコが反対側の路地にいるの!」
「了解。頭を伏せて!」
 ルイスはハンドルを切り、銃撃戦の中を潜り抜けて反対側の路地の前に猛スピードで滑り込んで、ドリフトさせながらタクシーを停車させた。
 混乱する頭の片隅で、やけに手慣れているな、とアガサは不思議に思う。
 ロシアのタクシー運転手は銃撃戦にも慣れっこなのだろうか。
 顔を上げると、ドラコが後部座席に滑り込んできて素早くドアを閉めた。
 全速力で走って来たと見えて、ドラコは汗だくで、苦しそうに息をしていた。焼けるような、火薬の臭いがする。
 でも、どうやら怪我はしていないようなので、アガサはホッとする。
「飛ばすから、しっかり捕まっててくださいよ!」
 後方からの銃弾がリアウィンドウに当たって、欠片が降って来た。咄嗟にドラコがアガサの頭を手で覆い、体を被せる。
 ルイスはタクシーを急発進させた。銃声が後方に遠ざかっていく。
 息が整い、心拍数が落ち着くまで話すこともままならない状況の中、ドラコが後部座席に座り直して、運転席に声をかけた。
「久しぶりだな、ルイス。元気そうじゃないか」
 ルイスがわざとらしく大きく咳払いをした。
「ちょっと、知り合いみたいに話しかけないでもらえます? 彼女には正体を隠しておきたかったのに、もう……」
 アガサがきょとんとしていると、ドラコが説明してくれる。
「ルイスは俺たちの仲間だよ。こっちでニコライと一緒に仕事をしている」
「驚いた。タクシー運転手も仲間に勧誘しているの?」
 それを聞いたルイスがクスクスとと笑った。
「こっちは副業ですよ。タクシー運転手をしていれば、どんなところにも怪しまれずに行けるし、いろんな人と話をすることができますからね。事実、わたしも貴女とお近づきになることができたわけです」
「噓でしょ、ロシアに来た最初の日は、空港で偶然あなたのタクシーを捕まえただけだと思っていたのよ」
「残念でした。ボスの、つまりニコライから、貴女を無事に目的地まで送り届ける様に言われていたんですよ。――わたしが思うに、この世の中に偶然なんてことは、ほとんど無いに等しいんですよ」
 パリの空港で【偶然】だと思ってエマと再会したことが、アガサの脳裏に鮮明にフラッシュバックする。
「私、ウクレレを弾く面白いタクシー運転手に出会ったって、ドラコに自慢しちゃった。知り合いだったなんて、恥ずかしいじゃない」
「お前、いつからウクレレなんか弾くようになったんだ?」
「こっちに来てタクシーを乗り回すようになってからだから、かれこれ3年ですかね。本当はギターの方がいいんですが、タクシーの中じゃ弾けないですからね。こんなに差し迫った状況じゃなければ、幸せな家族の門出を祝って一曲ご披露したかったんですが、おおっと、どうやら追っ手がきたみたいだ」
 バックミラーを見て、ルイスは急ハンドルで道を右折し、細い路地を猛スピードで疾走した。
 片手でアシストグリップを、もう片方の手でモーレックをしっかり抱きかかえて、アガサは恐怖のあまり固く目を閉じた。
 これは、ある意味ドラコの運転よりも恐ろしい。
 そんなアガサをよそに、隣のドラコは呑気にグロックの弾倉をチェックして、装填をし直したりしている。
「あいつら、街中でAKをぶっぱなしてきた。油断したよ。スミス&ウェッソンしか持っていないように見えたから、あの陸橋までは届かないと思ったのに、あれにはさすがにヒヤッとしたね」
 アガサがパッと目を見開く。
「どういうこと? 射程距離は50メートルだから、よほど運が悪くなければ当たらないんじゃなかったの?」
「正直なところ、すごく運がよかったから当たらなかったんだ。あのAKの一発は危なかったよ、本当に」
 当たらないというから信じて走ったのに。
 頭にきて、アガサは汗で濡れたドラコの額をぺちんと叩いた。
「危なかったよ、じゃないでしょう、他人事みたいに言って! こっちは【子持ち】なのよ? あれが当たってたら死んでたかもしれない!」
「ごめんて。けど俺も頑張ったんだよ。奴らが君に向けて発砲したのはたった一発だっただろ。――誰のお陰だと思う?」
 俺様のお陰だ、とでも言いたそうなドラコの態度に腹をたてて、アガサはフンと鼻を鳴らした。

「きっとブラトヴァの連中の腕が悪かったのね。どうりで、あなたにも一発も当たっていないわけだわ」
「その言い方はあんまりだろ。俺が怪我をしてもよかったっていうのか」
「まさか! そんなわけないでしょ。あなたが無事でホッとしたわよ」
 アガサと会話しながらも、ドラコは割れたリアウィンドウの隙間から銃を構えて、背後に迫ってきた黒塗りのベンツめがけて続けざまに二発撃った。
 耳がキーンとして、モーレックが泣き始めた。
「本当。惚れ直した?」
 上手い具合に前輪のタイヤに当たったらしく、ベンツは車線を外れてガードレールに激突した。
 ドラコがまた後部座席に座り直して、満足そうに笑っている。アガサが何か言うのを待っているようだ。

「今から神に感謝の祈りをささげるんだから、空港に着くまでもう話しかけないで」
 アガサは腕の中でモーレックをあやしながら、目を閉じた。

 後部座席の二人のやり取りを聞きながら、ルイスは口元をほころばせる。
 どうやら追っ手を上手く巻くことができたようだ。
 タクシーはファーストクラス専用のカウンター前に、滑らかに停車した。
「いつもそうなんですかい?」
 二人を無事に車から降ろすと、ルイスが別れ際にドラコに話しかけてきた。
「何が」
「さっきの、痴話げんかみたいなのですよ。ニューヨークにいたときの貴方の印象とは、かなり違うなと思いまして」
「そうか? 俺は俺だよ。違って見えるとしたら、それは多分、見える角度が変わったんだろ」
「そうですか。それじゃあ、お幸せに。向こうに帰ってからも、ブラトヴァには用心してくださいね。もちろん、こっちでもうちのボスが監視を続けるでしょうけど」
「ああ、わかってる。世話になったな、ルイス」
「どういたしまして。また会合でご一緒できるのを楽しみにしていますよ」
 そう言って、気のいいタクシー運転手は帰って行った。





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