恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 4-1


 帰りの飛行機の中、アガサの隣で新聞を読んでいたドラコが唸った。
 ベネディクト社の悪事が暴かれたことで、匿名でCov-fox1の治療薬およびワクチンプロトコルが世界中の研究機関に送られたことに注目が集まっている。この賞賛に値すべき優れた働きをした科学者は一体、誰なのか。その取材記事に、フランス国立研究センターが回答していた。
 記事には、かねてからベネディクト社の動向を警戒していた主任研究員のガブリエル・アダンこそが、Cov-fox1治療薬とワクチン開発の立役者であり、その特筆すべき善なる功績を称えて、彼には国民栄誉賞が授与されるとの内容が、熱のこもった調子で結ばれていた。

「すべてあいつの手柄ということになっているが、これは一体どういうことなんだ?」
 ドラコが不満そうに紙面を指ではじき、隣にいるアガサに見せる。
 イヤホンをして機内放送のインサイド・マイ・ヘッドを観ていたアガサは、感動のクライマックスを邪魔されて迷惑そうに涙を拭うと、ドラコが指し示す新聞記事を一瞥しただけで、特に興味を示す様子もなく応じる。
「信憑性を担保するためには、いずれは研究機関の名前を出す必要があったのよ」
「それはいいとして、君の功績については一言も触れられていないのはどういうことかな。これらは全部アガサが設計したもので、ガブリエルは手伝っただけだろ。奴が手柄を独り占めして腹がたたないのか?」
「いいのよ。二人で話し合って、そう決めたんだから」
 アガサが押した再生ボタンを、ドラコがまたすぐに停止した。
 深い海色の瞳が、子どものような純粋な好奇心をきらめかせてアガサの目を覗き込んできた。
 ため息交じりに、アガサが座り直す。
「なぜなら、その方が利害の衝突を避けて、私たちは早くこれを世界に行きわたらせることができると考えたの。もし、私の名前を出せば、私が所属するカリフォルニア工科大学か、最悪は米国政府が、ワクチンや治療薬への開発権利を主張する可能性もあった。フランスとアメリカで無用な名誉争いをして、人命のために本当に必要な薬の開発が遅れるのは避けたかったから、手柄は全部フランスのものにして、ただ彼らの善意で世界中を救ったというお膳立てにしたわけ」
「そのために、金も名誉もすべて奴に渡したっていうのか」
「彼が今回の功績で得た資金と名誉は、今後もCov-fox1を監視し、有事に対応していくために用いられる。それが正しいことだし、彼とそう約束したのよ」
 ガブリエルの科学者としての高い倫理観を、アガサは心から信じて疑っていなかった。
 ドラコはにわかに舌を巻いた。
「見返りを求めないなんて、信じられない」
「あなたたちだって、今回のことでは見返りなんてなかったでしょう?」
「ドンの憂いを晴らし、ワイナリーを守れた。それが俺たちの報酬だ」
「それなら、神の導きに応えることができた。それが私の報酬ね」


 ベネディクト社は世間からの追求に対して、右に左に知らぬ存ぜぬを貫き通していたが、それからほどなくして、ドラコたちが密かに暴露した情報によって、アンダーグラウンドの勢力が報復に動いた。そうしてベネディクト社は完膚なきまでに壊滅せしめられ、社員の中には悲惨な死を遂げた者も出た。
 フランス政府は早い段階でベネディクト社を見限り、フランス国立研究センターを全面後押しする構えを見せている。
 なんとも都合のいい馬の乗り換えだ。





 ロサンゼルスに帰ると、古城の庭がすっかり自然を取り戻して荒れ放題になっている顛末にアガサはまず途方に暮れた。

 大学の仕事の方は、アガサがベガスで発表した、微生物を利用したプラスチックの再利用に関する研究論文が、科学雑誌ネイチャーへ掲載されることが決まり、それまでアガサの研究に興味を示していなかった大学が、旗色を変えた。アガサの研究チームにベンチャー企業から新たに5人の研究員を投入したのだ。
 それまでは、リサイクル分野の研究予算は極限まで絞られて、配置されている研究員はアガサと、大学院生のグレッグ一人だけだったのに、この度の研究成果を受けて、大学側はヘッド研究員をアガサから別のベテランの科学者に置き換えると通達してきた。代わりに、アガサにはアドバイザーというポストがあてがわれた。
 それによりアガサは昇給することになったが、実際のリサイクル分野の研究業務からは遠ざけられ、自らの意思で研究を進めるための主導権も失った。
 微生物を利用して、これまで不要だったプラスチックゴミを効率よく分解し、石油まで精製することができる技術を、金に糸目をつけない企業がこぞって横取りしたがったのも無理はない。大学はアガサの同意なしに、彼女が不在にしている間にあっさりとそれを売り渡してしまったのだ。

 アガサは、大学院生のグレッグに不利益とならないよう、彼をプロジェクトに残留させることと、彼が今まで貢献した内容については、博士論文を書かせることを強く大学に求め、それを引き換えにして、彼女自身への取扱いについては受入れた。
 雇用契約により、アガサにどんな研究をさせるかの裁量権は大学側が握っていた。
 だから、大学がアガサをリサイクル分野の研究主任から外すと決定したのなら、それを覆すことは無理だろう、と、アガサは思った。

 昇給したとはいえ、アドバイザーとは名ばかりの、事実上の爪はじきを受けたことは、アガサが一番よく分かっていた。
 これまでグレッグと二人で地道に、神が与えた試練だと信じて、必死に進めてきたプロジェクトが、ようやく成果をあげたところで全て横から奪われたことに、アガサは怒りというよりも、大きな喪失感に苛まれた。

 フランスから帰国した最初の出勤日に、実験ノートと研究データを新しいチームにすべて渡すことを求められ、一通りの引継ぎが済んでしまうと、アドバイザーとなったアガサはその後の研究の進捗を見守り、求められたときにだけ意見をする立場だったので、もはややることもなくなってしまい、アガサはその日は早退して古城に帰ることにした。

 帰りの車の中で一人になると、抑えていた感情がこみ上げてきて、一気に涙が溢れてきた。
 だが、アガサは文句を言わなかった。与えるのも奪うのも、神の御手がなされることだと信じて。

 古城に帰りついてもまだ涙が止まらないので、アガサは瞼を擦りながらまっすぐにキッチンに向かった。
 冷蔵庫からチョコとバナナとストロベリーのスペシャルサイズのミックスアイスを取出し、ミルクをかけてキッチンテーブルで貪るようにそれを食べた。
気のすむまでアイスを食べれば、きっと少しは気分が良くなると思って。

 ドラコがキッチンに入ってきて、泣き腫らした顔で鼻をすすりながらアイスを爆食いしているアガサに気づいた。
 定時というものがないのか、ドラコはいつも神出鬼没だった。
 互いに短い挨拶をしただけで、ドラコはただ時間をかけてコーヒーを淹れ、それからテーブルを挟んでアガサの前に座った。
 何も言わずに、アガサが落ち着いて何か話し出すのを、じっと待っているふうでもあった。

 そうだ、今こそシャローム・プロジェクトに集中し、すぐにでもロシアに行こう、とアガサは思った。
「しばらく休暇をとって、ロシアに行こうと思うわ」
 ややしばらくの静寂の後にようやく放たれた唐突なアガサの言葉に、ドラコは動揺することもなく、ジッとアガサを観察しながら質問を返した。
「しばらく休暇をとることにするのは、その涙と関係があるのか?」
 その言葉に、アガサの顔がくしゃくしゃになって、また涙が溢れてくる。
 急かすことなく、ドラコはまたアガサが落ち着くのを静かに待った。
「研究から外されたの。私より、もっと適任のチームに任せるって……」
 ようやく絞りだされたアガサの言葉を、ドラコは静かに受け止める。
「ベガスで発表していた?」
「そう、あれ」
 ドラコはベガスの学会で、アガサがとても真剣に、楽しそうに自分の研究について発表していたのを思い出し、苦虫を噛んだような表情をした。
「手柄を横取りされてばかりだな。俺に何かできることはあるかな、例えば、君の研究を横取りした連中は、明日までに事故にあうかもしれない」
 冗談とは取れないドラコの淡々とした口調に、アガサの涙は一気に引いた。
「もういいのよ」
「良くないだろ。アガサより適任な奴がいるはずがない。フランスでガブリエルに手柄を渡したときと違って、今は悲しいんだろ」
「そりゃ、研究を奪われるのは我が子をとられるような悲しみだけど、これは神が許されたことなんだわ」
「またそれか」
「道筋が見えたところで、あとは他の優秀な人たちにに任せて、私にはもっと重要な【他の何か】をするようにと、導かれているのかもしれない」
「それで、ロシアの孤児院に?」
「そう。いい機会だと思うんだけど、どう思う?」
「正直に言わせてもらえれば、行って欲しくない」
「どうして?」
「寂しいよ。この城で俺一人になるのは。おまけに壁の中にはミイラがいるかもしれないような不可解な城ときている」
 そんなのは口からでまかせと思って、アガサは端からドラコの言葉を真に受けなかった。このマフィアの男が、一人になることや、壁の中のミイラを恐れるわけがない。
「ねえドラコ、あなたはもういくつか見つけた? この城にある隠し扉を」
「いや、むしろ壁にはなるべく手を触れないようにしている」
「ロシアに発つ前に、私がみつけたいくつかのカラクリを教えていくわね。それから、この城の循環システムの維持方法についても。私がいなくてもちゃんとここで生活ができるように」
 ドラコは小さく肩をすくめて、少し考えてから思いついたように言う。
「本当に行くつもりなら、一つ約束してほしいことがある」
 いつになく真剣に見つめられて、アガサの口に運ぶアイスのスプーンが止まる。
「どんなこと?」
「無事を知らせてほしい。毎日欠かさずに」
 なんだそんなこと、と、アガサは溶けかかったアイスを口に入れた。モスクワの治安はそこまで悪くないが、テロを警戒した態勢があると聞くし、女性の一人旅を心配してのことだろう。アガサにとっても、古城を留守にしている間のことが心配だったので、連絡を取り合うのはいい考えだと思った。
「わかった。毎日寝る前のお祈りの時、あなたにショートメッセージを送る」
「いい子だ」
 ドラコは立ち上がってテーブルを回ってくると、後ろから屈んでアガサの頬にキスをした。
「ちょっと! 子ども扱いしないでくれる?」
「鼻水たらしながらアイスで口を汚している奴を子ども扱いするなって?」
 からかうように笑いながら、スーツジャケットを脱ぎ捨てて、袖のボタンを外して腕まくりをする。
「夕飯を作ってやるから、腹を壊す前にそれをしまえよ」
 アガサは最後の一口を大きく頬張って、名残惜しくもアイスのバスケットに蓋をした。
 そうしながらも、なるほど、ドラコは傷心女性の扱いがとても上手く、親切なのだとアガサは秘かに感心する。
 きっとドラコは、女性にモテるのだろうな、と、アガサは他人事のように思った。





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