恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-9
昼の12時過ぎに二人がヴィラに戻ると、残されていた仲間たちがちょうどランチをどうするかで揉めているところだった。誰も料理をしたがらないので、コイン・トスやカードで役を決めて、誰かがテイクアウトを買いに行かされるのが常だったのだ。
だから買い物袋を抱えたドラコとアガサを見ると、皆は驚くとともに、大歓迎した。
「ボスの手料理をまた食べられるなんて、なんか怖いな。今回の仕事には槍でも降るかもしれませんね」
「ガレットを作るのはアガサのアイディアなんだ。俺はジャガイモを千切りにするのを手伝うだけだよ」
「手伝うって、何かの罰ゲーム?」
「エマも手伝うか?」
ドラコにそう言われても、エマは料理をしたことがないので早々に白旗を掲げる。
ドラコはスーツジャケットを脱いでネクタイを外すと、シャツの袖のボタンを外してまくり上げた。そうやってキッチンに立つだけで、すごくカッコイイと、エマは思った。
スタンドからナイフを抜き取り、おそらくは無意識に、ナイフを宙に投げて回転させ、それをキャッチすることで重心を確かめる。
それは、ナイフを使った戦闘に慣れている者にみられる独特な仕草だ、とエマは思う。
それからジャガイモを洗い、皮をむいて、まな板の上で細かく刻んでボールに入れる。
実に手際がよくて、エマはその様子に見惚れていた。
その横では、いつものデニムに、襟付きのチェックのシャツを着たアガサが、買ってきたばかりの具材に前調理を施していた。
サーモンをビネガーに漬けおいてから、塩とコショウで下味をつけて、強火にかけたフライパンで片側にだけジュッと焼き目をつける。
ベビーリーフは水で洗い、オリーブオイルとほんの少しのバルサミコをからめておく。それから、キノコ類を食べやすい大きさに刻んで、たっぷりのバターとほんの少しのガーリックを加えてフライパンでよく火を通す。チーズやトマト、ハムなどはそのまま使うので、トッピングしやすいように切っておく。
「刻みのサイズはこのくらいでどうだ」
ドラコに聞かれて、アガサは彼の手にあるボールの中を覗いた。千切りされたジャガイモは申し分なく細かいが、品種の問題なのか、粘り気が少ないように見える。
「手で潰してくれる?」
「やっぱり粘りが足りないか」
「うん、堅いジャガイモもあるのよ。でも手の熱を加えながら圧し潰すことで、粘り気が出てくると思うわ」
「……こう?」
「こう。もっと強く。形が崩れてもいいから」
横から伸びてきたアガサの手がボールの中でドラコの手と重なって力加減を教えるので、ドラコも力をこめてジャガイモを圧し潰し始めた。
「やればできるじゃないの、スーシェフ」
アガサにポンと背中を叩かれて、ドラコがかすかに口元を緩める。
「……どうも」
それからアガサは、一度使ったフライパンを洗ってから、それをまた火にかけてよく乾かしてから、油を引いた。
「みんな卵はサニーサイドアップでいい?」
「スクランブルにしてほしい。ミディアムで」
と、ラットが真っ先に返事をしてきた。
「俺はサニーサイドアップでいいよ。でも、なるべくレアがいいなあ」
と、ニコライがソファーから返してくると、
「私もそれで」
と、カウンター越しにエマも応えてくる。
「アーベイは?」
「オーバーのミディアムで頼む」
「ドラコはどうする?」
「卵を2個、サニーサイドアップのミディアムで。腹ペコなんだ」
「俺も卵2個」
「僕も!」
「3個ってできる?」
アーベイ、ラット、ニコライがほぼ同時に声を上げたので、
「カオスだな……」
と、ドラコが呟く。
「仰せのままに。エマはいいの?」
「ええ、私は1個で充分よ」
「みんな具材は【全部盛り】でいいのね? 苦手なものがあったら先に言っておいて」
「チーズをたっぷり入れて欲しいな。ガレットからはみ出るくらいにさ」
と、ニコライ。
「全部盛りでいいけど、サーモンを多めにしてくれ」
と、アーベイ。
「任せるわ」
と、エマ。
「ベビーリーフを抜いて」
と、ラット。
だが、その要求は退けられる。
「好き嫌いしないで食べなきゃダメよ、ラット」
「なんで僕だけオーダーが通らないのさ」
「ドラコはどうする?」
「注文の多い奴らで困る。俺はモッツァレラとトマトを多めで、イタリアンピザみたいにして欲しい」
アガサは2つのフライパンを同時にコンロにかけ、はじめにニコライとアーベイのガレットを焼き、続いてエマとラットの分を焼いた。最後にドラコと自分の分を火にかける。
皿が準備できるとみんながキッチンカウンターに集まってきて、肩を寄せあって食事を始めた。
「カロリーの高い罪深い食事だけど、これは美味しいわね。こんなに大きいのに、ペロッと食べられちゃいそう」
「ガレットの生地が、サクサクしていてすごく美味しいねえ。こっちの方が、そば粉で作られたものより好みだよ」
「やっぱりそう思う? ジャガイモの仕込みに手間がかかるけど、スーシェフが頑張ってくれたおかげね」
「デ・リヤン マドモアゼル (どういたしまして) 」
ドラコがフランス紳士のように気取った会釈をして見せたので、アガサが笑みを零す。
それからドラコがカウンターのグラスにシードルを注いでみんなに回した。
「ペアリングは林檎のシードルか。これはボスのセレクトだな」
「ノンアルコールだ。昼間から酒を飲むと怒りだしそうな奴がいたから」
「別に怒ったりしないけど、シードルってアルコール濃度が高いから、もしかしたら仕事に差し支えるんじゃないかと思ったの」
「モスコミュールを一気飲みする奴がよく言う……」
「へえ、アガサはお酒を飲める口なのかい?」
「ほんの少しだけよ。それより卵の火加減は好みにあった?」
「ああ、丁度いい」
「おかわりある?」
「ごめんなさい、ジャガイモを使い切っちゃった。驚いた、ラットって華奢に見えるのに、結構食べるのね」
ラットは早くも、余ったトッピングの皿を掴んでハムをつまみ始めている。
「そいつはこの中で一番食うと思うぞ。なんといっても、俺が鍛えてるからな」
と、ドラコが言った。
「ほとんど、ボスのサンドバックみたいなものだよ……」
「ボクシングの話?」
「というより、格闘訓練だな」
「そんなこと、いつ、どこでやってるの?」
「毎日やってるよ、ここの地下室のジムで。アーベイも、ニコライも、エマも、全員」
「へえ、全然知らなかった……」
「アガサも私たちと一緒にどう?」
「手取り足取り教えてやるよ、まずは、寝技から」
ドラコはわざとアガサの視線を捕まえて、ゆっくりウィンクした。
それに対して、すぐにニコライが補足説明をしてくれる。
「女性は実際、力が弱くて組み伏せられることが多いからねえ。その状況から反撃する方法を最初に訓練しておくのは、意外に有効なんだよねえ」
「エマも特訓しているの? 寝技の」
「ええ、でもドラコはダメよ。全然手加減してくれないから、彼に押さえられたら私も敵わない」
「できれば、そうなる前に走って逃げたいわね」
「もちろん、アガサはそれが一番いいだろうねえ」
「違いない」
ニコライとアーベイがそう言って、みんな少しだけ笑った。
やはり、アガサを格闘訓練に誘ったのは冗談だったのだろう。平和の中でしか過ごしたことのないアガサには、格闘訓練に自分が加わるなど想像もつかなかった。
「そういえば、シミュレーションの結果が出たよ、アガサ」
「え、もう? どうだった?」
「3つとも有効と出たんだけど、どれが一番いいのかは僕が見てもわからなかった。ちょっと専門的すぎるから、後で見てくれない」
「今見せて」
「うん、いいけど」
たちどころに仕事モードになったアガサが、ラットと一緒にコンピューターの前に噛り付いた。皆は、アガサがまた何日も虚空を見つめるようになるのではないかと心配したが、アガサはモニターの前でラットとしばらく話した後、すぐにこちらの世界に戻って来た。
「午後からまたラボに行ってくるわ」
そう言って、食べ終わった皿を急いで片付け始めるアガサに、ドラコが背後から近づいて、一緒に皿を洗おうとしながら不意に口を開いた。
「ガブリエルのことを、いつ俺に言うつもりなんだ?」
アガサがハッとしてドラコを見上げる。
「なんで知ってるの?」
「なんで知られないと思った?」
ドラコに詰められて、確かに、ガブリエルのことをドラコに伝えるのが気まずくて、報告を先延ばしにしていたことを認める。
「すみません、今、言おうとしていたところです。彼はベガスでの印象が最悪だったから、話がまとまるまでは慎重に進めたかったの」
「まあいいけど。奴に協力を頼むつもりなら、今夜ここに連れて来いよ。どうしてもラボじゃなきゃダメなのか?」
「ラボが必要になるのはCov-fox1の無毒化薬剤を調整するときだけだから、別にここに彼を呼んでもいいけど……」
「決まりだな」
満足そうに頷くドラコに、だが、アガサは困った顔をする。
「何か他にあるのか?」
「だって、あなたのことを何て説明する? ガブリエルにはまだ【あの事】を訂正していないのよ」
アガサの言ったことをドラコが理解するまでには少し間があった。
やがて記憶をたぐったドラコはそれを思い出し、ああ、と、何でもないことのように言った。
「ベガスのことなら、別に訂正する必要はないってことになっただろ」
「でも、ちょっと気まずいわね。他のみんなの目もあることだし、実際にここで顔を合わせるとなるとね」
他の4人が、アガサとドラコのやり取りの意味がわからずに顔を見合わせている。
「わかるように説明してくれないかしら、【あの事】って何なの?」
痺れを切らして問いかけるエマに、ドラコは躊躇なく答えた。
「俺とアガサはガブリエルの前では【夫婦】ということになっているんだよ」
沈黙。
エマが呆れたように溜息をついた。
「なんでそんなことになっているのよ、アホらしい」
「面白すぎて言葉もないよ」
「うん、実に興味深いねえ」
「どういうことですか、ボス」
アガサの洗った皿を隣で受け取って拭きながら、ドラコが恥じらうこともなく皆に説明する。
「ベガスのバイオテクノロジー学会に潜り込むために、アガサの夫だという身分が必要だったんだ。ガブリエルはそれを今も信じている」
「なら、その通り説明して訂正すればいいんじゃないの」
「いや、ガブリエルはどうやらアガサに気があるみたいだから、訂正しないほうが都合がいいのさ」
「実は続きがあるのよ」
と、さらにアガサが気まずそうに口を開いた。
皆がアガサに注目する。
「昨日の夜にガブリエルに会いに行ったときに、彼にベッドに誘われたの」
「なんだって?」
ドラコが手をとめて、アガサを見下ろした。
「ラボを貸すなら、もっと私たちは親密になる必要があると言ってね……、彼、すごく強引で」
「トラブルがあったら電話しろと言ったよな」
ドラコがタオルをキッチンの上に投げて、アガサが皿洗いをしている途中なのに蛇口の水を止めた。
「もうそいつ、デリートでいいんじゃない?」
と、ほぼ同時に、ラットも呟く。
「既婚者だと思っててアガサを誘ったのかい?」
と、ニコライ。
「それが、ガブリエルは最初から私が既婚者だという件を疑っていたらしいの。私は指輪をつけていないし、子どもが4人もいるようには見えない、って」
「なるほど、君たちの間には4人も子どもがいることになっているんだね。実に面白い」
ニコライが驚く横で、アーベイは失笑を禁じ得ない。
「どう対処したんだ」
と、ドラコが棘のある口調で続きを促す。
「すごく押しが強いもんだから、なかなか本題に入れなくて、私、とても困ってしまって……、でも、どうしてもラボを使わせてもらいたかったから、」
ドラコが表情を失った。
「まさか、」
「ええ、そうなの。恥ずかしいことに、嘘の上塗りをしてしまったわ! 金属アレルギーで普段は指輪をつけていないって、咄嗟に大嘘をついたの」
「ああ、そっちね」
と、エマが相槌を入れる。
「それからガブリエルに子どもたちのことを詳しく聞かれたものだから、上の3人は男の子で、末の子は女の子だって説明して、とにかく昨晩は地獄に堕ちるんじゃないかと思うくらい嘘をつきまくったのよ。なのに全然、罪悪感がないの。きっと私、心が汚れてしまったのね」
それからドラコが黙り込んだので、アガサは不穏な雰囲気を感じ取った。
「ガブリエルを信用できるのか?」
抑揚のない声でドラコが訊ねる。
「ええ、それはもう。彼に問題があるとすれば、性の欲求に対して奔放すぎるということだけで、それはフランスの文化の問題なのかもしれないと思う。その点さえ目を瞑れば、彼は優秀な科学者で、遺伝子の拡散防止に対する倫理観も私とは同じ見解だし、生物兵器に対する考え方は、フランスでは珍しく、否定的な立場をずっと貫いてきた第一人者だわ。だから、彼は今回の仕事に適任だと思う」
アガサは夢中で弁明をしたが、気づけば室内の空気は氷のように冷たく張り詰めて、ニコライもアーベイも、ラットも、エマでさえ、重く口を閉ざして、ただ無表情に皆、ドラコを見つめていた。
ドラコは「わかった」、と言ったが、その瞳は薄く細められて、驚くほど冷酷に光っていた。
「今夜、ガブリエルと話をする」
アガサは、これまでに感じたことのないドラコの冷たい雰囲気に、言い知れぬ恐怖を覚えた。
「まさかとは思うけど、彼に、何かするつもりじゃないんでしょう?」
「何かするなんて、とんでもない」
ドラコの声だけが、低く、静かに、室内の凍った空気を震わせた。
「ただ、ガブリエルが【紳士的】に振舞うなら、こちらも【何もしない】ということを、ちょっと【わからせる】だけだよ」
そう言って微笑むドラコが、アガサにはとても不気味に感じられた。
◇
次のページ 第3話10