恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-10


 遅い昼食の後に、アジトの仲間たちは地下のジムに下りて行った。
 一階のリビングで一人で過ごしながら、アガサはガブリエルとこれから検討するべき資料をまとめた。今夜のうちにデザインを決定して、明日以降は実際にラボで製作作業に着手したかった。いくつかサンプルを作製し、想定通りに機能するかテストする必要がある。

 アガサは、地下で訓練をしているアルテミッズ・ファミリーの面々が、このまま時間を忘れて訓練に集中してくれていたらいいのに、と、思った。
 何も知らないガブリエルを彼らに引き合わせるのは、良心が痛むし、ドラコがガブリエルに何かする気がして、アガサは心配だった。
 だがその思いも虚しく、ガブリエルが来るまで、あと1時間というところで、地下から仲間たちが一斉に上がってきた。皆、トレーニングウエアを汗で濡らしていたので、それぞれが自室のシャワールームに直行していったが、ほどなくして続々とリビングに集まってきた。

 アガサがキッチンで来客のためにお湯を沸かしていると、ドラコも下りてきた。
 見れば、驚いたことにドラコはいつものスーツ姿ではなく、黒いジーンズと無地のトレーナーをラフに着こなしていた。いつもはスーツジャケットの下に隠し持っている銃も、今は見当たらない。

「どうしてそんな恰好をしているの?」
「リアリティだよ。この方がアガサの夫っぽく見える」
「銃やナイフは?」
 ドラコはアガサの前で両手を広げると、「完全に丸腰だ」、と安心させるように言った。

 夜6時になると、時間通りにガブリエルがやって来たので、アガサが玄関のドアを開けて迎え入れた。
「わざわざ来てくれてありがとう、ガブリエル。紹介するわね、こちらが、」
「はじめまして。アガサの【夫】のドラコだ。ようこそ」
 そう言って、ドラコがアガサよりも前に乗り出し、人好きのする笑みを浮かべてガブリエルに握手を求めた。
 ガブリエルは少しの間、不審に目を細めてドラコに一瞥をくれたが、握手には応じてドラコの手をとった。

 次の瞬間。
 ドラコがいきなりガブリエルを引き寄せたかと思うと、彼の胸倉を掴んで勢いよく床に押し倒した。ガブリエルは抵抗して足をバタつかせたが、ドラコは間髪入れずにガブリエルの喉元を押さえ、彼の上に馬乗りになって完全に動きを封じた。
 アガサは心底ゾッとして、ドラコをガブリエルから引き離そうと動いたが、後ろからニコライの大きな腕に抱き留められた。

「……ちょっと、何をしてるの、ドラコ、乱暴はしないはずでしょ!」
「乱暴? こんなのは乱暴の内に入らないさ、ただの、ご挨拶だよ」
「……彼、息ができていないんじゃない?」
 ガブリエルの顔色がみるみる紫色になっていくのに気づいて、アガサは叫んだ。
「彼を放して、ドラコ!」
 アガサが暴れてもニコライの頑丈な腕はビクともしない。
 他の仲間が仲裁に入ってくれないかと見回したが、エマはバーカウンターで呑気に爪を研いでいるし、ラットも我関せずの顔でコンピュータの前で自分の作業に集中している。アーベイだけが冷静に事態を見守っている様子だったが、彼もガブリエルを心配する気は微塵もないというのは態度から明らかで、むしろ、何かドラコの手助けが必要になったらすぐ動けるように待機しているように見えた。

「ドラコ、死んでしまうわ!」

 結局、ガブリエルが窒息して気絶するギリギリのところでドラコは手を放したが、悪く思っている様子は全然ない。
 喘ぎ声をあげてグッタリと床の上に伸びているガブリエルの耳元に、ドラコを口元を寄せた。
「俺のものに手を出すな。何事にも最初はあるが、次はないからな」

 それからドラコはガブリエルを助け起こすと、彼の服の捩れを直してやりながら、またあの人好きのする笑みを浮かべて言った。
「妻に協力してくれて感謝するよ、兄弟。一つ忠告するが、半端は許さない。せいぜい最後まで気を抜かずにやり通すことだ」

 ドラコが離れると、ガブリエルはすぐに顔を真っ赤にして怒鳴った。
「こんな侮辱を受けたのは初めてだ、帰らせてもらう!」

 ドラコがアーベイに視線を送ると、ガブリエルは今度はアーベイによって腕を捻りあげられて取り押さえられた。
「あたたたたたたた! 放しやがれ! この、イカレ野郎!!」
「黙らせるか、永遠に」
「ちょ、ちょっと落ち着きましょう! お茶を、そう! お茶を用意したのよ! アーベイ、ガブリエルをソファーに座らせてあげて、お願いだから!」
 アーベイはアガサの言葉には耳を貸さずに、ドラコの方を見た。
 ドラコが小さく頷くのを見てから、アーベイはガブリエルをソファーに座らせたが、ガブリエルは座るというよりも沈められた感じだった。
 
「モグラ叩きゲームを知っているか? お前の尻が少しでもこのソファーから離れたら、パン!」
 アーベイはガブリエルの目の前で、手のひらを拳で凶悪に叩いて見せた。ガブリエルがビクりとする。
「モグラになりたくなければ、大人しくそこに座って彼女に協力するんだ」
 ガブリエルはアーベイに言われて、体の前で腕を固く組み、口を引き結んだ。納得はいっていないが、逆らうこともできないと観念したように見える。

 なるほど、彼らの乱暴で、威圧的なやり方を目の当たりにしたアガサは、ほとほと呆れ返りながら、今、緩められたニコライの腕を逃れて急いでキッチンに行った。
 用意しておいたティーセットをソファーまで運び、ガブリエルに与える。
「カモミールティーよ、気分が落ち着くと思う」
 彼女が親切に差し出したティーカップを、ガブリエルは心底イヤそうに見やると、ふてぶてしくプイと顔を振って、バーカウンターの方を顎で差した。
「紅茶は嫌いだ。強いやつを一杯、頼むよ。あの美女に給仕してもらいたい」

 それまで騒ぎに無関心だったエマが、このとき初めてガブリエルに一瞥をくれた。
「……、なんですって?」
 ガブリエルは、まるでバーテンダーにオーダーをするときのように指を上げて、「お嬢さん、マティーニを」、と続けた。
 直後、アーベイがガブリエルの指を掴んで逆関節を決めた。
「あたたたたたた! あああ! 痛いだろうが、この、クソが!」
「自分の立場が分かってないようだな、お望みなら、軽く何本か折ってやるぞ」
「ああ、神様……。アーベイ! 穏便に、ちょっと、落ち着きましょう、って! 彼から手を放して!」
 アーベイはやはりアガサの言うことは聞かないので、アガサはドラコに助けを求めたが、夫役の彼はキッチンカウンターに体を預けて無表情にこちらを見ているだけだ。
 仕方ないのでアガサは自分で動くことにする。

「彼の指を折ってはダメよ! 私たちはウイルスの無毒化薬を作製するのに、安全キャビネットの中で繊細な試験管操作をする必要があるの。手が使い物にならなければ仕事に支障が出るわ」

 それを聞いて、アーベイはようやく手を緩めた。

「ガブリエル、今夜はアルコールはなしよ。時間がないから、早速、仕事を始めましょう」
「仕事だって? 昨日は君に協力すると言ったけどね、こんな仕打ちをされるなんて聞いていない」
「私の【夫】が、つい感情的になってしまったことは謝るわ。怖がらせて本当にごめんなさい。でも、悪い人たちじゃないから」
「は! 悪い人じゃない、とはね。出会い頭に僕は絞め殺されかけたんだぞ! すぐそこに、天国が見えかけていた」
「地獄の間違いじゃないのか」
 と、カウンターからドラコが言うのが聞こえてきたが、ガブリエルもアガサもそれを聞き流した。

 アガサが隣に腰かけると、ガブリエルが顔を寄せて彼女に囁いた。
「あの男は本当に君の夫なのかい、アガサ? どう見ても、堅気の人間じゃないだろう」
「おい、聞こえてるぞ」
 ドラコの野次が飛んでくるが、二人はそれも聞き流した。
「彼は本当に、電気の修理屋さんをしている私の【夫】です。普段はこんなんじゃないのよ」
「は! 電気の修理屋さん、とは、驚きだ。コイツらはまるで【マフィア】みたいじゃないか」
「言い得て妙だな」
 と、ドラコがほくそ笑む。だが、ガブリエルを見張るドラコの目は全く笑っていない。

「彼も結婚指輪をしていないんだね」
 アガサはぎくりとする。
「彼も金属アレルギーなの」
「へえ、そう」
「結婚指輪をしていないからって、よその女房を誘ってもいいという理屈にはならないんだよ、ガブリエル」
「もしかして、僕が君をベッドに誘ったことを彼に言ったのかい、アガサ。そんなことを言ったら、そりゃ僕は殺されそうになるわけだよ……」
 今度は、ガブリエルが責める様にアガサを見つめてきた。実際に彼は、「君のせいだ」、とハッキリ言った。

 ドラコがまたガブリエルに掴みかかって来そうな気配を、アガサは敏感に察知して、慌てて言った。
「確かに、私の伝え方にも配慮が足りなかったことは認める。悪かったわ、ガブリエル。でも、この話はもう終わりにして、お願いだから仕事の話を始めましょう」
 そう言ってアガサはラップトップを開き、モニターに表示されている3つのシミュレーション結果を見せた。
 途端にガブリエルの関心はそちらに移り、彼は人が変わったように知性的な科学者の顔になった。

「なるほど、どれも悪くないが、僕はAプランが一番いいと思う」
 それを聞いてアガサも顔を輝かせ、二人は肩を寄せて一緒にラップトップのモニターを覗き込んだ。
「私も同じ意見よ。でも、このプランでは化学的に高度な技術と、それに最先端の機器が必要になる」
「設備は問題ないから、あとは技術ということになるね。僕は問題ないけど、君は自信がないの?」
 アガサは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「もちろん、自信はある。あなたがそう言ってくれて良かった。早速、明日からかかれる?」
「ああ、もちろん。サンプルを作って、いくつか予備テストをしたほうがいいね」
「私もそう思ってた」

「ねえ、これは何?」
 ラップトップの画面をスクロールしていたガブリエルが、アガサのパソコンに新しいプロトコルを見つけてふと、動きを止めた。
「Cov-fox1の進化型、Cov-fox2を想定してみたの」
「これ、君が考えたのかい?」
 明らかに驚いた様子で、ガブリエルはモニターから目を放さずに言った。
「一体、どうやって……」
「ベネディクト社のこれまでの研究データは昨日、あなたにも見せたでしょ。彼らの一連のやり方から、次にやりそうなことを予測したら、それに行きついた。きっと彼らは次もやると思ったから、今回私たちが作ろうとしている無毒化薬にも、それに対応できるコーディングを行なうつもり。これを見て」
 アガサがガブリエルの膝の上のラップトップに手を伸ばし、別のページを表示させた。
 それは、彼女たちが作ろうとしている無毒化薬の詳細なレシピだ。
 生物兵器として用いられようとしているウイルスを生かしたまま、『効果がない』ものに変換するのが目的だった。ベネディクト社が売り出そうとしている生物兵器の評判を潰し、再起不能に追い込むために。

「これを見たら、ベネディクト社はきっと君を欲しがるだろうね。アガサ、君が悪人ではなく、善良な科学者の側にいて本当に良かった」
 そう言ったガブリエルが、感動したようにアガサを見つめた。
「じゃあ、この方向性でいい?」
「最高のプランだ」
 ガブリエルが顔をほころばせてアガサに手を差し伸べ、二人は握手した。
「けど、短時間でこれをやるとなると、大変な仕事になるぞ。奴らの生物兵器の構造に対応した、薬剤の形状を決めないといけないし、保存方法や、持ち運び性能も考えないと」
「それに副作用もね。土壌汚染と、人体への有毒性だけは、絶対に防がないと」
「ベネディクト社が保管しているウイルスが、いくらか手に入ればいいんだけど、心当たりはあるかい?」
「ええ、私もそれに困ってて」

「それを手に入れればいいんだな?」

 それまで、アガサとガブリエルのやり取りを注意深く見守っていたドラコが、ここで口を挟んだ。

「そうだけど、これは極秘裏に進められているプロジェクトだから、ベネディクト社はウイルスサンプルを渡してはくれないと思うわ」
 アガサが応えると、ガブリエルも続けた。
「いっそのこと盗み出せないかとも考えたけど、あの企業のセキュリティは高くて、とても潜り込めそうにない」

 ドラコがラットを振り返った。
「そうなのか?」
「できますよ、ボス」
「エマ、頼めるか」
「わかった」
「ニコライは足のつかない車を、アーベイは装備を用意してくれ」
「了解、ボス」
「いつ決行する?」
「いつまでに必要なんだ?」
 と、ドラコに視線を向けられて、アガサは答えた。
「今週の金曜日までに。でも、盗みは……」
「盗むんじゃないさ。どうせ俺たちが全て買い占めることになるんだから、その前にちょっとサンプルを拝借するくらい、ベネディクト社も気にしたりしないはずだ」

 ガブリエルがアガサの肩をつついた。
「アガサ、彼らは何者なんだい」
 アガサの顔がひきつる。
「電気修理でいろんな建物に入るから、きっと特別な伝手があるんだと思う」
「ふうん」
 苦し紛れについた何度目かの嘘を、ガブリエルが信じたかどうかは疑わしい。





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