恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-11
それから二週間があっという間に過ぎた。
ドラコ率いるアルテミッズ・ファミリーの仲間たちは、首尾よくベネディクト社の新型ウイルスのサンプルを手に入れて、それをアガサとガブリエルにもたらした。
どうやってそれを手に入れたのか、という詳細はあえて聞かずに、アガサはガブリエルとともに早速それをラボに持ちこんで、製作中の無毒化薬の効果を試した。
そうして彼らの方向性が間違っていないことは確認できたが、アガサとガブリエルは、無毒化薬の形状をどうするかについて、最後まで悩み続けた。
候補は、液状タイプと気化タイプの二択にしぼられたが、アガサとガブリエルの意見は割れた。
液状タイプは即効性が高く、持ち運びも簡単だったので、ガブリエルは液状タイプを推した。ベネディクト社が販売しようとしている生物兵器も、液状タイプだったからだ。
だがアガサは、気化タイプも作っておくべきだという考えを、どうしても譲らなかった。
気化タイプは、万が一空気中にウイルスが拡散した場合でも効果を発揮することができるほど、超高濃度なもので、その分、保存が難しく、持ち運びにも注意が必要な、とても扱いにくい形状だった。それでもアガサが、もしもの場合に備えて、気体タイプも絶対に作っておくべきだと言い続けたので、ガブリエルはついに承諾した。
そこで二人は、メインの無毒化薬をベネディクト社の現行の生物兵器に対応する液状タイプで大量ストックし、さらに不測の事態に備えた気化タイプは、コストと労力の問題から唯1つだけ作っておくことにした。
こうしてついに完成した無毒化薬は、フランス国立研究センターのガブリエルの研究室に秘かに保管され、使用される時を待った。
また、アガサとガブリエルは凄まじい集中力でほとんど夜も眠らずに実験を重ね、人体への治療薬と、ワクチンのプロトコルを完成させた。
ただし、試験管レベルでの効果を確認しても、それを人体に投与するには各国のルールに基づいた臨床の安全性試験を通過しなければならない。そこで二人は、その先の仕事を世界保健機構と各国の研究機関に委ねるべく、研究データをレポートにまとめた。
レポートは、ドラコたちが最初の生物兵器を独占してとりいそぎの安全を確保してから、ラットによって匿名で拡散されることになった。
ラットはとてもよく働いて、科学者たちのシミュレーションを手伝ったり、毎日ラボにこもりきりのアガサの見守り役を務めたりした。
研究に集中している【間だけ】はガブリエルはまともだったし、ドラコの最初の【挨拶】も功を奏していたので、その後のガブリエルの動きに大きな問題はなかった。ただし、小さな問題はあって、ガブリエルの口の悪さと随所にみられる太々しい態度は、しばしばファミリーの仲間たちに忍耐を強いた。
ニコライとアーベイは生物兵器を独占するための段取りを着々と整えていた。
二人はいつものんびりと過ごして新聞を読んだり、たまにちょっと外に出かけるくらいだったが、ここ二週間でベネディクト社の【良くない】情報は水面下で瞬く間に拡散され、株価を大暴落させていた。また、生物兵器の購入に乗り気だった強豪他者たちは、ここ数週間でなぜか互いに競い合って自滅したり、なぜか資金的困難に追い込まれたり、なぜか倒産したり、行方をくらませたりした。
数日後に控えた武器取引に向け、現時点でアルテミッズ・ファミリーが最たる資金力を持っていることは間違いない。
エマはベネディクト社からのウイルスサンプルの【拝借】に成功した後は、ほとんどの時間を退屈して過ごしていた。
だからしばしばショッピングや観光に出かけて時間をつぶしていたが、それにも飽きてしまうと、忙しくしているアガサのためにセクシーで可愛い衣装をそろえて、夜の街に連れ出そうとさえした。その度にアガサは物凄く怒り、エマに服装の倫理観を説いて聞かせた。エマは早くに母親を亡くしていたので、アガサからそのように怒られ、道徳や清い行いについて教えられることを、どこか楽しんでいた。
ドラコは毎週日曜日に必ずアガサと一緒に教会に行った。
教会に行くことはドラコにとって楽しいことではなかったが、そのときだけはアガサと二人きりになれたからだ。
その帰りには、いつも二人でマルシェで買出しをして、仲間たちに手料理を振舞った。どうしてそんなに腹を空かせているのかドラコが不思議に思うほど、仲間たちは二人が作る手料理をたくさん食べた。
そうして作戦実行の日までの時間は、平和に過ぎて行った。
ここまで全てが上手くいっているように見えた。
だが、ドラコだけは作戦実行の日が近づくにつれ、まだ見えぬ脅威を警戒するようになった。
武器の闇オークションへの参加権はすでに得ている。
出品されるベネディクト社の生物兵器をすべて落札する手筈も整えた。
アガサとガブリエルは生物兵器を無毒化する薬剤の製作を成功させた。
あとは落札した生物兵器を無毒化するだけだった。それを大々的に世に流せば、ベネディクト社、ひいてはそのスポンサーとなっているフランス政府の評判をまとめて地に落とすことができるだろう。ドラコはベネディクト社の悪事を世界に拡散し、再起不能に追い込むつもりだった。
ウイルスが流出した場合の予備プランも順調に進んでいる。アガサとガブリエルがすでに治療薬とワクチンをデザインしているので、不測の事態が起きても各国が早期に対処できるはずだ。
そう、すべてが計画通りに、上手く運んでいる。いや、むしろ上手くいきすぎている。と、ドラコは思った。
これまでいくつもの修羅場を潜り抜けてきたドラコの勘が、油断するなと警鐘を鳴らしている。
一体何を見落としているというのだろうか……。
作戦実行の日が迫るにつれて、ドラコは神経を鋭く研ぎ澄ませ、気難しく一人で考えに沈むことが多くなっていった。
そんなボスの様子には当然、仲間たちも気づいていたが、誰にもどうすることもできなかった。
◇
作戦決行の当日、ドラコはエマの部屋をノックしてアガサに声をかけた。
「例の無毒化薬が思ったより早く必要になるかもしれないんだ」
「どういうこと?」
「早ければ、今夜のオークション会場で使うことになるかもしれない」
それは当初の計画にはないことだったが、その時ドラコが確信に近い何かに基づいてそう言っていると感じて、アガサはすぐに承諾した。
「わかった。今からガブリエルのラボに行って、取ってくるわね」
「戻ったら、無毒化薬の使い方をニコライに教えてやってくれ」
「了解。じゃあ、ちょっと行ってくるから」
アガサがヴィラを出ていくのを見届けてから、ドラコはすぐに仲間たちを一階に集めた。
「みんな、ちょっと聞いてくれ」
ジョルジオ・アルマーニの全身ブラックのスリムフィットスーツをびしっと着こなしたドラコは、最初にここにやって来たときと同じように、皆の注目が集まるのを待ってから話始めた。
「当初は俺とエマの二人で取引の場に参加する計画だったが、作戦を変更したい。今夜は、ラットをバックアップに残し、全員でオークションに参加する」
エマをはじめ、皆ががボスの直前の計画変更に少し驚いた顔を見せるが、ドラコはさらに続けた。
「フル装備で。――今夜はおそらく、派手な撃ち合いになる」
こういうときのボスの勘が当たるということは皆心得ていたので、誰も何も言うことはなかった。
皆、すぐに動き出した。
そんなやり取りがあったとは知らずに、アガサは夕方に液状タイプの無毒化薬を持ってヴィラに帰って来た。
玄関を入ると、リビングでは正装した4人の男女が、コーヒーテーブルやバーカウンター、キッチンカウンターの上にまで銃火器を広げて、それらのメンテナンスをし、弾を込めているところだった。ラットだけが、いつも通りのTシャツとジーンズ姿でコンピューターの前に座っている。
「オークションに参加するのにこんなに武器が必要なの?」
「今夜は世界中から悪党たちが集まるから、用心のためだよ」
と、ドラコは努めてアガサを刺激しないように説明した。
正装の武装集団の準備が一通りすんでから、アガサはニコライに無毒化薬の投与方法を説明した。
ラットがあらかじめベネディクト社が開発している生物兵器の工学的設計図を入手していたので、説明はシンプルですむ。
直系30センチほどの金属の匣がある。その匣は小型爆弾のような構造になっていて、時限スイッチで起動するようになっている。起爆するとウイルスが噴出して周囲にいる者に感染する仕組みだった。匣の中にはウイルスの入った冷却培養液が封入されているので、液状の無毒化薬をそこに混入させれば、ただちにウイルスを不活化できる。
「注入の方法は簡単よ。このアンプルのソケットを、噴出口に挿し込むだけでいい。アンプル内の圧力を最大に高めているから、ソケットを接続すれば瞬時に爆弾の中に無毒化薬が押しこまれるようになってる」
「接続の時に、漏れる心配はないのかい?」
「その心配がないように、超ロングディープソケットを採用してるわ。余剰圧力を高機能濾過フィルターを通して外に逃がすから、ウイルスの容器を破損することはないし、これはエボラなどの危険な微生物を取り扱うときに、研究室でもよく使われるものなの。けど、そうね……、その時が来たら、真っすぐ、一思いに、確実に挿し込むことを意識して」
アガサの言い方を面白く感じたのか、ニコライがニヤッとした。
「なるほど、それなら難しくなさそうだ」
ラットが皆にインカムを配った。
「ゾーンコネクトにすると、みんなの会話が全部聞こえて煩いから、特にボスからの指示がない限りは、サーバーをセパレートしておくよ。でも僕はみんなの声を常に聞いているから、繋いで欲しい相手がいれば言ってくれ」
皆、それを使い慣れている様子で、それぞれ耳にセットした。
それはアガサが今までに見たことのない小さなインカムで、基部が軟質シリコンで覆われているので、耳の奥にすっぽり入れることができるらしかった。多分、一般の市販品ではなく、その筋に詳しい特別な才能のある人が作ったのだろうな、と、アガサは思ったが、彼らの内情についてはあえて聞かないことにした。
夜7時になって、ニースにも夕闇が訪れる頃。
イタリアンレッドの鮮やかなロングドレスを着流しているエマが立ち上がった。スカートの斜め前に、太ももの上まで深いスリットが入って、スラリと長い形の良い脚が伸びているのは、本当に美しく、セクシーだった。
「そろそろ行く?」
エマが言うと、全身黒のスリムスーツを着こなしたドラコが、ゆっくりとエマに近づき、腕を差し出した。ジャケットの下の黒のダブルボタンベストが、いつもよりもフォーマルに見えるのに、ポケットにチェーンをつけているので絶妙に悪っぽくも見える。エマが、ドラコの腕に手をかけた。
目を奪われるような、かっこいいカップルだ、とアガサは感心した。
ダークスーツをスマートに着こなし、アスコットタイを締めているアーベイは、とてもシックだ。ハットを斜めにかぶって顔を少し隠しているのが、ミステリアスでもある。
彼はドラコとエマの後に続いて、右についた。
同じくダークスーツを身に纏ったニコライは、ノータイで、シャツの首のボタンを開けて着崩しているが、それがむしろ彼自身の肉体の魅力と、スーツの美しさを惹き立てているように見えた。無毒化薬をジェラルミンケースに入れて、ニコライは左についた。
全員が揃うと、4人が一瞬、アガサとラットを振り返った。
ラットは無反応だが、彼らの絵になる立ち姿に、思わずアガサは感動して、歓声を送る。
「みんなとっても素敵よ。いってらっしゃい、気を付けてね」
エマがクールに微笑み、ニコライが二本指で敬礼し、アーベイはハットを少し持ち上げて会釈したが、誰も何も言わなかった。
「――行ってくる」
最後にドラコの声が静かに落ちて、彼らはヴィラを出ていった。
◇
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