恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-8


 ヴァンス村の丘の上にある、白一色のロザリオ礼拝堂。
 日曜の朝には、観光客の入場を断って、そこで厳かに信徒たちの礼拝がもたれる。

 アガサは跪いて神に祈っていた。
 愛を知らない男が、神の愛を理解できるように、力をお貸しくださいと。
 そして、自分に向けられた彼の【ささやか】な恋心を、どのように取り扱うべきか、知恵をお与えくださいと。
 アガサはドラコを友人としては受入れていたが、恋人として受け入れることには、どうしても覚悟がもてなかった。
 それはどうしてなのか。
 多分、ドラコとアガサでは、あまりに住む世界が違うと、彼女自身が感じているからだろう。彼はアガサの知らない闇をたくさん知っていて、おそらく、今もその中で生きている。アガサは神の光の中に生きていて、神の働きを担う徒である。違う世界に住む二人は、きっと一つになることはできない、と、アガサは思った。たとえ一時は恋人のように振舞うことができたとしても、二人にはやがて道を違える日がやってくる。その時になってから互いを拒絶しあうくらいなら、最初から深入りしない方がいい。もし深入りすれば……。
 アガサは気づいていたのだ。
 自分の内に芽生えているドラコへの感情はささやかな恋心などではなく、すでに、もっと想像を超えた、強い衝動になってしまっていることに。事実、それは彼女の意思でコントロールするにはあまりにも御しがたい、強すぎる衝動であり、渇望ともなりつつあった。

 だからアガサには受け入れることができない。たとえどんなに、彼の好意を嬉しく思ったとしても。今それに手を伸ばしてしまえば、引き返せなくなると知っているから。

 そしてアガサは神に祈った。――どうかこの気持ちを取り去ってくださいと。
 その瞬間、悲しみが込み上げてくる。
 それでも彼女は祈り続けた。――それを取り去ってくださいと。
 彼を愛おしく思う気持ち。大切に思う気持ち、彼を魅力的だと思う気持ち、彼といると心安らいで楽しいと思える気持ちを。
 誕生日の夜にキスをされたときに感じた、すべてを失っても彼のものになりたいと思った、ほんの一瞬の愚かしい気持ちを。
 全て取り去ってくださいと、アガサは跪いて必死に神に祈り続けた。

 そうして涙がとめどなく溢れてくる。
 アガサは子どもみたいに泣きながら祈り続けた。

 その時、誰かが彼女の隣に来て、優しく肩に触れるのを感じて、彼女は顔を上げた。
 見るとドラコが彼女の隣で、彼女と同じように跪いていた。

「どうすればいい?」
「こうして手を合わせて、神に祈るの」

 ドラコは言われた通りにした。


 神は二人の祈りに耳を傾けられた。
 女は祈った。彼を愛で満たしてください、と。 男は祈った。彼女の涙を払ってください、と。
 そうして神は聴き入れられた。
 愛を知らない男には、神の愛を与えることを。 女の涙には、彼を与えることを。





 ロザリオ礼拝堂の帰り道、ドラコはアガサと繋いだ手を放さなかった。

 今朝、いつもより遅くに目覚めると、アガサが出かけたことを仲間たちから聞いて、ドラコは急いで彼女の後を追いかけてやって来たのだった。
 日曜日の朝の礼拝に行ったというのは、ラットが突き止めてくれた。
 マナセ広場から車で10分ほどの距離を車をとばして向かい、途中からは、入り組んだ細い石畳の歩行者専用道を、ドラコは走って上った。
 丘の上に建つ、平屋の素朴な礼拝堂の前にたどり着いたときには、春の陽気が強い日だったこともあって、ドラコは汗だくになっていたが、迷わず中に入って行った。
 信徒たちがみな跪いて祈っている、その中に、アガサの姿をすぐに見つけることができた。近づいていくと、彼女は祈りながら泣いていた。その姿を見て、ドラコは跪かずにはいられなかった。礼拝堂で祈ったことなどなかったが、どうすればいいかは、彼女が教えてくれた。
 そうしてドラコは初めて神の前に跪き、彼女のために祈った。

 彼女がどうして泣いているのかは、このときのドラコには分からなかった。もちろん理由が気になったが、それは彼女が、神の前でだけさらけ出した弱さだということをドラコは直感的に悟ったので、立ち入ることは許されない気がした。

 二人で手を繋いで、ドラコが車を停めた場所まで黄色い石畳の道をゆっくりと下っていく途中、それまでずっと口を閉ざしていたアガサがぽつりと言った。
「ドラコ、私はやっぱり、あなたの恋人になることはできないわ。ごめんなさい」
 ドラコは何も言わずに頷いた。
 もはや動揺することも、傷つくこともなかった。なぜなら、その時にはもうドラコは決めていたからだ。
――いつか必ず彼女を自分の妻にする、と。
 その時なぜかドラコは確信にも似た強い決意を抱いていた。いつか彼女と子をもうけ、家族をつくり、永遠に彼女を愛する、と。
 想像するだけでも怖ろしい突拍子もない考えだが、今朝、目覚めたときに、アガサがヴィラにいないことに気づいた時の方がずっと怖ろしかった。漠然と彼女を失うことを恐れている自分に気が付いて、彼の思いと衝動は確信に変わった。





 車の中で鼻をかみ、涙を拭いたアガサは、ケロっと元気を取り戻して、途中のマルシェで降ろしてほしいと言ってきた。
 ドラコはマルシェの近くで車を停めて、彼女の買い物に付き合うために一緒に車を降りた。
「ランチに、ガレットを作ろうと思うんだけど」
「いいね」
「ジャガイモを生地にしたデ・ポムドールは好き?」
「好きだよ。でもあれは手間がかかるだろ、手伝おうか」
「そんなことを言うなんて、何かいつもと違う。どうしたの?」
「はあ? 別に、一緒に作ったら楽しいかもなって思っただけだよ。飯も一緒に食べた方が美味しいんだろ、同じ理屈だ」
「確かに、そのとおりね。じゃあ、あなたはジャガイモの係ね」

 二人はガレットに必要な卵や、サーモン、キノコ類、ブルーチーズ、スモークハム、ベビーリーフなどを仕入れた。
 時々ドラコも注文をつけて、モッツァレラチーズとトマト、それに林檎酒もいくらか手に入れた。
「昼間から飲むつもり?」
「言うと思った。林檎のシードルはガレットによく合うんだよ。ちなみにこれは、ノンアルコールだ」
「そう」
「生地の繋ぎに小麦粉もあった方がいいんじゃないのか」
「千切りが上手くできれば、ジャガイモの澱粉が粘り気になって繋ぎになるし、その方がカリっとした美味しい焼き上がりになると思うわ。でも、ジャガイモ担当のあなたが不安なら、小麦粉も買っておいた方がいいかもね」
 アガサの何気ない言葉にドラコの承認欲求は刺激され、小麦粉を手に取ろうとする彼女の手をとどめて、ついついムキになる。
「そういうことなら小麦粉なしでやってみようじゃないか」
 彼女の目が途端に細められて、それから少し戸惑った顔になる。
「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないのよ。好みの問題だし、事実、ジャガイモだけじゃ粘り気が出にくいときもあるしね、あなたが不安に思うのも尤もだわ」
「不安なんかないよ」
 それからドラコはふと思い立って、さらに付け加えた。
「二人で試してみよう、失敗しても何度でもやり直せばいい」
「そうね、【料理は】挑戦するほどに楽しいものね」
 もちろんドラコは、最後にアガサが【料理は】と強調して言ったことに気づいた。
 二人の関係を示唆してドラコが「試してみよう」、と言ったのだということに、彼女はちゃんと気づいているのだ。だからドラコは挑戦的にアガサに微笑みかけたが、彼女の方はあっさりドラコから視線を反らした。ドラコはそれすらも愛しく感じた。





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