恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-7


 いざというときに足がつかないように、ドラコは携帯のアドレス帳は利用しない。書き留めることもなく、彼は必要な番号はすべて暗記していた。
 アガサの番号は、こっちに来てからラットがロスにいる彼女のGPSを追ったときに、パソコンのモニターに映しだしたのを見て覚えている。

 深夜0時を回ってもアガサがヴィラに帰ってこなかったので、ドラコはついにベッドから起き上がって、彼女の携帯に電話をかけた。
 だが、彼女は電話に出なかった。
 静かに息を吐いて、言いようのない怒りと焦燥感が腹の底から込み上げてくるのを、ドラコはどうにか押しとどめた。
 科学者同士で話が盛り上がっているのかもしれないし、例のあのうつろな目をして、また宙を見上げて思考の世界に旅立っているのかもしれないが、いくら何でも限度がある、とドラコは思った。長くはかからないと言ったくせに、人を心配させるのもいい加減にしろ、と。

――『いつまでかかるんだ?』
 メッセージを送ると、ややしばらくして返事が返ってきた。

――『遅くなる。首尾良好、フランス国立研究センターのラボを視察中』
 可愛げのないメッセージが届くが、ドラコは少しホッとする。やはり彼女は科学のことになると見境がないだけなのだ。

――『話したいことがある。早く、戻って来てくれ』

 既読スルー。
 
 ドラコは部屋を出て、二階の廊下からリビングを見下ろした。アーベイとラットがまだ起きていた。
「ラット、フランス国立研究センターを調べてくれ」
「了解。何を知りたいんですか」
 と、すぐに返事が返ってきた。

「ここからの距離と、施設職員名簿が見たい」
 ドラコが階下に下りて行くまでの間に、ラットは目的のものを探し当てた。
「距離はここから26キロ。ムーラン通りを真っすぐ西に走って、車で30分くらいですね」
 別のモニターに、職員名簿が映し出される。
 ドラコはラットの肩越しにすばやくそれらに目を通し、すぐに覚えのある名前を見つけてその一つを指さした。
「この男を明日までに調べておいてくれ」
「――ガブリエル・アダン? アガサが会いに行ってる【知人】というのが、コイツなんですか、ボス」
 ドラコはその質問には答えず、鋭い眼でラットを見つめた。
「頼んだぞ、ラット」
「……はい」

 それからラットは、ものの一時間ほどでガブリエル・アダンの調査結果をファイルにまとめあげていた。
 ガブリエルの生い立ち、家族構成、思想、経歴、資産状況や住んでいる場所、交友関係など、ラットはあらゆる情報を余すことなく手に入れた。彼はハッカーで、情報収集のプロだ。
 だが、ラットは時には、自分の足で動いてターゲットを偵察することもある。ドラコに命じられて、アガサの見張りをしたときのように。
 ロサンゼルスでは、決して接触してはいけないと言われていたのに、ラットは一度だけアガサと接触してしまったことがあった。
 その日は、何日も眠らずにアガサを見張っていたから、どうしても眠気に耐えられず、カリフォルニア工科大学の中庭に来ていたキッチン・カーにコーヒーを買いに行ったのだ。オーダーをしてから、ラットはうっかり車に財布を忘れてきたことに気づいた。支払いができずに困っていると、通りがかった一人の女性が彼の代わりに店主に10ドル札を差し出してくれた。「うっかりすることって、誰にもあるわよね。私もよくあるの」、と。その時に屈託なく笑ったアガサの顔が、ラットは忘れられない。
 車に財布があるから金はすぐに返すと言ったが、彼女はそれを断って、また今度会ったときに、今度はあなたがコーヒーを奢ってくれればいいと言った。
 あのときのアガサの、嫌味のない素朴な優しさを、なぜかラットはよく覚えている。

 ボスがアガサに心惹かれる気持ちもラットにはなんとなく理解できた。彼女が、とても優しくて純粋な人だから。
 だからもし、このガブリエル・アダンという男が悪い奴なら、容赦はしないつもりだし、何か雲行きの怪しい情報があれば絶対に見つけ出してやろうと、ラットは思った。だが、ガブリエルはいたって真面目な微生物学者で、フランス国立研究センターのバイオテクノロジーラボを統括する優秀な主任研究員だった。SNSの書き込みには、フランシズムを鼻にかけた多少ナルシストな一面も見受けられるが、致命的ではない。

 あとは、ボスが判断するだろう。
 ファイルをメールでドラコに送信し終えると、ラットは両手を大きく広げて伸びをした。
 アーベイはすでに寝室にさがったようだ。
 アガサに頼まれたシミュレーションプログラムは、朝からずっとコンピューターがフル稼働で実行中だが、まだまだ終わる気配がない。
 このままコンピューターに仕事をさせておいて、ラットも少し眠ることにした。





 皆がすっかり眠り込んだ明け方の3時。
 ヴィラまでガブリエルに車で送ってもらったアガサは、音をたてないようにリビングに入ってくると、ソファーでレースアップパンプスを脱ぎ捨てた。
「あいたたたた。慣れない靴で歩き回るものじゃないわね」
 パンプスを手に持って、裸足で階段を上がり、エマの部屋がある方向に廊下を曲がると、いきなり手前のドアが開いたので、アガサはぎょっとした。
 音もなくドラコが姿を現して、体の前で腕組をしてアガサのことを見下ろしてくる。ドア枠に気怠そうに背中を預け、不機嫌を隠しもしない態度だ。

「もしかして、起きて待っていてくれたの?」
 皆が寝ている時間なので、自然と声が囁き声になる。
「話したいことがあると送っただろ。……既読スルーしやがって」
「ごめんなさい、ちょっと立て込んでいたものだから」
「首尾よくいったんだな」
「ええ、ラボと協力者を得たわ」
 アガサが嬉しそうに笑みを零す。
「わかった、その話は朝になってから、詳しく聞かせてもらうよ」
 ドラコはそう言うと、アガサに自分の部屋に入るように手で合図した。

 アガサが入ると、ドラコは後ろ手にドアを閉めてその場にとどまり、アガサには部屋の奥の窓際にある椅子に座るように促した。
「話って、何かトラブル?」
「いや、違うんだ。実は、俺たちの関係について話したいんだ」
 唐突なドラコの言葉に、アガサはきょとんとし、部屋の中にしばしの静寂が訪れた。

「関係って?」

 呆けた顔をしているアガサを前に、さて、どう切り出したものか、とドラコは言葉を詰まらせる。
 一晩中考えても出なかった答えを今再び求めて、思いめぐらしても、やっぱり、好き、は軽すぎるし、愛してる、は嘘くさい。どんなに考えても相応しい言葉が見つからないのは本当に厄介だった。

「俺たち、恋人になってみるのはどうかな」

 瞬間、窓際の椅子にちょこんと腰かけたアガサが、静かに息を呑むのがわかった。
 もちろん、彼女を驚かせることになるのはドラコも覚悟していた。

 アガサは良識ある大人として、努めて冷静にドラコに訊ねた。
「それは女性として、私に好意を抱いてくれているということ? ドラコが、私に……?」
「そうだよ」
 アガサは微かに眉をひそめて、少し考える様に間を置いてから、やがて口を開いた。
「ありがとう。でも、私は恋人募集中ではないし、それに」
 ドラコは身動き一つせず、アガサの言葉に耳を傾けた。
「この話は、今じゃなきゃダメだったの? 生物兵器をどうにか防ごうとしている、大変な仕事の真っ最中じゃなくて。今、何時だと思ってるの」
「それはこっちのセリフだ……」
 ドラコはまた腕を組んで、ドアに背中を預けた。
「考えてみるとそうかもな、もっと早くに言うべきだったよ。アガサに初めて俺のパスタを作ってやった日か、ベガスで一緒に踊った夜か、あるいは誕生日の夜に君にキスをしたときに。けど俺はやり方を間違ったし、その時はまだ、自分の気持ちに混乱していたから。まさか本気で惚れると思ってなかったんだ、金で買ったのでもなく、言いなりになるのでもない女に。なのに頭から離れなくて、こんなに気持ちをかき乱されるんだから、こんなのは、……想定外だ」

 あの時と同じだ、と、アガサは思った。
 キスをして大喧嘩した後に、ドラコは車の中で暗闇の先を見つめながら、苦労して心情を打ち明けてくれた。
 彼は誠実で、自分を偽ることがないから、そんなふうにアガサに心のうちを明かしてくれたのだ。今は、ドラコの目は真っすぐにアガサに注がれている。
 アガサはあのときよりももっと、ドラコを近くに感じた。

「わかったわ」
「なにが? 何もわかってないだろ、今夜みたいにアガサの帰りが遅いときに、俺がどれだけ内心で葛藤してるか」
「心配させたのなら謝る。でも私は子どもじゃないんだから、そんなに怒ることないでしょう」
「分別のある賢い女性だとわかっているけど、ああ、心配したし、イラついたよ。この俺の【ささやか】な恋心を、アガサに受け入れてもらうまでは、とても正気でいられそうにない。俺の気持ちは伝えたから、アガサの応えを聞かせてくれ」
 アガサはまた少し考えてから、やがて決意したようにドラコを見つめ返した。
「少し、考えたいわね。ドラコのことは好きだけど、私には、あなたの気持ちを受け入れる準備があるとは言えない。正直なところ、あなたにキスをされた夜にはすごく動揺したし、その後しばらくはあなたのことが四六時中、頭から離れなくなったけど。この気持ちが恋なのかどうか、わからない」

「もう一度、試してみるか? あの夜みたいに」
 ドラコの声が、甘く低く、囁いた。
「そういうのを止めて、って言ってるの」
「でも恋人だったら、クリスチャンでもキスくらいするよな」
「それは、そうかもね。でも、あの夜みたいな欲望まるだしのキスは、結婚前のカップルには不適切だと思う」

「わかった。でも、これだけは言わせてくれ」
「なんなの」

「アガサの準備ができるまでは、もう二度と、強引にはしないと約束する。隣人の約束も守るし、それに、……」
 そこでドラコは、少しだけ間をおいてから、遠慮がちに言った。
「ちゃんと愛し方を覚えるよ」、と。

「ああ、ドラコ……。愛し方なんて、覚える必要はないのよ。それはもう、あなたの中にあると、私は思うんだけど」
「俺の中にあるのは、性欲と独占欲だけだよ。愛はよくわからない」
「あなたはとても親切だわ」
「常に目的があって、そうしてる。つきつめれば親切も損得勘定だ」
「それなら、まず知ることだわ。――あなた自身が先に愛されたことを。そしてこれからも愛され続けることを。なぜなら、人は愛されたようにしか、愛することができないように造られているから」
 ドラコには、アガサが神の愛のことを言っているのだと、すぐにわかった。
「アガサが教えてくれよ」
 アガサは哀れみのこもる眼差して椅子から立ち上がると、ドアの前まで歩み寄ってきて、ドラコを優しくハグした。
「私だって不完全な者だから、――どうか、ドラコが神様の完全な愛を知ることができますように。あなたのために、祈ることにするわ」

 それからアガサはもう一度、二人の関係については考えさせて欲しい、と言って、ドラコの部屋から出て行った。

 少なくともこれまでドラコが女性に好意を伝えたときに、「ありがとう」、と返されたのは、今夜が初めてだった。
 ドラコは無力感に苛まれて、力なくベッドに倒れ込んだ。
 もう、何も考えたくなかった。一時の恋焦がれる感情なら、望みが叶わないと分かった時点で、すぐに消え去ってほしかった。

 そのとき、ドラコの携帯にメッセージの着信音が鳴った。
――おやすみ、恋するマフィアさん a.

 からかわれているのかとも思ったが、何とも言えぬくすぐったさが胸に込み上げてきて、ドラコの顔が緩む。
 彼女をなんと形容すべきか悩むが、今はうまい答えが見つからなかった。
 ドラコは返信を打った。

――おやすみ、夢の中で君にキスをするよ d.

 既読スルー。
 明日の朝ふたたび会ったときに、アガサはドラコにどんな顔をするのだろう。
 目ざめたら、また彼女に会える。たったそれだけのことで、ドラコは安らかに眠りに落ちていった。





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