恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-6


 夜になると、アガサはシャワーを浴びて、入念に髪を乾かしてウェーブをつくった。【協力者】からのメッセージはすぐに届いた。
――アナンタラホテルのルーフトップバーで、今夜8時に。ガブリエル

 アガサはフランスに旅行する際、必ず一着は持ってくることにしているオペラ観賞用のナイトドレスに着替えた。
 白い長袖のミディ丈のワンピースだ。胸元のブイカットがデコルテラインをやや深めに強調しているが、イヤらしいほどではないから、神はこれくらいの女性らしさを出すことをアガサにも許してくださるだろう。
 頭には芸術の女神ミューズのような草花を模した髪飾りをつけて、ウェーブさせた長い髪をゆったりと背中に下ろした。
 足元には、植物の蔓をモチーフにしたオリーブ色のレースアップパンプス。いざというときに走って逃げられるように、ヒールは低めだ。

 徹夜のせいで鏡に写る顔がやや青白いことに気づき、うっすらと口紅とチークを入れることで補った。
 アガサは外見を取り繕うことでガブリエルの協力を取り付けられるとは思っていなかったが、相手に失礼がない程度に着飾るのは礼儀だと考えた。単なる【知り合い】の科学者に最先端のラボを使わせてほしいとお願いをしに行く、今夜のような場合は、特に。

 アガサは少し緊張して部屋を出た。人種差別的なきらいのあるガブリエルの協力を上手く取り付けられるかどうか、不安だった。

 一階にのリビングでは、皆がそれぞれにリラックスした時間を過ごしているようだった。
 エマはソファーでシャネルの雑誌を読んでいるし、アーベイはその向かいで足を組み、何かもっと難しそうな本を読んでいる。
 ラットはパソコンで日本アニメを観賞中だ。
 ドラコとニコライは片隅のバーカウンターで酒を酌み交わしながら、何やら楽しそうに話している。

 皆が思い思いのことをして過ごしていたはずなのに、アガサが下りていくと全員が一斉に顔をこちらに向けた。
 ヴィラの構造が悪いのだ。階段を下りて外に出るまでには、必ず皆の集まるリビングを通り抜けなければならない。
 注目を集めすぎてしまったことを気まずく思いながら、アガサは皆に、「ちょっと出かけてくる」、と短い挨拶をして、真っすぐにリビングを横切って行った。

 エマが、「デート?」、と茶化すように声をかけてくるのを、アガサは否定する。

「こっちでラボを貸してくれそうな【知人】に会ってくるだけよ。そう長くはかからないと思う」
「そう、気を付けてね」
「車を出そうか」
 と、ドラコが言いながら、玄関の前に立ちふさがった。
「大丈夫よ。そんなに遠くないし、タクシーを使うから」
「わかった。携帯を貸して」
 そう言って手を出してくるドラコを、アガサは不思議に見つめ返す。
「なんですって?」
「携帯だよ。俺の番号を登録してやるから、出すんだ」
「ああ、そういうこと」
 そういえば、連絡先を誰一人知らなかったので、出かける前にドラコの番号をもらっておくのはいい考えだ、とアガサも思った。
 アガサはハンドバックからそれを出して、素直にドラコに手渡した。
「短縮の一番に入れておくから、トラブルがあればすぐに連絡しろ」
「コンプリィ、パパ (了解、パパ) 」
 と、アガサはフランス語で応答し、ドラコから携帯を返してもらうと、さっさとヴィラを出て行った。
「あいつ……」

 後に残された仲間たちが、笑みを殺してドラコを見る。
 張り詰める沈黙を破って、最初に口を開いたのはアーベイだ。
「まあ確かに、今のはちょっと過保護に見えたな」
「でも気持ちはわかるわよ。アガサは人を信じすぎるし、無防備なところがあるからね」
「しかし、着る物で女性は本当に印象が変わるよねえ。今夜の彼女は、まるでミューズの女神みたいで、なかなかに可愛らしいじゃないか」
「彼女の携帯のGPSを追いますか、ボス」

「いや、いい」
 ドラコはそれだけ答えると、黙って階段を上っていき、寝室のドアを勢いよくしめた。

「怖いねえ」
 と、ニコライが口元を緩めると、エマは口先を尖らせた。
「ちょっとからかったくらいで、怒ることないのにね」
 アーベイが苦笑いする。
「いや俺たちにじゃなく、むしろ【愛娘】が夜遅くに外出したことに腹をたてているんじゃないかと思うがね」

 そして、キーボードを叩いていたラットが言った。
「どうやら行先は、海岸沿いのアナンタラホテルみたいだよ」
「調べなくていいって言われただろ。ボスの怒りを買っても知らんぞ」
「彼女の携帯じゃなく、マナセ広場から出て行ったタクシーの方を調べたんだよ」
「そんな屁理屈は、ボスには通用しないと思うけどねえ」
「でも、心配でしょう。日系人は何かと標的になりやすいんだから」
 それでもやはりボスが怖いので、ラットは早々にモニターを切り替えた。
「大丈夫だろうさ。何と言っても、彼女はボスの番号を持ってるんだから、手を出す奴は絶対に無事では済まされないだろうよ」


 階下でそんなやりとりが交わされているとは露ほども知らず、ドラコは寝室のベッドに仰向けになっていた。
 暗い部屋で天井を見つめながら、無性に胸が騒いでイライラするのを鎮めようとしている。

 彼女が何をしに行ったのかは分かっている。それで十分なはずだった。――仕事なのだから。
 任せておけばいいのだ。なのに、胸が騒ぐのは何故か。
 ドラコは目を閉じて考える。イヤな予感なのか、いや、違う。そうではなく、がっかり、と言うほうが正しい。
 今夜の彼女を見たとき、ドラコは彼女の手をとって一緒に出掛けたいと思った。だから、これは嫉妬なのだ。
 しかし彼女は敬虔なキリスト教徒であるし、何もドラコ以外の別の男を誘惑しに出かけたのではない。何があっても、きっと彼女は分別を守り通すだろう。
 なのに何故、嫉妬するのか。ドラコはまた考えを集中する。
 心配しているからかもしれない。でも、何を? 彼女は賢く、いい年をした大人なのだ。なのに何故、心配する必要があるのか。

 そうしてドラコは、ロジカルに一つの結論にたどり着く。
 彼女が大切だからだ、と。

 アガサは、愛の本質は相手を大切に思うことだと言った。
 瞬間、ドラコは胸を搔きむしりたくなるほどのむず痒さを堪えて、顔を腕で覆い隠した。

 彼女は言った。
――神の愛は、人知を超えて最も嫉妬深くて、深くて、強い。そして完全に一方的に人類に注がれ続けている。永遠に――
 彼は訪ねた。
――そんなふうに愛されたいのか、アガサは
 そして彼女は答えた。
――すでにそんなふうに愛されているのよ、ドラコ。私も、あなたも
 と。
 彼女の誕生日の夜に、ドラコが感じた不思議な感情が、またしてもドラコの胸に迫ってきた。手を伸ばせば、それはすぐそこに、彼女の中にある温かいもの。ドラコは、それに触れてみたいと思った。

 直後、すぐさまあの夜の失敗がドラコの脳裏にフラッシュバックする。
 感情の高ぶりのままに彼女にキスをしたのは間違いだった。二度と侵してはいけないミスだった。
 そう、あれは間違いだったが、でも、あのときに確かめた感情は、果たして本当に間違いだったのだろうか?
 彼の【ささやかな】恋心を彼女に打ち明け、二人の関係を発展させるのは間違いだろうか。もし、彼女が受け入れてくれるなら……。こう伝えるのはどうだろう、『僕は君とキスをしたりセックスがしたいから、結婚を前提にお付き合いしましょう』。
 また聖書でぶん殴られる未来が見えた。
 息苦しい。

 こんなのは、もう止めだ。
 今夜、彼女が帰ってきたら、彼女に伝えてしまおうとドラコは決意した。
 この感情はドラコの手に余るものであり、これ以上一人で抱え続けることは、どちらにしろできそうもなかった。
 そうして人知れず、ドラコは溜息をつく。
 何と言ってもアガサは、神の愛を知っている女性なのだ。人知を超えて最も嫉妬深くて、深くて、強い愛。完全に一方的に、永遠に注がれ続ける愛。
 最も完璧な愛を知っている彼女を、このうえ一体どのように愛すれば満足させることができるのか。

 ドラコには想像もつかなかった。





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