恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-5
外にはまだ激しい雨が降り続いていた。アガサと初めて会った嵐の夜のことを思い出して、ドラコはヴィラのフランス窓から外を眺めていた。
シャワーからあがったエマが二階から降りてきた。
「アガサは?」
「少し寝るって」
ドラコは何も言わず、また窓の外に視線を戻した。並んで一緒に外を眺めながら、エマはドラコの様子をそっとうかがった。
いつもと同じで、何を考えているのかわからない表情のない横顔を見上げる。その唇が、今夜にも私を求めてくれたらいいのに、と、エマは夢想する。
「彼女と何かあったの?」
「ロスで助けてもらったんだ」
「マリオのことで、あなたがギャングと撃ち合いになったとき?」
ドラコは詳しくは語らず、ただエマに頷いた。
「さっき言ってた、善き隣人契約というのは、なんなの。その話を持ち出したとたん、彼女はあなたの言葉を信用したみたいだったけど」
「アガサが所有する不動産に部屋を借りるときに結ばされた契約だよ。聖書の十戒に基づいている」
「ああ、なるほどね」
エマも、アガサが敬虔なキリスト教徒だということを知っていたので、それを聞いて納得した。
「もう寝るわね。アガサが私のベッドを使っているから、今夜はあなたのベッドを借りていい?」
「別に、構わないよ」
「そう、じゃあ、おやすみ」
そうして欠伸をしながら階段に向かっていくエマに、ドラコは思い出したように声をかけた。
「エマ、今日はアガサを連れてきてくれて、ありがとう。ゆっくり休め」
「……、いいのよ」
エマは素っ気なく返したが、彼女が仕事でした何かにドラコがあえて礼を述べることはこれまでになかったので、少し変な気がした。
エマには本当に、ドラコが何を考えているのかわからなかった。
◇
ワクチンの問題に一筋の光明を得て、その夜はラットも久しぶりに二階の寝室にさがって行った。
皆が眠りについた後も、ドラコは一階のソファーで過ごしていた。
真夜中を過ぎたころ、二階の部屋のドアが開く音がして、アガサが下りてきた。
裸足にルームサンダルをひっかけて、手にはラップトップを持っている。I♡LAのロゴが胸の部分に入ったスウェットシャツを、腰ひも付きのコットンパンツの中に無造作に押し込んで。
わざとそんなダサい恰好をしているのか? と、ドラコは思ったが、あえて口にすることは控えた。
「まだ起きてたの」
アガサはドラコに一瞥をくれると、向かいのソファーに座って、膝の上ですぐにラップトップを開いた。
「エマにベッドをとられたんだ」
「私がエマのをとったからね。私はもういいから、エマのベッドで休んだら?」
「いや、今夜は起きてる」
「心配しなくても、逃げたりしません」
「逃げるとは思ってないさ」
ドラコは、アガサが仕事を放って逃げ出す人間とは思っていなかった。眠りたくないのは、ただ同じ空間にいて、彼女を見ていたいからだった。
アガサはしばらくラップトップに何かを打ち込んでいた。時折、手を止めては、考え込んで唇に指の甲をあてる。
やがてドラコがそこにいることなど忘れてしまったかのように、モニターを見つめるアガサの目はうつろになっていった。
たまに何かを呟くが、ドラコには意味が理解できない。そうかと思えば、息をしているのかと心配になるほど、何十分も宙を見つめて動かないこともあった。
外が白み、朝になってみんなが起きてきても、アガサは無表情にラップトップを操り続けていた。誰かが声をかけても、反応はほとんどない。
はじめのうち、仲間たちはソファーで作業に没頭しているアガサを奇妙に見つめていたが、昼を過ぎる頃にはもう慣れて、アガサを景色のように思うようになっていた。
夜になっても、アガサの作業は続いた。
「何か食べたらどうだ」
と、ドラコが声をかけても、「これが終わったら」、とか、「あとで」、という返事が、数秒遅れで微かにかえされるのだった。
ニコライが気を利かせてコーヒーを差し出したが、アガサはそれに気づかなかった。
翌日の朝になっても、アガサが飲まず食わずで同じことを繰り返しているのを見て、仲間たちは心配し始めた。
目が血走り、クマがうかび、顔色が悪い。それでもアガサの集中力は途切れることなく、何かを猛烈にキーボードに打ち込んでは手を止めて、数字とアルファベットの羅列が動作するのを確認し、何かを見つけると、独り言を囁き、そしてまた何かを入力する。その繰り返しを永遠と続けた。
「科学者って、みんなああなのかねえ。まるで薬漬けの夢遊病患者みたいだよ、話しかけてもまるで気づきやしないんだから」
「アガサは昨日から何も飲んでないし、食べてもいないと思うわ」
「僕も何日か徹夜をすることはあるけど、そのときはカフェインを摂りまくる」
「人間の集中力の持続時間はせいぜい15分。長くても45分だ。彼女はかれこれ……」
そう言って、アーベイが腕時計をちらっと見て言った。
「32時間ずっとあの調子だ」
どうせ聞こえないと思って、アーベイは最後に「変人だな」、と、付け加えた。
アガサの仕事への取り組み方が常軌を逸していることは、もちろんドラコも気づいていたが、何も言わずにアガサを放っておくことにした。
ワクチンの開発は彼女にしかできないのだから、今は見守ることしかできないだろう。
だが、翌々日の朝、まだ薄暗いうちにリビングに下りてきたドラコは、アガサがソファーで丸くなっているのを見つけて、急いで彼女の元に近づいた。
顔色が悪いので、一瞬、死んだのではないかと思ったのだ。
「アガサ」
名前を呼んでも反応がないので、手首の脈を確認するのと同時に、彼女の呼吸を確かめるために顔を寄せた。
ゆっくりと、深い呼吸があることに気づいて、ドラコはホッとして、アガサを見下ろす。
抱きかかえてベッドまで運ぶことを考えたが、思い直す。もし手を触れたら、起きてしまうかもしれない。今はこのまま眠らせておくのがいいだろう。
こんなになるまで打ち込む奴があるか、まいったな……。
見るとアガサの髪はぼさぼさにほつれ、瞼は腫れて、唇は渇いている。明らかに栄養失調だ。
ドラコは毛布でアガサの体をくるんでやると、それから足早にヴィラの玄関を出て行った。
◇
柔らかな朝日が瞼を撫でるのを感じるのと同時に、パンや肉の焼ける芳ばしい香りで、アガサは意識を取り戻した。眠っていたようだ。
すごくお腹がすいていることに気づいて、上半身を起こすと、キッチンカウンターの向こうで腕まくりをしているドラコと目があった。
「おはよう、科学者さん。何か食えそうか?」
「うん、お腹ペコペコ……」
目をこすり、小さく伸びをして、ソファーから立ち上がろうとすると、アガサはよろけて転びそうになった。
「おいおい、大丈夫か? 待ってろ、今そっちに、」
「大丈夫よ、これくらい。それより、何を作ってるの」
アガサはよろよろとキッチンカウンターまで歩いて来ると、背の高いスツールに腰かけてキッチンを覗き込んだ。
ドラコは今、フライパンを火にかけているところだ。強火にかけながら、フライパンを前後に振ってアサリのパエリアを炒めている。
「美味しそうな匂い」
カウンターの上にはカットした生ハムと、チーズ、それに、アボカドとトマトのブルスケッタが並べられている。
アガサは短い祈りをささげてから、「いただきます」、と言ってブルスケッタをつまんで食べた。
パエリアを仕上げたドラコが、フライパンごとカウンターの上に置き、取り皿をアガサの前に差し出した。
それから、グラスにレモネードを注いで、それもアガサの前に置いてくれる。アガサは一気にそれを飲み干した。喉がカラカラだったのだ。
「これ、すごく美味しい。あなたが搾ったの?」
「うん、朝市でいいレモンが手に入ったんだ。やっぱり、レモネードは搾りたてが旨いよな」
言いながら、ドラコがアガサのコップにレモネードを注ぎ足してくれる。
アガサは取り皿にパエリアを取り分けて、それをまずドラコに差し出してから、二枚目の皿に自分の分を取り分けた。
「俺はいいから、アガサが食えよ」
「一緒に食べたほうが美味しい」
ドラコはカウンターの上に肘をついて、かすかに眉をひそめる。
「そういうこと、誰にでも言うなよ」
「どうして? 教会じゃみんな言い合ってるけど」
アガサは空腹を満たすため、性急に一口を頬ぼった。そして感激して鼻を鳴らす。
「何これ、今まで食べたパエリアの中で、一番美味しいんだけど」
「そんなに慌てて食べると、腹を壊すぞ」
「うん、止まらないわ。これどうやって作ったの」
「火加減がコツなんだ。本場スペインのパエリアはもうちょっと水気が多いが、俺はそれより渇いている方が好きなんだ」
「ムール貝じゃなくて、アサリが入っているのね。こっちの方が好きかも」
「今朝はたまたま、アサリしか手に入らなかったんだ」
「ふーん」
久しぶりの食事を夢中で頬張るアガサが相槌を返してくるが、ドラコの話をちゃんと聞いているのかどうかは怪しい。
ドラコは、ゲストが幸せそうに彼の食事にがっついているのを、満ち足りた気持ちで見守った。
「アガサの手料理もまた食いたいな。こっちで仕事がひと段落したら、何か作ってくれよ」
「いいけど、こんなに美味しいものを食べさせられた後では、ちょっとやりにくいわね」
「なんだよそれ」
カウンターごしにドラコが笑った。
美味しそうな料理の匂いをかぎつけて、二階からぞくぞくと仲間たちが下りてきた。
ドラコがキッチンでアガサに料理を振舞っているのを見て、全員が驚いて声を上げた。
「珍しいこともあるもんだねえ」
「俺たちの分もあるんだろうな」
「こっちに来て、座れよ」
ドラコは全員分の取り皿とグラスをカウンターに並べてやって、好きにつまませた。
「言っちゃなんだけど、これは、ちょっと信じられないくらい旨いです。どうして今まで隠していたんですか、ボス」
ラットが感動してパエリアをのどに詰まらせながら言った。
「別に隠すつもりはなかったが、言いたくもなかったな。男が料理をするなんて、面倒くさいだろ」
「そんなことない、この料理があればデートに誘った女性にとどめをさせるでしょうよ。けど、どうして今朝は急に料理をする気になったの?」
「野暮なことを聞くなよ、エマ。そりゃ、ここ数日眠らずの働きをしていた科学者さんに、栄養を与えるためだろうさねえ」
「今朝起きてくると、アガサがソファーで丸くなって今にも死にかけていたから、仕方なかったんだよ」
と、ドラコはアガサに顎を向けて困ったように笑う。
「まあ、確かに、アガサのことはみんなが心配してたからねえ」
「ごめんなさい、私、気づかなくて。仕事をしているときは、周りが見えなくなるってよく言われるのよ」
「周りが見えなくなるどころじゃなかったぞ。今思い返してもあれは、完全にあっちの世界にイっちゃってるって感じで、ある種、不気味でもあった」
珍しくアーベイも饒舌にアガサをからかった。
「何とでも言って、仰る通り、私は科学オタクの【変人】です」
「それは聞いてたのかよ」
と、アーベイが面食らった。
その日の朝は、ドラコの料理を囲んで、初めて皆が打ち解けて会話を楽しんだ。
だが、朝食が終わるとアガサはすぐにまた仕事モードに切り替わった。
アガサはラットにフラッシュメモリを渡して言った。
「これをあなたのコンピューターに入れてくれない? 私のラップトップじゃ動作が遅いから、この先の解析はあなたのコンピューターでやってもらえたら助かるんだけど」
「いいけど、何なの」
ラットはアガサからフラッシュメモリを受け取ると、すぐにそれをハブに差し込んだ。
そしてプログラムを開いてみて、「うわ、エぐい」、と呟く。
「科学者ってすごいんだね。こんなものを、たった数日で作っちゃうんだ……」
「なんなんだ?」
「簡単に説明すると、これはウイルス無毒化のシミュレーションプログラムみたいなものです、ボス」
ラットの横でプログラムが動作しているのを確認したアガサは、続いて3枚のレポート用紙をラットに差し出した。レポート用紙にはそれぞれ、数式と、ウイルスを簡略化したらしい絵が描かれている。隙間なく記載されているアルファベットの羅列は、おそらく何かの遺伝子配列だろう。
「とりいそぎ、Cov-fox1を無毒化するのに有効となり得る3つのプランを考えてみたの。これをそのプログラムに解析させて、一番効果のあるものをピックアップして欲しいんだけど、できる?」
「多分ね」
「助かるわ。ありがとう、ラット」
腫れた眼で、アガサは屈託なくラットに微笑んだ。ラットには、そんな彼女が儚げで、今にも消えてしまいそうに見えた。
「……うん。こっちはやっておくから、アガサは少し休んだほうがいいんじゃない。結果が出たら、すぐに教えるよ」
「そうさせてもらう」
それからアガサはフラフラと階段を上っていき、日が暮れるまでエマのベッドで気絶したように眠り込んだ。
◇
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