恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-4
ものの数分で、ニコライの運転する車はマナセ広場の一角に面する大きな古いヴィラの前で停まった。ギリギリまで玄関口に車を寄せてくれたが、降りるときも、やはりまた全員がずぶ濡れになった。
逃げ込むようにヴィラの玄関から中に入ると、オレンジ色の光に包まれた広々とした空間が広がっていた。
家具は少なく、部屋の中央にあるコーヒーテーブルを、4つのソファーが囲んでいる。そこに座っていたマッシュルームカットの黒髪の男性が立ち上がって、まずアガサに挨拶をしてきた。
「やあ、よく来たね。僕はアーベイだ」
ドイツ訛りのある英語だった。
アーベイは握手のためにアガサに手を差し伸べかけたが、彼女がずぶ濡れなことに気づくと、何事もなかったかのように、そっと引っ込めた。
続いて、部屋の奥の方でごついPC機材に囲まれている青年が、三面設置しているモニターの隙間から顔を出した。歳は20代前半だろうか。アガサはこれまでに、その青年を見たことがあるような気がした。
「【はじめまして】、僕のことは、ラットと呼んで。キッチンにいるのが、ここのボスだ」
ラットが親指をさした先、奥のキッチンカウンターの中にいる男に、アガサの視線は移った。
目が合うと、その男はアガサに微笑みかけてきた。
「元気そうだな」
アガサはハッと息を呑み、ドラコにではなく、隣にいるエマに問いかける。
「どうして彼がここにいるの? あなた、彼と知り合いなの? 彼の正体を知っている?」
矢継ぎ早な質問にエマが窮してドラコに視線を送った。
「エマは俺たちの仲間だよ」
「嘘!?」
悲鳴にも近い声を上げて、混乱に目を泳がせるアガサを、皆が言葉もなく一様に見守る中、ドラコだけが親しみを込めた眼差しで彼女を見つめ、楽しそうに笑った。
「アルテミッズ・ファミリーのアジトにようこそ、アガサ」
白々しい……。アガサはよそよそしくドラコに一瞥をくれると、
「帰らせていただきます」
と、くるりと体の向きを変えた。そしてそのまま玄関に向かって直進して行く。
だが、扉の前にニコライが立ちふさがった。
「ちょっと、通してください」
アガサはニコライをどかそうとしたが、ニコライはとても背が高く、体つきがガッシリしているので、小柄なアガサにはどうすることもできなかった。
ニコライの方は、今にも噛みついてきそうなアガサに睨まれて困ったように両手を小さく上げた。そして、ボスであるドラコの指示を求めて視線を送った。
ドラコがキッチンから出てきて、アガサの方に歩いてくるのが足音でわかる。
「捕って食いはしないから、落ち着けよ……」
「落ち着け、ですって? ええもちろん、落ち着いていますとも」
そしてアガサは振り返り、怒りの矛先をエマに向けた。
「酷いわ、エマ。あなたが仕事で困っているというから、わざわざフランスを横断してここまで来たのに。グルだったなんてね、どうして私を騙したの」
「悪かったわ、アガサ。でも、騙される方が悪いのよ。あなたはお人好しすぎるし、それに、無防備すぎるんだから、こういう目にあうのね」
アガサは顎が落ちるほど口を開いて、怒りと驚きを露わにした。
「友だちだと思ってたのに! さては、空港で偶然に会ったというのも、嘘だったのね?」
エマは鼻で笑った。
「おめでたい人、そうに決まってるでしょ。ええ、そうよ。私たち、力を貸してくれる優秀な科学者が必要だったから」
「何よそれ。悪いけど、あなたたちの仕事には手を貸せないから」
エマとアガサの熾烈な言い争いを面白そうに見つめていたドラコが、ここで間に入った。
「善き隣人のよしみで、話くらい聞いてくれてもいいだろう、アガサ。何も、悪いことをさせようっていうんじゃない、ちょっと、知恵を貸してほしいだけなんだ」
ドラコが距離をつめて、アガサを正面から見下ろしてきた。背後をニコライに、前をドラコに立ちふさがれて、アガサは身動きがとれなくなって焦る。
「私の良識の範囲で、あなたたちの為にできることがあるとは思えないんだけれど」
「今回は特に、その【良識】が必要なんだよ」
「ねえボス、口で説明するよりも、まずは彼女にこれを見てもらうのがいいんじゃない?」
そう言って、ラットがモニターをアガサのいる方へ回した。
エマがすかさずアガサの手を引いて、なかば引きずるようにモニターの所まで連れて行った。
――Cov-fox1プロトコル
真面目に取り合うつもりはなかったが、アガサはモニターに視線を移した。
そして映しだされた図や文字の羅列が、遺伝子改変を施された、新種のウイルスのプロトコルであることを理解する。
プロトコルを読み進めていくうちに、アガサは険しい顔になった。
「ちょっと、かして」
途中からラットのマウスをとりあげて自らページを送り始めた。
ラットが何か言いたそうにするが、ボスに無言で合図されたので、黙って引き下がる。
「ネグロイド、コーカソイド、モンゴロイド、オーストラロイド……、」
アガサはモニターを凝視したまま、独り言のように呟いた。
「人種ごとに標的を絞って毒性を与える様にターゲット遺伝子を組み込んだのね。親株はコロナウイルスの亜種、か。感染力が高く、このタイプの場合、おそらく潜伏期間は1週間ほど。はじめは風邪のような症状だけど、強烈な蛋白質分解酵素を産生して、数日以内に宿主細胞を破壊してしまう。エボラ出血熱に近いかも。これって、世界的にパンデミックを引き起こしたSARSウイルスやMERSウイルスよりも質が悪い。 一体、こんな物を誰が……」
ページをスクロールしていって現れた『ベネディクト社』の名を目にしたアガサは、ちっ、と舌打ちして「やっぱりね」、と毒づいた。
「これをどうするつもりなの?」
アガサが冷たくドラコを振り返ったので、ドラコはゾクリとした。
すごく怖い顔で睨みつけられても、ドラコは動じない。むしろ、彼女が短時間でウイルスの脅威を読み取ったことに、科学者としてアガサを頼ったことに間違いなかったと確信して、彼は満足する。
「俺たちは、これが世界に拡がるのを食い止めたいんだ」
「どうやって」
「数週間後に、ニースでこのウイルスが闇取引にかけられる。それを俺たちが独占し、市場への流通を食い止める。だが、ベネディクト社はウイルスを作り続けるだろうから、完全に食い止めるにはワクチンが必要だ」
「当然、ベネディクト社はワクチンを持っているはずよね、これだけ危険なものを取り扱っているからには」
「そこで、あなたの出番てわけなのよ」
「え?」
「エマの言う通りなんだ。ベネディクト社はワクチンを開発していないからね」
と、ラット。
それからアーベイが簡潔に事態を説明した。
「ベネディクト社のアホたちは、ワクチンの開発にかかるコストをすべて、ウイルスの生物兵器化に注いでいるんだ」
「ああ、神様……」
アガサは一瞬、天を仰いでから目を閉じた。
それからまたラットのモニター画面に視線を戻し、今度はさっきよりも時間をかけてCov-fox1プロトコルに目を通し始めた。
「そのウイルスに対抗するワクチンを開発できそうか、アガサ」
求められていることは分かった。
もちろん、アガサ自身も、こんな凶悪なウイルスを拡散させないための手段を講じるためなら、何を犠牲にしても力を尽くしたかった。しかし……。
「もし私がワクチンを開発することができたとして、その後に、あなたたちがこのウイルスを悪用しないという保証はある?」
あらぬ疑いを侮辱と受け取って、他のメンバーたちは困惑の表情を浮かべた。
だが、ドラコの無言の圧力が皆を黙らせた。
そうしてドラコは考える。
もちろん、ドラコたちアルテミッズ・ファミリーはそんなことはしない。ファミリーはむしろ、平和と秩序を重んじるからだ。
けれど、それを言葉で説明しても、アガサを信用させることはできないだろうと思った。
交渉の重要な局面で、相手の信用を勝ち取るにはどうすればいいか。
アガサのような正直で善良な人間を相手にするとき、恐怖で支配することは逆効果になるだろう。また、報酬を差し出すことも、意味をなさない。
これまで彼女と接してきた経験から、ドラコはシンプルに答えを導き出した。――正直で誠実であること以外に、良い策はない。
「善き隣人契約のために約束した、9つ目を行使する。俺たちの間に、嘘はない」
――あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
ドラコと善き隣人になるために守ると約束した、十戒を、もちろんアガサも覚えている。
「俺たちはテロリストじゃないんだ。アルテミッズ・ファミリーのドンは、平和と秩序を重んじ、イタリアの田舎でささやかなワイナリーを守り、愛している。ドンは、ウイルスが世に出れば人が死ぬことよりも、ワインをつくる土壌が汚染されることを何より恐れている。だから俺たちはドンのために、この生物兵器を防ぎたいんだ」
ドラコのその言葉に、嘘もごまかしもなかった。
そして、彼の言葉は真っすぐだ、と、純粋なアガサの心は感じ取った。
深い海のような、ディープ・ブルーの瞳が、真っすぐにアガサを見つめている。脅すこともなく、へつらうこともなく。
その時、ドラコと初めて会ったときと同じ印象がアガサの中に蘇った。彼の瞳の輝きには、邪悪ではなくむしろ、知性と正しさがあると。
「わかった」
それで十分だった。アガサはドラコを信じることにした。
アガサは再びラットのモニターに視線を落とした。
やがて唇は色を失い、アガサの瞳はうつろになる。それは彼女が極限まで集中しているときに見せる姿だった。
長い沈黙の後、ついにアガサは口を開いた。
「最短二週間でワクチンをデザインできると思う」
アガサの言葉に、皆が驚いて顔を見合せた。
「でも、私一人じゃ手が足りないし、ラボが必要だわ」
「誰か、他に協力してくれる科学者に心当たりはあるか?」
「気が進まないけど……、こっちにいる【知人】の助けを借りれば、なんとかなると思う」
「決まりだな」
ドラコがアガサに手を差し出した。
「一時休戦して手を組もう。よろしく、アガサ。君をチームに歓迎する」
「休戦? あなた、私に【戦争】でも仕掛けていたの」
途端に二人の間に張り詰めていた緊張がほどけていくのを感じ、
「そっちが俺に【冷戦】を仕掛けていたんだろう」
と、ドラコも返した。それからドラコとアガサは互いに短い握手をした。
「ヘアーックション!!」
直後、アガサが盛大にクシャミをしてドラコのスーツにしぶきを飛ばした。
「うわっ、おいおい、これ新しいスーツなのに……」
大袈裟なリアクションで両手を上げるドラコは、そうしながらもどこか嬉しそうだった。
「ごめん、つい。アレルギー反応かもしれない……ウワックション!!」
「俺に? ……わざとやってるだろう」
見ていられなくなって、エマが動いた。
「さあ、このままじゃ私たち本当に風邪を引いてしまうわ。まずはシャワーよ! アガサはひとまず私の部屋で休んで」
エマは親切にアガサのスーツケースを持ち上げると、ドラコからアガサを引き離して二階に連れて行った。
別に、アガサとドラコの間に男女の恋愛関係があるとは思いもしなかったが、二人が妙に打ち解け合っているように見えたことが、エマの心に何かひっかかるのだった。
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