恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-3
北大西洋上空に発生した低気圧の影響で飛行機はかなり揺れたが、アガサの乗った飛行機は定刻通りにシャルル・ド・ゴール国際空港に着陸した。
地上から見上げる空はどんよりと曇っている。フランス全体が今晩までに大雨になる予報だった。
ベガスでの学会発表を終えて、仕事に一区切りがついたので、アガサはふと思い立って休暇をとることにしたのだ。頑張った自分へのご褒美旅行だ。古城に一人でいるとドラコのことがどうしても思い出されてしまい、気持ちが落ち着かないので、気分転換をしたかったのもある。のんびりとセーヌ川をクルーズして、ルーブル美術館にもまた訪れてみるつもりだった。
パリはアガサにとって、一人で過ごすには絶好の場所だった。音楽や芸術、古い建物、人々の足音や話声……、それらすべてが逆剥けた心を癒してくれる。
手荷物受取所でスーツケースを回収し、アガサは到着ロビーに向かって歩き出した。
5月下旬はシーズン・オフということもあり、ゲートを難なく通過することができた。ロビーを横切ってタクシー乗り場に向かっているとき、誰かがアガサの名前を呼んだ気がしたが、アガサは聞き間違えだと思って無視した。海外で聞き間違えはよくあることだし、パリに休暇に来ることは誰にも伝えていなかったので迎えがあるわけもなかった。
すると、エントランスの自動ドアの手前で誰かに腕を掴まれた。
驚いて見ると、黄金色の艶やかな髪をした驚くほど美人な女性が、アガサに微笑んでいた。
「……、エマ?」
「ええ、私よ、アガサ。久しぶり!」
二人は互いに驚きの喚声を上げると、その場でハグをした。
これまでにアガサは2回、パリに旅行に来たことがあるが、大学院の卒業祝いをかねて2回目に訪れたときに、エマと知り合ったのだ。二人で一緒に、フランスでバイオテクノロジーの最新技術を研究している企業のコンベンションに参加したのを覚えている。
「あなたにまた会えるなんて、夢にも思わなかった。すごい偶然ね」
「ええ本当に、すごい【偶然】よね。こっちには観光で来たの?」
「ええ、そうよ。エマは?」
「私は仕事」
「そうなんだ、でも、食事くらいは一緒に行ける時間はあるでしょう?」
「それはもちろん。でね、アガサ、よければ今から、私が滞在しているニースに来ない?」
「へ?」
突然のエマの誘いに、アガサは耳を疑った。
パリからニースまでは600キロ以上も離れているからだ。気軽に出向くには、あまりにも遠すぎる距離だった。
だから、アガサは断った。
それでもエマは熱心にアガサを誘い、どうしてもアガサを招待したい理由があるのだと言った。
「実は今取り組んでいる仕事で、ある新種のウイルスについて、あなたの意見を聞かせてもらえないかと思ってるの。ほら、覚えてる? 私たち前に、バイオテクノロジーの企業コンベンションに一緒に参加したでしょう。あの時の、フランスが抱える生物兵器に対するあなたの予測的考察は素晴らしかった!」
「そうは言っても、お役にたてるかどうかわからないし、それに、もうこっちでホテルをとっちゃってるから……」
そこで、エマは最後の切り札を使うことにした。
アガサが要求に応じないときには、そう言うようにと、あらかじめドラコから教えられていた言葉があったのだ。
「ねえお願い、私たち本当に困ってるの。ここで出会えたのは絶対に【神のお導き】に違いないわ! どうしても、あなたの力を貸りたいのよ」
その言葉に、案の定、アガサは少し考え込んだ。
神の意思はあらゆるところに働いていて、アガサは自身に起こることをすべてのことを、神を中心に考えている。――神のお導き。そのとき何故か一瞬だけ、ドラコの顔が脳裏をかすめた。どうしてか、エマからはドラコと同じような臭いがする気がした。
そんなことを考えるのはきっと自分がドラコのことを考えすぎているからなのだろう、と、アガサは雑念を払うようにエマの求めに承諾して頷いた。
もともと、どうしても外せない予定があるわけではないのだ。久しぶりに再会したエマとニースで過ごすのも、きっと面白いだろうと考えることにした。
空が急激に暗くなって、到着ロビーの外で稲光が走った。途端に、ザーっと音をたてて雨が降ってきた。
アガサはエマに連れられてニース行きの特急電車に乗り込んだ。
◇
アガサはエマより年上であるはずだったが、並んで歩くとエマよりも若く見えた。日本人は顔の凹凸が少ないし、身長が低く、抑揚のない華奢な体つきをしているからだろう、と、エマは思った。
ニースに着くまでの間、エマは秘かにアガサを観察し、ドラコとの関係を推察しようとしていた。
そうして見るほどに、やはり、ドラコが惹かれるような魅力は、アガサにはない、と、エマは判断した。
アガサの服装は七分丈のブルーのカットソーと、清潔感のある色の濃いデニムだ。その上に春物のトレンチコートを羽織っている。黒い髪を無造作に後ろにまとめて、アクセサリーは一つも付けていない。せめて足元だけパンプスを合わせれば、もう少し女性らしい魅力が出るだろうに、アガサが履いているのは機能性を重視したエンジニアブーツだ。別に悪くないが、決して良くはない。イタリア人であるエマに言わせれば、もっと女性らしく着飾ればいいのに、と辛口コメントが出る。
ただ、アガサのきめ細やかな肌は化粧をしていなくても綺麗だったし、誰にでも分け隔てなく送られる優しい眼差しだけは、エマの目にも素敵に映った。ただし、大抵の男は、これらの地味な美点にはなかなか気づかないものだ、とエマは思う。
多くの男が好むのは、大きな胸、突き出たヒップ、色気のあるメイク、それに隙のある露出の高い服。それらをいかにさり気なく、巧妙に魅せるかが、エマのお洒落の醍醐味だった。アガサにはそれらが一つもないことに気づき、エマは少し安心した。
エマにとって、ドラコは初恋の人だ。
――エマヌエーラ・ミンフィ・アルテミッズ
それが彼女の本名である。彼女はアルテミッズファミリーのドン、フェデリコの一人娘だ。
フェデリコの娘だからといって、彼女が特別に甘やかされることは決してなかったが、ファミリーから腫物扱いされていることは間違いなかった。その証拠に、エマがどんなに好意を寄せても、ドラコが彼女を相手にしてくれることはなかった。誰もボスの一人娘には手を出さない。
もしエマがフェデリコの娘でさえなければ、きっと今までに何回かドラコとベッドインをしていたはずだ、と、エマは思った。
エマの携帯に、メッセージの着信音が鳴った。
――『今どこだ?』
ドラコが携帯で連絡をしてくるなんて珍しい。
エマはすぐに返信を打った。
――『アヴィニョンを過ぎたところ。午後5時にニース駅に到着予定』
すぐにまた、返信があった。
――『わかった。駅までニコライに向かいに行かせる』
ご丁寧なことだ。
戸惑いながらも、彼と携帯で連絡できたことが恋人同士のそれみたいで、柄にもなくエマの頬に微かな朱がさす。
「もしかして、恋人?」
「ええ、まあ、ちょっとね」
と、エマは笑ってごまかした。
「あなたが恋に落ちるくらいだから、きっと素敵な人なんでしょうね」
「まあ、そうかもね。彼は私にとって世界で一番大切な人」
エマが自慢するように言うのが可笑しくて、アガサも笑った。
それから二言、三言たわいない会話をしたが、時差ボケのアガサはやがてニース駅に着くまで眠りこんでしまった。
◇
ニース駅に着くと、バケツを返したような土砂降りの雨だった。
ロシア訛りの英語を話す紳士が、迎えの車を駅から一番近いピックアップスペースに寄せて、アガサのスーツケースを積むのを手伝ってくれた。エマとアガサは素早く車に乗り込んだが、それでも頭からずぶ濡れになった。
「はじめまして、僕はニコライだ。ニコと呼んでくれて構わないよ」
運転席に乗り込んでくると、二人よりもずぶ濡れになって髪から水をしたたらせたニコライが、後部座席のアガサに握手を求めてきた。
「はじめまして、ニコ。私はアガサよ。こんな雨の中を迎えに来てくれて、本当にありがとう」
「とんでもない。ボスの命令だからね」
「……ボス?」
アガサが不思議に思って聞き返すと、遮るようにエマが運転席の肩をたたいた。
「いいから早く車をだして、ニコライ! 風邪をひいちゃうじゃない」
「おっと、そうだったね」
ニコライは少しおどけたようにアガサにウィンクすると、すぐに車をゆるやかに発進させた。
◇
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