恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-2


 ドラコたちがニースのヴィラに来てから一週間がたった。
 ベネディクト社が主催する会員限定の船上パーティー、とは名ばかりの、世界的な武器の闇取引の場に参加するためのチケットは、ドラコが難なく手に入れた。
 ニコライとアーベイは参加者のリストを入手し、対抗馬にどれくらいの資金力があるかを調べた。同時に、新型の生物兵器を購入しようとしている連中の購入意欲を削ぐために必要なネタを余念なく検討し、戦略を練った。
 彼らの仕事は順調に進むと思われたが、肝心の生物兵器については、調べれば調べるほどゾッとする情報が明らかになっていた。
 ベネディクト社が開発した新型生物兵器Cov-fox1は、遺伝的に操作したウイルスを用いて特定の人種を特異的に殺傷するものだということが分かったのだが……。

「仕組みが複雑すぎて、全然意味がわからないよ!」

 数日間、パソコンに噛り付いていたラットが、ついに音を上げた。
 ラットは、ウイルスの遺伝子配列を解析するための大型のPC器材をヴィラの一階に運び込み、専用の作業スペースを設けている。今も、モニターの中でAGCTの無限の配列がひっきりなしに流れている。

「ワクチンのレシピを手に入れればいいだけじゃなかったのか」
 眠らずの闘いをしているラッに、ドラコが素っ気なく声をかけると、ラットは絶望したように首を横に振った。

「Cov-fox1は試作段階もいいとこです。奴ら、ワクチンなんか開発していなかったんですよ」
 ラットの言葉に、キッチンでロシアンコーヒーを入れていたニコライが手を止め、盛大に口笛を吹いた。
「冗談だろう? ワクチンもなしに世に出せば、自分たちも大変な目に合うってことが、分からないはずはないよねえ」

「ベネディクト社の科学者を連れてきて、【協力】させたらどうだ」
 と、アーベイが冷酷に言った。彼の言う協力とはもちろん、力づくでいうことを聞かせる、という意味なのだろう。

「それもダメだと思うわ」
 と、今度はエマが口を挟んだ。
「どういうことだ、エマ」
「こっちに来てから、ラットを手伝うためにベネディクト社の科学者と何人か接触したけど、馬鹿ばっかりだったわ。彼らは目先の利益に目がくらんで、よく分からないウイルスを生物兵器として売り込むことしか考えていないの。彼らは偶然にそれを見つけただけで、明らかにそれをコントロールする能力に欠けていると思う。社内ではワクチンの話どころか、ウイルスが流出拡散した場合の被害の想定さえ、されていないんだから」
「エマのいうとおりだよ」
 すでにベネディクト社の研究情報を隅々まで調べ上げていたラットが同調する。

「そんなアホなことが許されるとは、世も末だな。どこかにまともな科学者はいないのか?」

 アーベイが苛立ちを隠さずに罵った。
 その時ドラコは、反射的にポケットから携帯電話を取り出した。
 こっちに来てからも、度々気になっているアガサのことを、また思い出したのだ。
 バイオテクノロジーの研究に携わっている彼女なら、もしかするとこの問題に対処できるかもしれない、と思った。もしダメでも、他の科学者を知っているかもしれなかった。
 アガサの古城の番号を手動でダイヤルして、彼女が出るのを待つ。しかし、呼び出し音はすぐに留守番電話に切り替わった。
 念のためもう一度かけたみたが、やはり同じだった。

「心当たりでも?」
 仲間たちが期待を込めて見つめる中、ドラコは電話を切った。
「ダメだな、繋がらない。留守みたいだ」

 そう答えながら、ドラコの心はまた沈んだ。
 今、フランスは午後4時だから、ロスは朝の7時だ。今日は水曜日だから、いつもならアガサはキッチンに降りてきている時間だった。
 そんな朝早くから出かける用事が果たしてあるものか、と、ドラコは考える。あるいは、昨晩から帰宅していないのか? 彼女の所在がわからないことに、ドラコは無性にイラついた。

 物思いに沈むドラコをそっとしておいて、アーベイとニコライが、ラットのモニターを見つめて話し合いを始めた。
「ベネディクト社が販売しようとしている生物兵器を俺たちが買い占めたとしても、それを永遠に市場から抹殺するには、ワクチンは絶対に必要だ」
「どうしたものかねえ。このウイルスを解析して、ワクチンを開発してくれるような科学者のお友達が、俺たちにもいるといいんだけど」

 その時、エマが突然、「あ!」、と、大きな声を出した。
「心当たりがあるのかい、エマ?」
 ニコライがたずねると、エマは顔を輝かせて頷いた。

「一人いるわ! 数年前にフランス旅行で知り合ったの。そういえば彼女、当時は大学院生だったけど、早い段階からフランスが開発を進めている生物兵器のことを心配していたっけ。卒業したらカリフォルニア工科大学に就職が決まってる、って言ってた。すごく真面目なクリスチャンで、日系人の、確か名前は……」
「アガサか」
 ドラコは無意識に彼女の名前を呟いていた。

 エマをはじめ、皆が驚いてドラコを振り返る。
「ドラコ、あなた知り合いなの?」
「今かけてたのが、彼女だ」
 そう言って、自分の携帯電話を少し上げて見せる。
「彼女の家に? 一体、どういう関係よ」
 まさか、一方的にキスをして滅茶苦茶に殴られた相手だとは説明できず、ドラコは複雑な表情になる。
「まあいいわ。彼女の携帯にはかけてみた?」
「いや、携帯は知らない」
「あれ、ボスに伝えていませんでしたっけ」

 ラットが素早くキーボードをはじいて、モニターにアガサの携帯番号とGPSの位置情報を表示させた。

「いや、聞いてないけど……、そもそも、あいつ携帯を持ってたのか」
「いまどき携帯を持ってない人間なんて、居るわけないでしょう」
 ラットが呆れたように呟く。そもそもお前が俺に教えないからだろ、と、ドラコはこれにも内心イラッとする。
 それに、あんな山奥に一人暮らししているアガサのことだから、携帯を持っていないと言われればドラコは信じただろう。でも確か、山に電波塔を建てたと言っていたっけ……、なるほど、彼女は携帯を持っていたんだな。

「彼女は今、ロサンゼルス国際空港にいますね。知ってました? 機内モードにしても実際に飛行機に乗るまでは、GPSの位置情報を拾えるんですよ」
 無邪気に言うラットの肩越しに、ドラコは切羽詰まって問いかける。
「どこに向かおうとしてる?」
 言われるよりも前に、ラットはすでにキーボードを叩いて空港のネットワークに侵入しているところだった。
 ほどなくして、アガサの航空券の情報がモニターに映しだされる。

「LA発、エールフランスAF22便、パリ・シャルル・ド・ゴール国際空港への直行便ですね。パリに着くのは明日の朝7時です」
「それは好都合だ」
 ドラコの顔に思わず笑みが浮かぶ。
 仲間たちの前でドラコが笑顔を浮かべることは珍しいので、エマをはじめ、これにはその場にいた全員が、少し驚いた。
 だがそれも一瞬のことで、ドラコはまたすぐに実務的な姿勢を取り戻した。
「エマ、彼女を空港まで迎えに行ってくれ。事情を説明して、ここに連れてくるんだ」
「それは構わないけど、知り合いならドラコが行けばいいんじゃないの」
「いや、ロスでちょっとあって、俺は彼女に警戒されているからダメなんだ」
 その言葉に、ラットが人知れず苦笑いする。少し前にボスが顔に痣を作っていたことと、その後の数日間は超絶に不機嫌だったことを思い出し、やっぱり彼女が関わることだったのかと思ったのだ。
 ニコライとアーベイが何やら訳ありなことに気づくが、二人は大人なので、だいたいの事情は察しながらもあえて言及することはない。
 エマだけが訳がわからない様子でドラコを見つめている。
「ちょっと、って、何があったわけ」
「いいから、ひとまず俺のことは伏せて、アガサをここに連れて来てくれ。頼んだぞ、エマ」
「わかったわよ」
 そう応じながらも、ドラコの様子がいつもと違う気がして、エマは納得がいかなかった。





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