恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-14


――『ラット、状況は?』
――『アガサはウイルスの無毒化に成功しました。けど、ちょっとまずいことになってます』
――『今度はなんだ』
――『僕たち、閉じ込められました』
――『すぐそっちに向かうよ』
――『いえ、来ないでください』
 息を詰まらせ、どことなく切羽詰まるラットの声に、ドラコが眉を顰める。
――『どういうことだ、説明しろ』

――『この部屋には、ある特定の条件を満たしとき、外に出られなくなるよう仕掛けがされていたみたいです。その条件が、滞在時間なのか、人数なのか、あるいは僕らが何かを触ったからなのかはわかりませんが、アガサが装置への処理を終えたときには、扉がロックされて僕たちはもう出られなくなっていたんです。悪いことに、扉に内蔵されていた爆弾があと3分で爆発します』
 とても冷たい感覚がドラコの鳩尾に落ちた。アガサをここに来させるべきじゃなかったとドラコは即座に後悔したが、取り返しはつかない。
――『ラット、彼女は? 今すぐ、そっちに向かうから』
 声が震えた。
「ボス、3分じゃ、とても間に合わない」
 そう言ったアーベイの声にも悲壮感がただよっていた。
――『大丈夫です。僕たちは今、とっても狭い配管の中を進んでいて、アルカトラズの船尾の排水路に向かっています。驚きですよ、アガサは物凄く排水路の構造に詳しくて、微生物が濾過して綺麗になった水の中を安全に潜り抜けられるって言うんです。彼女は先に向かっていて、僕もこれからそこをくぐるんですけど、水に浸かればインカムは使えなくなるから、』
――『わかったよ、ラット。船尾で合流しよう』
――『はい。船尾にドックがあって、そこに小型のクルーザーがあるはずです。それで僕らを掬い上げてください。僕、泳ぎは苦手なんです』
――『すぐに向かう』

 一難去って、また一難。船底の爆発まであと17分。遠くの方で小さな爆発音がした。
 ラットのインカムはすでに通信不能になっている。きっと無事に排水路の中を進んでいるだろう。
 阿鼻驚嘆の後のオークション会場で、4人はホッと胸を撫でおろし、互いに顔を見合せた。大きな怪我はないが、皆ボロボロだ。
 4人は休む間もなく、急いで船尾に向かった。





 船底が爆発する5分前に、アルテミッズ・ファミリーの4人は暗い海面に浮かぶラットとアガサを見つけた。
 彼女をクルーザーに引き上げたとき、ドラコはやっと生きた心地がした。全身黒ずくめのドラコとは対照的に、アガサはシフォンの白いドレスを着ていた。ノースリーブの肩口から、背中に垂れるシフォンが羽根のように見えて、ドラコは彼女を天使みたいだと思った。

「みんなが無事で本当に良かった」
 アガサが涙ぐみながら、一人一人を抱きしめて、仲間たちの無事を確かめた。
 ドラコたちのように暴力や銃撃戦に慣れていないアガサが、本当は一番怖かっただろうに。

「あの銃撃戦の中でみんなが無事だなんて、奇跡みたい。神に感謝しなくちゃ」
「危険な目にあわせてすまない」
 ドラコが言うと、アガサは首を横に振った。
「ラットが守ってくれたから、私は大丈夫だったのよ」
「そのおかげで僕は、多分、肋骨が折れました」
 と、ラットが力なく言う。
「修行が足りない」
 ドラコがそれを冷たく切り捨てた。

「あなたたち、いつもこんな危険な目にあっているの?」
「今回は特に、不運が重なったんだと思うねえ。ここまで酷いのは、なかなかないよお」
 ニコライが港に向かってクルーザーの舵を切りながら呑気に教えてくれる。沖の方ではアルカトラズが爆発し、早くも沈みかけていた。


「俺たち全員を絶対殺すぜ、っていう策略がぷんぷんだったな、今回は」
 アーベイが毒づくと、エマが笑った。
「もしかして、このクルーザーにも爆弾が仕掛けられていたりしてね」
 もちろん、エマは冗談でそう言ったのだが、その瞬間、皆は顔を見合せた。
「チェックしたか?」
「いや、急いでいたからちゃんと調べては」
「あああ、なんかおかしいぞ!」
 舵をとっていたニコライが、いきなり変な声を上げ、困ったように皆を振り返った。港はもう目と鼻の先なのに、クルーザーの速度がやけに速い。
「どうした、ニコライ。おいおいおい、ぶつかるぞ!」
「スロットルが戻らない!」
「はあ!?」
「ねえ、このまま進むと」
「きゃあああ!」
「やばい、飛び込め!」
「クソが!」
 考えている暇もなかった。全員が揃って、クルーザーを捨てて思い思いの方向から海に飛び込んだ。
 操縦を失ったクルーザーはそのまま真っすぐ進み、岸辺の岩礁に激突して盛大に爆発炎上した。

 暗い海中から浮き上がったアガサは、辺りを見回して他の皆の無事を確かめた。
「ブラボー!」
 と、少し離れたところでアーベイが狂気じみた雄たけびを上げている。
「殺意が高いよねえ」
 ニコライは面白くもなさそうに呟きながら、桟橋に向かってマイペースに水を掻き始めた。
「エマが変なこと言うからだよ」
 と、水面に顔を出してバタバタと立ち泳ぎをしながらもラットが八つ当たりすると、エマは、
「私のせいだっていうの? ベネディクト社の奴ら、覚えてなさいよ!」
 と、濡れた髪を振り乱してヒステリックに叫んだ。冷たい海で全身ずぶ濡れになったことが、エマは何より不快だったらしい。

「大丈夫か?」
 ドラコがアガサを見つけて近づいてきた。
「言葉もないわ。もしかしたら今夜起きたことは全部、現実じゃなくて夢なのかもね」
 あっぷあっぷとまだ春の冷たい海面を桟橋まで泳ぎつくと、ドラコが手をかしてアガサを押し上げてくれた。先に上がったアガサは、前にかがんで手を伸ばし、今度はドラコを引き上げようとした。するとドラコは、差し出されたアガサの手を掴んで不意に彼女を引き寄せ、体を押し上げるのと同時に、アガサの濡れた唇にそっと自分の唇を重ねた。
「じゃあきっとこれも夢かもな」
 と、囁いて。それはあまりに自然で、一瞬のことだった。
 だが、アガサがこれを許すはずはなかった。
 ザバーン!
 不意に肩を突かれてドラコはまた真っ逆さまに海に落とされた。

「おめでたい人、一生そこで浮いてなさい!」

 投げ捨てる様にそう言うと、アガサはドラコを見捨てて桟橋の上をぷりぷりとして立ち去って行った。
 また彼女を怒らせてあえなく撃沈させられたドラコの方は、意外にもケロッとしている。
 むしろ海面に浮かびながらケラケラ笑って、酷く張り詰めていた緊張の糸が解れていくのを心地よく感じて、しばらく気持ちよさそうに仰向けに浮いていた。
 暗い海面から夜空を見上げながら、ドラコはふと考えた。彼女が天使だとすると、自分は悪魔なのかもしれない、と。
 一夜のうちにたくさんの人間を殺し、その血を浴びた。汚い言葉も口にしたし、何より、彼女を危険な目に合わせた。罪に定められるのは当然だろう。
 そうせざるを得なかったのであり、それが正しいことだとは、ドラコは思っていないが、必要であればきっと何度でも同じことをする。だから、神に赦しを乞うことはできない。

 だが唯一つ、彼女を求めて触れた唇だけは真実だったので、それだけは神の赦しを乞いたかった。





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