恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-15


 豪華カジノ客船アルカトラズの沈没は、翌朝の新聞の一面に大々的に掲載された。
 沈没の原因は、『エンジントラブルによる爆発事故』。乗員乗客の安否は未だ不明だが、生存の希望は極めて薄いとのことが、専門家の解説つきで尤もらしく綴られていた。

 当初は、使えない生物兵器を売りつけるインチキ企業としてベネディクト社を潰そうと考えていたドラコだが、それだけでは手緩いと考えた。
 フランス政府の手先となり、マフィアをはじめとるす裏社会の抗争を意図的に誘発したうえに、最後は事故に見せかけて彼らを暗い海の藻屑にした事実を、アンダーグラウンドの全ての組織に詳らかにするつもりだ。この世界に蔓延る闇が、必ずやベネディクト社への制裁を成し遂げるだろう。
 また、ベネディクト社が開発した非道な生物兵器の詳細と、それに対するワクチンと無毒化薬のレシピがすでに完成済みであることは、予定通り世界中に匿名でリークされた。善意ある人々の手によってそれらは広められ、同時に裁定者ともなって、ベネディクト社とフランス政府を公に裁くだろう。

 ヴィラにはその日の朝、灰色い紫のアイリスを月桂樹で囲んだ大きな花束が届けられた。
 送り主の名前も、メッセージカードもないが、それを見てドラコは、ドンが彼らの仕事に満足したことを知った。
 アイリスは信頼の証。月桂樹は栄光の勝利を意味する。
 これにてドンの憂いは晴れ、任務は完了したのだ。





 一か月近くもロサンゼルスを留守にしてしまったので、アガサは早々に帰り支度を始めていた。
 フランスでは、引き続きガブリエルがベネディクト社のウイルスの監視と、無毒化薬の管理を行なってくれると約束してくれた。
 彼は人格的には【難あり】だが、こと科学においては人並外れた才能と倫理観を持つ人物であったから、アガサは安心してあとのことをガブリエルに任せることにした。

 その日アガサが入手してきた航空券をドラコがひょいと取り上げた。
「エコノミー? 狭い座席は窮屈でイヤだ」
「それは私のチケットなんだけれど」
「帰りのチケットくらいこっちでとるのに。どうせ同じ所に帰るんだから、そのほうがいいだろう」
「結構です。けど、あなたは気にせず広い席をとればいいわ。だって私には、ドラコがどの席で、いつ帰ろうと、まったく関係がないんですから」
 案の定のよそよそしい態度である。
 アガサはドラコの手から素早くチケットを取り返した。
 ドラコは小さく肩をすくめると、ラットに視線を送った。
 ボスの意図を悟って、ラットはラップトップのキーボードを叩く。帰りの便でアガサが予約したシートの隣を、ボスの名義で予約する。さらに気を利かせて、前後左右を適当な名義で予約して、一般の客が二人の周りに座らないようにしておく。ラットにとっては朝飯前だ。





 次の日の朝になれば、ヴィラの仲間たちがまたそれぞれの管轄区に帰って行くことになった。
 最後の夜。
 アルテミッズ・ファミリーの面々とヴィラで過ごした数週間を思い返して、アガサは彼らとの別れを寂しく感じていた。できれば皆で別れを惜しみながら、互いの健闘を称え合いたかったが、あいにく、ファミリーの仲間たちはそんなおセンチな感傷は持ち合わせていないようだったので、アガサは少しがっかりしながら、バーカウンターで一人で飲んでいるニコライの隣に座った。
 コニャックのボトルを傍らに、背の低いステイグラスで、ニコライは幸せそうにちびちびとそれを味わっていた。
 アガサに気が付くと、すぐに人の良い笑みを浮かべて彼女にもそれを勧めてくれたので、アガサは喜んで受けた。
「あなたは明日、モスクワに帰るのよね、ニコ」
「そうだよ。君は、モスクワに興味はある?」
「ええ、近いうちに行ってみたいと思っているの。実は私が携わっているシャローム・プロジェクトのことで、世界中の孤児院をサポートする働きがあるものだから」
 ニコライが少し驚いた顔でアガサを見つめてきた。
「へえ、寝る間も惜しんで科学のことに勤しむ君が、そんなことにまで手を広げているなんて、ちょっと驚きだなあ。確かにモスクワには引き取り手のない孤児がたくさんいるけどねえ」
「科学は私自身が選んだ仕事だけど、シャローム・プロジェクトは、神が私に与えた仕事なのよ」
 神が、と言ったアガサの言葉を、ニコライはすぐに理解した。
 アガサとともに生活すれば、イヤでも彼女が敬虔なキリスト教徒であるということに誰でもすぐに気が付くだろう。
 彼女は食事のたびに祈りを捧げ、何かあれば聖書の一節を引用して、不道徳な悪を叱り、優しく諭そうとする。この数週間、ニコライは酒の飲みすぎについて注意され、実際に何度かグラスを取り上げられたし、アーベイは粗雑な行動を叱りつけられるたび、子どものようにふてくされていた。けれど、誰もアガサに対して反感を抱いていなかったのは、彼女が揺るぎない道徳観の持ち主であり、誰にでも平等に、親切に、優しく接するからなのだった。そんな彼女を知れば、確かに、神が仕事を与えたと言っても不思議はない。

「特にサポートを必要としている地区があれば、あなたに是非、アドバイスをしてもらいたいわね」
「お安い御用さね」
 応じながら、ニコライはコニャックを一口飲んで、遠くを見つめた。
 そうしてニコライは、かつて自分自身も孤児であったことを思い出す。貧しくて、惨めで、寂しい幼少時代を。
 地域によって多少の支援が届く孤児院もあるが、どこも悲惨な状況には変わりなかった。大がかりな仕組みの改善が必要なのだろうが、現状では連邦レベルの制度が欠如しているとしか言いようがない。中でも最も差し迫った状況にあるのが……
「僕は、ゴリヤノヴォの孤児院で育ったんだよ」
「まあ、ニコライ……」
「当時も酷かったけど、あそこは今も、この世の最底辺の場所だろうねえ。娼婦が、望まずしてならず者たちに孕まされた子どもを捨て置く場になっているんだ。乳幼児が多いんだけど、誰も犯罪者の子どもは引き取りたがらない」
「教えてくれてありがとう、ニコ。これで考えは決まった。近いうちに必ず、私はそこに行くわ」
 言うのは簡単だが、果たして何ができるのか、と、ニコライは内心で嘲笑った。
 ゴリヤノヴォは、低賃金の労働者階級が集落をつくる治安の悪い地域で、窃盗や暴行、強姦事件が日常だった。
 ニコライには、そんな所にアガサのような弱くて、世間知らずな女性が来ても、何かを成し得ることができるとは、とても思えなかった。
「本気なのかい?」
 緑がかったグレーの瞳がアガサの目を不思議に覗き込む。
「ええ、本気よ。【必ず】私はそこに行く」
 そう断言するアガサの眼差しがことさらに真剣で、触れば火傷しそうなほど熱い慈愛の決意に満ちていることを感じ取って、ニコライはことのほか面食らった。
――彼女は、本当に弱い人なのか? ニコライは困惑してアガサを見つめ続けた。

 その時、ドラコがバーカウンターの向こう側に入って来た。
「何を話してるんだ?」
「別に、ちょっと仕事の話」
 アガサが応じると、もっと詳しく話せよと言わんばかりにドラコが眉を顰める。
「仕事?」
 アガサがドラコにそれ以上応えないので、気まずい沈黙を退ける様にニコライが後を引き継いだ。
「アガサは、世界中の孤児院をサポートするプロジェクトに関わっているみたいだよ。それで、モスクワの事情を教えていたんだ」
「ああ、シャローム・プロジェクトか」
 と、ドラコは言った。
「覚えてたの?」
「そりゃ、俺は人の話はよく聞く方だからな」
 これにはアガサも少し驚いた。いつか彼女が話した神の仕事のことを、ドラコが覚えていてくれたのが意外だった。
 対してドラコは、アガサの前にあるステイグラスを見て、少し嫌な顔をする。
「もしかして、コニャックをストレートで飲んでるのか?」
「僕が勧めたんだよ。カミュはまろやかで、女性にも飲みやすい」
 だが、アルコール濃度は40度だ。せめてチェイサーをつけろよ、と、ドラコは思う。
「常温で飲むと、より強く香りが鼻から抜けるのが秀逸だわ。でも、もう酔いが回って来たみたい」
「強すぎるんだよ……」
 アガサの頬が赤らんでいることを見て取って、ドラコは彼女のグラスをカウンターの中に下げた。
「別のを作ってやるよ」
「なら、今夜はブランデーベースのものが飲みたいわね、ニコラシカを作ってよ」
 『ニコラシカ』という言葉を耳にした瞬間にニコライが、ゴホッと、コニャックを喉に詰まらせた。

 ニコラシカはロシア語の男性名『ニコライ』に由来するカクテルで、それはそれは強いカクテルであるばかりか、飲み方も独特だ。
 別名、口の中で完成するカクテル。その名の通り、レモンと角砂糖を口に咥えた状態で、ショットグラスのブランデーをくいっと一気に飲み干し、口の中で味の融合を楽しむのだが、その飲み方からして、ややエロティックなカクテルだし、隣にニコライが座っているのにあえて『ニコラシカ』を頼むのは、暗に『性的な誘い』とも受け取ることができた。

 ドラコが呆れて破顔する。
「そんなカクテルをどこで覚えたんだ……。今度、アガサには正しい酒の注文の仕方を教えなきゃダメだな」
「それがいい」
 と、ニコライも唸る。
 ドラコがアガサに差し出してきたのは、コリンズグラスのストロベリーソーダだ。
「え、ノンアルソーダ? オーダーと違うじゃない」
「特別な配慮だよ。支払いをしてもらおう」
「お金をとるつもり?」
「他のもので払うか?」
 カウンターに肘をついて、ドラコが意味深にアガサの口元に目をやる。――アガサはムッとする。
「でも、注文と違う」

「僕が払うよ、アガサ」
 それまでコンピューターの梱包作業をしていたラットが、アガサの隣のハイスツールに滑り込んできて、カウンターの上に10ドル札を置いた。
「なんだよ、ドルじゃないか。ここはフランスなんだから、ユーロを出せよな」
「いいんですよ、ドルで。アガサには10ドルの借りがあるんです」

 ドラコとニコライが何のことやらと呆ける傍で、アガサが「やっぱりね!」、と叫んで嬉しそうにラットを見やる。
「初めて会ったときから、どこかで見たことあるなって思ったのよ。なるほどね、私のことを探偵みたいに調査してたのは、あなただったのね、ラット!」
「なんだ、気づいてたのか」
 と、ドラコ。
 ラットがニコライに補足する。
「僕はボスの命令でロスにいるアガサの身元調査をしてたんだけど、あるとき彼女にコーヒーを奢ってもらったんだよね」
「どうしてそんなことになったんだ? 接触するなと言っただろ」
「不可抗力だったんですよ。車に財布を忘れて……」
「そうなの、ラットったら、昼時の混み合ってる列の先頭で、思い切り店主に怒鳴りつけられてたのよ。『金を払え!』って。もう私、見ていられなくなって、代わりに支払いをしたわけ」
「あろうことかアガサは、僕をかばって店主に説教まで始めたんですよ、そんなに人を怒鳴りつけるのは間違ってるって言って。正直、すごくお節介な人だなと思ったんですけど、あの時は助かったよ、アガサ」
「いいのよ。こうして返してくれたんだし」

 ラットとアガサのやりとりを聞いていたドラコとニコライは、いかにも彼女がやりそうなことだな、と思った。

「ラットも何か飲むか?」
「ジントニックをください」
 ドラコは冷やしたグラスにジンを注ぎ、トニックウォーターでフルアップすると、それをマドラーでほどよくかき混ぜてから、グラスにライムを落としてラットに差し出した。
 横からアガサがからかう。
「あなた、お酒が飲める歳?」
 途端に、ラットが目を丸くして抗議した。
「はあ!? それはあんまりだよ、アガサ。ニコライ、笑ってないでなんとか言ってよ」
 ニコライはクスクス笑いを呑み込んで、ラットを擁護してやる。
「ラットは若いけどねえ、僕には、アガサのほうが幼く見えるよ」
 すると今度はアガサが目を丸くした。
「いい機会だから教えてあげるけど、アジア人女性にとって『幼い』とか『若く見える』は、全然誉め言葉じゃありませんからね?」

「いや、そもそも、褒めてないだろ」
 どこから出たのか、アーベイが鼻で笑いながらアガサを一瞥し、カウンターに腕をかけてドラコに注文した。
「ソルティドッグを」
 ドラコは本場のバーテンダーよろしく、淀みない動きでオールド・ファッションド・グラスを取り出し、グラスの縁にレモンをあてて濡らし始めた。そうしながらもドラコは面白そうに口角を上げて、アーベイに軽口をつく。
「これを頼むとはお誂え向きだよ。昨日は船の上で、俺たちはそれこそ汗だくになって働いたんだから」
 ソルティドッグはイギリスのスラングで、甲板員を意味する。カクテル言葉は、寡黙というだけあって、アーベイのイメージにピッタリだった。

 グラスの縁に塩をつけてから、ロックアイスを入れ、そこにウォッカと搾ったグレープ果汁を注ぎ込んでから、ステアする。
「お疲れ、アーベイ」
「ダンケ」
 と、アーベイはドイツ語で礼を述べると、すぐにそれを口に含んで、鼻を鳴らした。

「何よ、バーを開いてるなら呼んでよね」
 最後にエマもやってきて、ニコライの隣に座った。
「エマも何か飲むか?」
「もちろん、バイオレットフィズをお願い」
 エマは、ドラコがいるときにはいつもそのカクテルを頼む。
「いつもこればっかりだな」
 そう言いながらも、ドラコは慣れた手つきでロンググラスに次々に材料をくわえ、最後にステアしてエマに差し出す。

 皆にグラスがいきわたると、ドラコはクーラーからビールを取り出して、先をカウンターの縁に当ててクラウンキャップを弾いた。
 グダール・ブロンドという、フランスの貯蔵ビールだ。

 ドラコがビール瓶を軽く掲げると、皆もグラスを掲げた。
「俺たちに」
  と、ドラコが言うと
「幸運に」
 と、エマが続き
「全員が生き延びたことに」
 と、アーベイが、
「仲間たちに」
 と、ニコライが微笑み、
「僕の折れた肋骨に」
 と、ラットが少しだけ皆の笑いを誘い、
最後にアガサが、「私たちの出会いと友情に」、と締めくくって、全員で乾杯をした。

「今回はキツい仕事だったけど、いいチームだった」
 と、アーベイが言った。
「ドイツに来ることがあれば、上手い店を案内するよ」
「今度、イタリアにも遊びに来て。最高のワインをご馳走するわ」
 と、エマ。

「ねえ、僕たちお別れをする前に、まだ触れられていないトピックについて意見を交わす必要があると思うんだよねえ」
 と、何故か意味深にニコライが口火を切った。
「エマが聞きにくいようだから僕が代わりに聞くけどねえ、昨晩、ボスとアガサは桟橋でキスをしていたよねえ」
「ニコライ、野暮だぞ」
 アーベイがたしなめるが、ニコライは止まらない。
「いいじゃないかい、アーベイ、最後の夜なんだ。僕は、ボスが何を考えているのか聞いてみたいんだよ。こんなに純粋な子に手を出しているとしたら、僕は由々しき事態だと思うんだけどねえ」

 エマは困った顔をしているし、ラットはニヤニヤしている。
 まったく、悪酔いしたロシア人の扱いにくいこと。アガサは呆れ果てて、ドラコと自分の間には何もない、と言おうと口を開きかけた。
 だが、それよりも先にドラコが滑らかなフランス語でこう言った。
「L'amour naît soudainement sans aucun remords. Par la nature, ou sinon par la faiblesse.」
――恋愛は別に反省もなく突然に生まれる。
――気質によって、さもなければ弱さによって。

 皆、フランス語が理解できるので通訳を求める者はいなかったが、アーベイがニヤリとして頷いた。
「フランスのモラリスト、ジャン・ド・ラ・ブリュイエールの名言だな」

「本気なの?」
 と、エマが驚いてドラコに聞き返した。
「いいえ」
 と、アガサ。
 ドラコが苦笑する。
「見ての通り、彼女はなかなか落ちないんだ」
「この話はもう終わったはずでしょ?」
 アガサが怖い顔でドラコを睨む。
「一度や二度断られたくらいで、俺が引き下がるとでも?」
「待ってよ、もうプロポーズしたの?」
「まさか!」
 アガサが大袈裟にかぶりを振るのを横目に、ドラコが真剣な表情でエマに答える。
「プロポーズは【まだ】していない」
 裏を返せばそれは、プロポーズはこれから【必ず】すると言っているようでもあった。
「ドンはこのことを知っているのかい?」
 今度はニコライが口を挟んだ。別に責めている風ではないが、ただ、驚いている様子だ。
「もちろん、堅気の女性と結ばれていけないという掟はないけど、でも、ボスはドンのとびきりのお気に入りだからねえ。アガサのことが本気なら、早いうちにドンに紹介しておいたほうがいいんじゃないかと思うなあ」
 ニコライに言われて、どうかな、と言いたげにドラコがアガサを見つめてきた。
「勝手に話を進めないで!」
 皆の視線を浴びて、アガサは激しく首を横に振った。
「もう、寝るわね。きっと私はもう【二度と】あなたたちと会うことはないと思うけど、皆の無事をいつも神様に祈っているから。それじゃあ、さようなら!元気で!」
 どもりながらまくしたてて、アガサは逃げる様にエマの寝室に引き下がって行った。

 残されたファミリーの上に、彼女が置いて行った静けさが羽根のように舞い降りた。
「もう二度と会うことはない、ねえ」
 グラスの中の解けかかった氷を指で優しくつつきながら、アーベイがほくそ笑む。
「俺たちとこれだけ知り合いになっておいて、あの言い方はないよねえ」
 ニコライがコニャックを一口すすり、幸せそうに瞼を細める。
「僕はボスと一緒にロスに帰るので、アガサとはこれからもたびたび顔を合わせることになるでしょうね」
 と、ラットは他人事だ。
「じゃあ、いつか彼女をイタリアに連れてくるつもりなのね?」
 エマは少し悲しそうでもあるが、彼女も立派な大人なので、無様に妬いたりはしない。
「どうすればそれができるか、今は全く思いつかないけどな」
 困ったように破顔して、仲間たちを見回すドラコは、年相応のただの恋する青年に見えた。仲間たちの目にはそんなドラコの姿が、とても危うく、同時にとても魅力的に映った。





第3話END (第4話につづく)