恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 3-1


 イタリアの大地は、古代のギリシャ人がエノトリア・アルテス――『ワインの大地』と呼んだほどに、ワイン造りにとっては理想的な環境をそなえている。
 水はけがよく、空気の循環に優れる土壌はまた、保水性にも優れている。この土壌で育ったブドウは肥えすぎることのない適度な栄養によって、バランスの良い酸味と、豊かな果実の甘さ、そして柔らかなタンニンを含む、極上のワインを生み出す。

 アルテミッズ・ファミリーの本部は、イタリア第四の都市ピエモンテ州トリノにある。
 フランスとの国境となるトリノ西側のアルプス山脈の丘陵地帯で、ファミリーのドン、フェデリコ・デュラーノ・アルテミッズは、300年以上も続く小さなワイナリーを今も守り続けている。
 裏社会で名を馳せ、時には政府や警察権力までもを脅かすマフィアのドン・フェデリコは、一見すると、麦わら帽子を被った人の好さそうな、ただの日焼けした農夫に見える。だが、彼の卓越した情報網と、鋭い勘は常に健在だ。フェデリコは、世界中から寄せられる情報の欠片を一つ一つ繋ぎ合わせて、まだ見ぬ未来を予測し、抜かりなく対処するセンサーを持っていた。

 近頃、その彼のセンサーが赤いランプを灯らせている。

 隣国フランスとを連絡するモンチェニージオ峠から、危惧すべき情報がもたらされたのである。
 それは優麗なワインの産地を脅かす、汚染と破壊の報せだった。

『フランスで良くないことが起きている』
 一刻の猶予もなく、アルテミッズ・ファミリーのドン・フェデリコは、有能な部下たちを招集した。
 イタリア、ベルリン、モスクワ、……そして彼は思う。そうだ、この仕事はドラコに仕切らせよう、と。
 そう決めてから、それが英断だと自身で確信してほくそ笑む。――彼の一番のお気に入り。ドラコこそ、フェデリコが最も信頼する有能な部下だった。





 口元にできた大きな痣を見て、ロサンゼルスの部下たちは明らかに何かを言いたそうにした。
 だが、ドラコの殺気にも近い不機嫌なオーラに、それが触れてはならない話題だということに即座に気づいて、誰も好奇心を実際に言葉にするような愚かな真似はしなかった。

 数日の間、アガサはドラコと顔も合わせなかった。
 ドラコの方でも、避けられていることが分かっていたので、無理に追いかけることをしなかった。だが、その日イタリア本部のボスから招集がかかると、ドラコはアガサが帰ってくるまで一階のリビングでずっと待っていて、彼女を捕まえた。

「しばらくロスを空けることになった」

 大学の仕事から帰ってきたアガサは、少し疲れた様子でドラコと向き合った。

「……そう。しばらく、って、どれくらい?」
「一か月か、二か月。長ければもっと。けど、ロスには戻ってくるから、部屋はそのままにしておいてもらえると助かる」
「わかった。いつ発つの?」
「今夜だ」
「そう、気を付けね」

 アガサはそれだけ言うと、階段を上がって行ってしまった。
 ドラコは彼女の姿が見えなくなるまで目で追ってから、一人になると小さく息を吐いた。
 どこへ行くのか、とも、何をしに行くのかとも聞いてこないアガサに、どうしてか微かな苛立ちを覚える。ドラコにはわかっている。どこに行くのかを聞いてこないのは、彼女が他人に無関心で冷たい人間だからではない、と。
 あの女はとても聞き分けが良くて頭がいいから、それを聞くべきでないということをわかっているのだ。
 俺がマフィアだから、どうせどこかマズイ所に行って、何か良くないことをすると思っているに違いない。そう、――俺が、マフィアだから。

 そうしてドラコは、ここ数日ずっとそうしているように、あの晩に軽々しくアガサにキスをしたことをまた後悔した。
 ドラコは謝り、彼女は謝罪を受入れた。隣人としてドラコが城に留まることも許してくれたが、あれ以来、二人の間には超えられない溝ができてしまった。
 時間が解決してくれればいいのだが。
 ドラコの顔の痣が消えても、未だに二人はギクシャクしている。

 少し距離を置くのが修復のためにいいのかもしれない。
 そう思うことで沈む気持ちをどうにか立て直して、ドラコは古城を後にした。





 古城を離れて約12時間後。ドラコは地中海の潮の香りを胸いっぱいに吸い込んで、長時間のフライトで凝り固まった体をほぐしていた。
 ここはフランスの港町ニース。
 美しい地中海と、アルプスの雄大な自然に囲まれたこの街は、フランス屈指のリゾート都市だ。
 その街の中心部、マナセ広場に面した一軒のヴィラに、フェデリコが招集した一癖も二癖もあるファミリーのメンバーが集結した。
 オレンジ色の外壁と、褐色の屋根が鮮やかなバロック様式のヴィラは、1900年初頭に建てられた古い建物で、室内は白い壁が所々はがれて灰色になり、木造の梁部分は日に焼けてひどく黒ずんでいた。

「とても【ロマンチック】なアジトね。ここを選んだの、誰よ」
 建物に入るなり茶化すように口笛を吹いたのは、波打つ黄金色の髪を肩に降ろした長身の美人だ。
「ラットだ」
 と、ドラコが応えると、「やっぱりね!」、と、美女は責める様に、ブラウンの短髪を無造作に跳ねさせた青年を見やる。

 一階の広間はそのままリビングとしてあつらえられて、片隅にバーカウンターと、オープンキッチンがあるだけだ。
 広間は二階部分まで吹き抜けになっていて、奥の階段を上ると、二階の廊下から広間を見下ろすことができた。

「どうしてラットに決めさせたの? こんな所で何日も過ごしたら、私たち全員、カビ人間になっちゃうんじゃないの」
 ドラコが肩をすくめるだけなので、ラットが代わりに面倒くさそうに応じる。
「広いし、Wi-Fiが使える。それに何より、作戦地に近いからだよ。気に入らないなら、エマはホテルに移れば」
 エマは無視した。

「部屋はいくつ?」
 口髭を生やした体つきのいいブロンドの長身男性が、二階を見上げて扉の数を目で追いながらラットに訊ねた。
「二階に5部屋。どの部屋にもシャワーがあるよ」
「それなら全員がゆっくり休めるね。なかなかいいじゃないか」
「ニコライはいつだって呑気なんだから。そりゃモスクワに比べたら、こんな埃臭いヴィラでもましなんでしょうけれど。部屋は早い者勝ちでいいわね?」
 エマが階段を上って行こうとすると、
「それよりも先に、今回の仕事の詳細をボスから聞きたいな」
 と、黒髪を額に斜めに流している、几帳面そうな男がドラコに視線を送った。

「わかったよ、アーベイ。みんなちょっと集まってくれ」

 ドラコは皆の注意が自分に向くのを待ってから、広間の中央で立ったまま説明を始めた。

「旅の疲れで皆イラついていると思うから短く説明する。まず、フランスが世界第二位の武器輸出大国になっているのは、皆も承知してると思うが――」
 ドラコが話始めると、ニコライが応じて後を引き取った。
「昨年までは米国、ロシアに続いて世界三位だったフランスが、今年に入って急激にロシアを上回ったんだよねえ。核抑止を掲げている国にしては熱心なことだよ」
「たしかその反動で、フランスは生物兵器のシェアを拡大しているのよね」
 と、エマ。
 ドラコは頷き、話を続けた。
「国際的な生物兵器禁止条約のもと、表向きには開発も保有も禁止されている生物兵器だが、フランス政府がそれを推し進めているというのは、裏社会では有名な話だ。で、政府が自らスポンサーとなっている民間のベネディクト社が、この度新種のウイルスを用いた生物兵器を開発したというわけだ。悪いことに、まだ試作段階の兵器を、ベネディクト社は手っ取り早く闇でさばいて、効果を検証しようというつもりらしい」
「フランス政府はそれを許しているのか? それとも、事態を把握していない、ただの間抜けなのか」
「ドンによれば、フランス政府は傍観的立場でそれを黙認している」
 それを聞いて、ニコライが失笑した。
「まあ、生物兵器は核よりも人気があるからねえ。きっと背後でとてつもなく大きな金が動いているんだろう。それこそ一国の政府が【黙認】するくらいのねえ」

「言うまでもなく、今回ばかりはフランス政府に【丁重にご挨拶】をする必要があると、ドンは考えている。そこで俺たちの出番だ。仕事は二つ。一つは、今から一か月後にニース港の船上で開催される武器取引に参加し、ベネディクト社が世に放とうとしている新型の生物兵器をすべて買い占めること。取引会場には俺とエマで行く」
 ドラコの言葉に、エマが無言で頷く。

「そしてもう一つは、その兵器を無効化する手段を講じて、未来永劫市場から抹殺することだ」

 それが成功すれば結果として、ベネディクト社はおろか、フランスの軍事産業も大きく衰退することになるだろう。
 アルテミッズ・ファミリーのドンからの【丁重なご挨拶】というわけである。

「まず、世界中から武器商人が集まってくるだろう。ファミリーの財源だけで、強豪他者を退けて全てを買い占めることが可能なのか?」
 アーベイの質問に、ドラコは笑みを浮かべる。
「もちろん、効率よくやるために【根回し】が必要だ。ちょっとした情報戦を仕掛ける」
「なるほど。それは俺たちの得意分野だ」
 そう言ってアーベイがニコライに目配せをすると、ニコライも頷いた。
「となると問題は、兵器を無効化する手段を講じることだねえ」
「それはラットの担当だ。ベネディクト社のコンピューターをハッキングする」
 ラットは、手にしているラップトップを指先でつついて応じた。
「ドンが潰したがってるその生物兵器が、一体どんな代物かはまだ分からないけど、開発者ならきっと持っているはずだよね、ワクチンみたいな、【何か】をさ」
「なるほど、それを手に入れて拡散させれば、兵器そのものの市場価値は失われるというわけか。難しくなさそうだ」
 アーベイは納得して頷いた。

 最後に、確認するようにドラコが皆を見回して言った。
「今回の生物兵器が世に出回れば、多くの人命が不当に失われることは言うまでもないが、ドンは、それ以上に兵器からもたらされる土壌汚染が、イタリアのワイン産業に壊滅的なダメージを与えることを最も懸念している。ドンはあの小さなワイナリーに何より執着しているから、いつも通り、」

「「「「「【失敗は許されない】」」」」」

 まるで示し合わせたかのように、5人全員の声が、古いヴィラの一階で静かに不気味に重なった。





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