恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-9
バイオテクノロジー学会の聴講には参加証が必要だったが、受付を取り仕切るマギーという女性は申し訳なさそうに、ドラコに言った。
「あいにく、本日は満席で、受付は終了してしまったんです。発表者のご家族の方になら、今からでも特別な参加証をご用意できるんですけど……」
ドラコは少しも悪びれることなく受付でアガサの夫だと名のり、それを手に入れた。
目的の会場には、扉の外まで人が溢れていた。
ドラコは中に入るために、出入口を塞いでいる幾人かに声をかけて道を開けてもらわなければならなかった。
会場は薄暗く、前方にある二枚のスクリーンだけが明るく照らし出されていた。そのスクリーンの間の講壇の前に、アガサが立っているのがかろうじて見えた。
プラスチックの新しいリサイクルシステムについて説明するアガサの声が、マイクを通してドラコにも聞こえてきた。
肩を寄せて聴き入っている人々にぶつからないように気を付けながら、ドラコはゆっくりと前にすすみ、立ち見をしている人々の列に混ざって壁際に立った。
専門用語はわからなかったが、概要はドラコにも理解することができた。
どうやらアガサは、プラスチックを貪食する微生物を人工的に造ったという話をしているようだ。それらの微生物はプラスチックを分解して土に還すだけでなく、ある特定の工程を加えることで、副産物として石油を産生するという。もともとプラスチックは石油を人工的に組成して造ったものだから、発想を転換し、微生物に組成の巻き戻しをさせた、という説明だった。
アガサは、それらの夢みたいな話を、聖書の話をするときと同じように、すごく真面目に語っていた。
彼女が熱心に、そしてとても楽しそうに語るので、ドラコだけでなく、その場にいた誰もが彼女の話に惹き込まれているようだった。
発表は簡潔にまとめられて10分ほどで終わったが、すぐに、多くの質問の手が上がった。
座長がはじめに、50代くらいのベテランとみられる男性科学者に発言を許可してマイクを回した。
男性は立ち上がると、礼儀正しく自己紹介をしてから質問に入った。
「ハーバード大学バイオテクノロジーラボの、ジョン・ウィテカーです。今回の研究で用いられた微生物のオリジナルは、日本で発見された『イデオネラ・サカイエンシス』との説明でしたが、確かあれは、プラスチックの中でもポリエチレンの組成を分解するものだったと記憶しています。イデオネラ・サカイエンシスをブーストした、あなたの人工微生物もやはり、ペットボトルに用いられるようなポリエチレン特有に効果を発揮するのでしょうか?」
「ご質問をいただき有難うございます、ウィテカーさん。ご指摘の通り、イデオネラ・サカイエンシスは当初はポリエチレンの発酵分解に効果があると考えられていました。ですが、イデオネラにアルファ処理をすれば、ポリスチレンを同様に分解することがわかり、また、極低温下でイデオネラにベータ処理を行なうことで、ポリプロピレンにも効果があることがわかりました」
「それが本当なら、驚くべき発見だ。論文はもう書かれましたか?」
「実は今、ネイチャーに論文を投稿中なんです。上手くいけば、審査を通過して今年の掲載に間に合うと思うのですが。私がへまをしていませんようにと、神様に必死に祈っているところです」
ドラコはそれを言葉通りに受け取ったが、会場はそれをアガサのウィットだと受け取って、小さな笑いがあがった。
「私も祈っていますよ、アガサ。素晴らしい発表でした」
会場は温かい拍手に包まれた。
次の発表者の時間が迫っていると見えて、座長は始めの質問だけでセッションを切り上げようとした。
だが、一人の押しの強い質問者がどうしてもと譲らなかったので、「では、次の質問を最後にします」、と座長が一人のフランス人に発言を許可した。
混み合っている会場の中、人々が協力してマイクが回されると、30代くらいのその男性科学者はいきなりフランス語でアガサに質問をした。
「Si le micro-organisme que vous avez inventé se répandait dans toute la société, je pense qu’il accélérerait la détérioration des produits en plastique et provoquerait le chaos dans toute la société. Prenez-vous des précautions contre cela ?」
こういう発表の場所では、質問者は所属と名前を名のるのが礼儀であるはずだったが、その男が名のりもしなかったので、傍から聞いていたドラコは内心イラッとした。
「恐れ入りますが、会場の方にわかるように英語で御話しいただけませんか?」
と、アガサが丁寧に男に頼む声がマイクから聞こえてきた。
だが男は、再びフランス語で、しかもさっきよりも早口でまくしたてた。
それまで和やかだった会場の雰囲気が、サッと凍り付いた。
あの男、絞め殺してやろうか。
ドラコは秘かに、そのブロンドの背の高いフランス男を睨みつけた。スーツではなく、カジュアルなポロシャツと綿のパンツを履いているその男からは、高慢で、自分以外のすべてを見下しているような態度が透けて見えた。
英語圏にいるのに頑なにフランス語しか話さない嫌味な奴は、たまにいる。ドラコもこれまでに何度か、そういう輩に出くわしたことがある。
一対一ならただの嫌がらせを無視しておけばいいが、このような公の情報交換の場で、相手にわからない言語をしゃべってマウントをとるのは、アガサに対する侮辱ととれた。
座長があわてて、「どなたか通訳をお願いできる方はいませんか?」、と別のマイクで言ったが、申し出る者は誰もなかった。
日常会話ならいざ知らず、科学の専門用語をフランス語で通訳するには、フランス語に精通していなければならない。かくゆうドラコも、フランス語はバーで女性を口説く程度の日常会話しか話せなかった。
会場がシーンと静まり返る中、アガサが座長に、大丈夫です、と合図を送った。
「Puis-je vous demander votre nom ?(あなたのお名前をお伺いしてもよろしいですか?)」
アガサの丁寧な、だが、残り時間を気にしてか、やや早口な問いかけに、その男は、ガブリエルだと不愛想に名のった。
するとすぐに、アガサは英語で話し始めた。
「ガブリエルさんからの質問にお答えします。
本研究で私たちが開発した人工微生物の漏洩が、社会全体に及ぼす負の影響について、何か防衛策をとっているのかというご質問についてです。
つまりガブリエルさんは、今回の研究で用いられた人工微生物が仮に世の中に解き放たれれば、日常品のプラスチック製品が急速に劣化してしまうことを懸念されているのですが、私たちはその心配はないと考えて居ます。
生物学者が常にそうであるように、自然界の生態系を乱さないように私たちも最善の注意を払っています。
具体的には、極めて嫌気的な環境下でのみ生存ができるように遺伝的にブロックをかけることで、拡散防止措置を講じました。これらの微生物は通常は魔法瓶のような特殊な容器に入っていなければ生存できず、外気に暴露されれば数分以内に死滅することを確認しています。
尚、本微生物の実用化に向けてCDCと、国の三省庁に対して、工業的使用の許可を申請中であることを補足させていただきます」
はじめに英語で会場の聴衆に説明をした後、アガサは続けてフランス語でも同様の説明をしたようだった。
日系の若手研究者が予想外にフランス語で応答してきたので、ガブリエルは終始、虚を突かれたような顔をして聞いていたが、やがてへらへらと笑いながら、「あなたの話すフランス語はとても基本に忠実ですね」、と、馬鹿にしたように言った。アガサが「Merci(ありがとう)」と、返したのを合図に、座長はさっさとガブリエルからマイクを回収してセッションを閉じた。
多くの聴衆がアガサに盛大に拍手を送って席をたった。
だが、ガブリエルと、その取り巻きらしい一団は、セッションが終わった後も薄ら笑いを浮かべて何やら囁き合っていた。
差別主義者はどこにでもいる、と、ドラコは思った。
貧困街の路地裏から、高級ホテルに集うエリート集団の科学者の中にまで、等しく人間の悪意は蔓延っている。単純な暴力よりも、より陰湿な嫌がらせという手段がとられる後者のほうが、よほどたちが悪い。アガサはよく、切り抜けたものだ。ドラコは人知れず胸をなでおろした。
講演のあと、ドラコはすぐにアガサに労いの言葉をかけてやりたかったが、それは叶わなかった。
というのも、それから学会が終了するまでの間ずっと、科学者たちはアガサを取り囲み、名刺を交換し、熱心に議論を交わしていたからだ。
ドラコには少しも近づく余地がなかった。だが、彼女が楽しそうにしているのを遠くから見ているのも、意外に悪くなかった。
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