恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-10
その日の夕方、ドラコはすっかり満足してペントハウスのリビングでくつろいでいた。
科学の小難しい話を聴くのは退屈だと思っていたが、意外に楽しかった。
心地の良い疲労感を流すために今夜は一杯飲みに出かけたいな、と思った矢先に、ちょうどアガサが玄関から入って来た。
「あなた、私の夫だと名のったそうね」
開口一番にそう詰められて、ドラコは小さく肩をすくめた。
「君の講演を聴くのに、参加証が必要だったものでね」
「たくさんの人に質問攻めにされて、大変だったのよ。結婚して何年か、とか、子どもはいるのか、とか、どこで知り合ったのか、とか!」
「それは悪かったな。人違いだ、とか、会に潜り込むためにその男が嘘をついたんだ、とか、適当な説明をしてくれて構わないよ。そんなに大したことじゃないだろう」
「それが、あなたの嘘がバレたら悪いことになるんじゃないかと思ったから、私……」
言い淀んで、アガサは少し泣きそうな顔をした。
「なんて答えたんだ?」
「結婚して3年、子どもは4人、知り合ったのはロスで、あなたは電気の修理屋さんということになってる」
「それはまた、……随分ディテールを作り込んだものだな。結婚して3年なのに、子どもは【4人】だって?……もうちょっとまともな嘘をつけなかったのか」
「パニくったの!」
アガサは両手で頭を掴み、声にならないうめき声を上げて力なくソファーに沈み込んだ。そうしてしばらく自責の念に苛まれ、後悔の発作と格闘した後、「きっと、疲れていたせいね」、と、絶望して呟いた。
「案外、人は他人に興味がないものさ。数日もすれば、きっと誰も覚えていないよ」
「今夜、夫婦でディナーパーティーに招かれたわ」
アガサの話に耳を傾けながら、面倒が面倒を呼び込んでいる顛末に、ドラコは笑いをこらえた。
「もともと会の後にパーティーがあるのは知ってたから、一人で行くつもりで登録してたの。でも夫がいるとわかると、是非夫婦で参加しなさいって、受付のマギーが席を用意してくれた。……今からでも過ちを訂正して、あなたは私の友だちだとみんなに説明するべきかもね」
「せっかくの楽しい夜に水を差すことはないんじゃないのか。勝手に勘違いをさせておけばいいのさ」
「でも、嘘は悪いことだわ。今すごく、ここが罪悪感で締め付けられてる」
アガサは胸の上に手をのせて、祈るように天を仰いだ。
「やっぱり訂正すべきね」
しばしの祈りの後、ついに決心を固めて、アガサはソファーから立ち上がった。
「きっと滑稽に思われるでしょうけど、彼らを騙しておくのはもっと良くないことだわ」
アガサは振り返って、申し訳なさそうに、ドラコを呼んだ。
「ドラコ、あなたさえ良ければ、私と一緒に来てくれると助かるんだけど」
「もちろんだ。喜んで」
ドラコもゆっくりと立ち上がって、アガサに微笑んだ。
アガサはまた一瞬、泣きそうな顔をした。
それから丁寧に礼を言うと、ディナーパーティーの身支度をするためにすぐに奥の部屋に入って行った。
ドラコにとっては、大したことのないことだ。嘘も、夫婦だと偽ることも。
そもそも、始めに夫だと嘘をついたのはドラコなのだから、彼女はドラコを責めるべきなのだ。
だがアガサは信仰によって自らの中に厳しいルールを定めていて、物事の大小に関わらず、今夜も信仰によって、人を責めるより先に、彼女自身の嘘を咎め、間違いを正そうとしている。
彼女が後悔したり、苦しんだりしながらも、こんな些細な問題にさえ正直であることを選び取ったので、ドラコにはアガサのことが、なんだか愛おしく思えた。
信頼できる友人は純金にもまさる宝になり得る。
暗い世界を生き抜いてきたドラコには、そのことがよくわかる。
甘美なラスベガスの夜に、そんな友人とディナーに出かけるのも悪くないだろう。
◇
日中のうちにコンシェルジュが、ワードローブの中にいくつかの着替えを準備しておいてくれた。
その中から、ドラコはカジュアルな黒いジャケットと、パンツ、それに白いブイネックのTシャツを選んで着替えた。昼間の堅い雰囲気とは趣を変えて、夜は少し着崩したかった。
アガサを待っている間、ドラコはバーカウンターでマティーニを作った。
その冷えた一杯を舌の上に転がしているときに、アガサが奥の部屋から出てきた。
柔らかなベロア生地の、深い藍色をした膝丈のワンピースドレスを着たアガサは、髪を下ろしてカチューシャをつけていた。朝の大人っぽい雰囲気とは異なって、その姿が少女のようにさえ見えることに、ドラコは複雑な心境になる。
「お嬢さん、何か作りましょうか?」
バーテンダー役のドラコがからかって声をかけると、アガサはカウンターの上に10ドル紙幣をおいて、マダム風に応じてきた。
「きんきんに冷えたモスコ・ミュールをお願いできるかしら」
マジかよ、と、閉口するドラコに、早くしろと言わんばかりに、アガサは指先でトントンとカウンターをつついた。
本物のバーテンダーならば、まず最初に年齢確認をできる証明書を求めたことだろうが、実のところアガサの年齢を知っているドラコでさえ、彼女のオーダーには少し戸惑った。モスコ・ミュールはウォッカベースのキックの強いカクテルだ。アガサのような清純な【少女】が好んで飲む酒とは思えなかった。
それでも、ドラコはシェイカーにクラッシュした氷とウォッカを注ぎ入れ、ライムを切って絞った。それから慣れた手つきでシェイカーを振ると、クーラーから銅製のタンブラーを取り出してアガサの目の前で注ぎ入れ、仕上げにジンジャーエールでフルアップして軽くステイしてから、彼女にそれを差し出した。
怪訝に見つめるドラコの前で、アガサはすぐにタンブラーを掴み上げ、驚いたことに、威勢よく一気にそれを飲み干した。
目の前にいるのが落としたい女であれば、多少酔わせるのも楽しいものだが、その予定もないのに無節操な酔っ払いの面倒をみるのは遠慮したかった。
「おいおい、いつもそんな風に酒を飲むのか?」
「お酒はたまにしか飲まないし、飲んでも少しだけ」
アガサは空のタンブラーをカウンターの上に戻すと、立ち上がった。
「喉が渇いてたから凄く美味しかった。素敵な一杯を有難う。もう、行ける?」
「……ああ」
頬ひとつ赤らめることなくリビングを横切って行くアガサをいぶかりながら、ドラコはそれでも玄関ホールで彼女を捕まえて自分の腕を差し出した。
「お手をどうぞ」
「え?」
「お洒落してディナーパーティーに出かけるなら、ちゃんとエスコートをさせてくれ」
「ああ、そっか。ごめんなさい、男性と出かけるのに慣れてなくて。ありがとう」
男性の先を歩いてしまった非礼を詫びてから、アガサはそっと、ドラコの左腕に手をかけた。
気分を害してしまっただろうか、と、アガサは申し訳なく思った。
近くに並んで立つと、ドラコの背が高く、体つきがしっかりしていることがわかる。
右手をドラコの腕にかけて歩かせてもらうだけで、すれ違う人々がアガサに道を譲ってくれているように感じられたし、いつもなら不安定なハイヒールも、ドラコに支えられていると、自然と歩くのが楽に感じられた。
男性にエスコートされる有難みがわかり、アガサはドラコに感謝した。
◇
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