恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-8
ドアを開け放して眠っていたドラコは、奥の寝室からのシャワーの音で目を覚ました。
時計を見てまだ朝の5時だということを知り、敬虔なキリスト教徒の正気を疑いながら、ベッドの中で寝返りを打つ。
やがて小一時間あまりも続いたシャワーの音が止んで、ドライヤーの音に切り替わると、ドラコはベッドサイドの受話器をとりあげ、朝食のルームサービスを注文した。コーヒーと、フルーツ、……あとは何か適当に、というドラコの魂のない注文を、フロント係は快く受け止めた。
パジャマの上からローブを羽織って、ベッドから這い出る。
昨晩寝る前に、髪をちゃんと乾かさなかったのでドラコの黒い猫毛に寝癖がたっているが、別に気にすることもない。そのまま裸足で玄関ホールまで出ていくと、昨晩のうちにコンシェルジュに頼んでおいた着替えと新聞の束を、受取ボックスから取り出した。
ベガスに来て、これほどロマンスに欠ける朝を迎えるのは初めてだ。
早朝からシャワーの音でドラコを目覚めさせたくせに、その後、アガサはなかなか部屋から出てこなかった。
ルームサービスは6時半に運ばれてきて、新鮮なフルーツとサラダ、熱々のコーヒー、それに、トースト、サンドイッチ、卵とスープがダイニングテーブルにセットされた。
ドラコは新聞を読みながら、先にのんびりと朝食を始めた。
アガサが慌ただしく奥の寝室から出てきたのは、それから1時間後だ。
すでに新聞を読み終えて、お腹も満たされたドラコは、もう一度ベッドに戻ろうかとしていたのだが、部屋から出てきたアガサを一目見て、眠気は吹き飛んだ。
「おはよう」
アガサはドラコに気づくと快活に挨拶をしてきて、そのまま颯爽とバーカウンターまで歩いて行き、背の高い丸椅子に腰を預けて、手にしていたラップトップのモニターを開いた。
これまでドラコは、デニムとトレーナーを着ているアガサの姿しか見たことがなかったので、今朝の彼女が上下揃いのパンツスーツをかっちり着こなしているのを見て、目を疑ったほどだった。
薄いベージュ色のパンツスーツは体のラインによくあっていて、女性らしいヒップと足の曲線を浮き上がらせている。
ジャケットの内側に着ている薄地の白いブラウスは目を凝らせば透けそうなほど繊細で、細かいレースが幾重にも入っている。ブラウスは、ジャケットの下で上半身のラインにフィットしているので、その少しゆとりのあるジャケットを脱がせて体のラインをもっとよく見てみたい、という衝動が、ドラコを楽しませた。
さらに、足元にシャープな印象を与える先の尖ったスエードの黒のハイヒールを履いているのが、妙に色っぽく見えた。そのせいでいつもより背が高く、大人っぽく見える。
いつも無造作に後ろで丸めている髪は、今朝はエレガントなアップスタイルに纏められ、少しだけ顔の横に後れ毛を垂らしている。そして顔には黒縁の眼鏡。
日本人がそんな眼鏡をかけるのは反則だろ、と、ドラコは思った。
「こっちに来て、何か食べたらどうだ」
と、ダイニングテーブルからドラコが声をかけると、アガサはモニターから目を放さずに首を横に振った。
「緊張して、今は何も食べられそうにない。8時から私の発表時間なの。すでに吐きそう」
「緊張するのはいいことだ。気楽に構えたらどうだ? やるべき準備は、すべてやったんだろ」
そう言われて、アガサは小さく深呼吸すると、ラップトップを閉じて、ドラコのいるダイニングテーブルまでやって来た。
「朝食を頼んでくれて、ありがとう」
ドラコの向かいの席に座り、テーブルからメロンを一片とって、口に入れる。
「普段はコンタクトなのか?」
「いいえ、これは伊達眼鏡。すごく緊張してるから、少しでも顔を隠して、自分を守ってる気になってるのよ」
「一つ言わせてもらっていいかな」
「なに」
もう一欠片、今度はさっきよりも大きいメロンをとって口に押し込むアガサに、ドラコはテーブルに頬杖をついてニコリと微笑んだ。
「その眼鏡、すごくエロく見えるから外した方がいい」
「ふあ!?」
口にメロンを詰め込んでいるせいで言葉は出なかったが、アガサは激しく眉をしかめて抗議した。
「俺が言うんだから、間違いない。それを外して、こっちに寄こせ」
「……冗談でしょ?」
「日本のポルノに出てくる女教師みたいで、すごくエロい。冗談じゃないよ。そこのソファに今から君を押し倒して、証明してみせようか」
ドラコはわざとらしく時計を見上げて、「8時まではあと30分だから、それだけあれば2回は証明できるな」、とうそぶいた。
アガサはすぐに眼鏡をはずして、それをダイニングテーブルの上に置いた。
「……からかわないでくれる。あなたが言うと、冗談に聞こえないんだけど」
「冗談じゃないさ」
アガサの気が変わらないうちに、ドラコはテーブルの上の黒縁眼鏡を回収すると、それを片手で弄びながら、面白そうにアガサを見つめた。
「そっちの方がずっと綺麗だよ」
事実、それは正しかった。
フォーマルな会合で発表をするために、派手すぎない、相応しいメイクをしたアガサは、女性らしくて、綺麗で、知的な魅力を漂わせていた。
「あなたのせいで、緊張が吹き飛んだわ……。じゃあ、行ってきます」
アガサはラップトップを小脇に抱えると、逃げるようにペントハウススイートから出て行った。
残されたドラコは、満足そうにほくそ笑むと、大きく伸びをした。
それから立ち上がって、無駄のない動きで朝の身支度を整えると、ものの数分後には上下揃いのサルバトーレ・ジョバンニの春らしいオフホワイトのスーツを身に纏っていた。
ダークカラーのシャツに、ネイビーストライプのネクタイ、シルバーのネクタイピンと、スーツと揃いのオフホワイトのベスト。
仕上げにジャケットの胸に、ネクタイと揃いのポケットチーフを入れて、フォーマルな装いの完成だ。
鏡の中のブルーの瞳と目があった。ただの暇つぶしのつもりだったが、ベガスに来たのは正解だったようだ。
今やドラコは、アガサの発表を聴くのが楽しみになってきたことに気づく。
間もなく8時だ。ドラコは余裕のあるゆっくりとした足取りで、スイート専用エレベーターから階下に降りて行った。
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