恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-7


 昼の12時を過ぎてもザ・ビートルはベガスには着かなかった。
それどころか、やっと道程の半分を来たところだ。
 朝から何も食べていなかったので、ついに空腹に限界がきて、二人はミッドウェイのダイナーで給油がてらに簡単な食事をとることにした。

 再び車に乗り込もうとしたとき、「運転を代わろうか」、と、ドラコが言ったが、アガサは断った。
正直なところ、恐れなしのスピード狂に運転を任せるのが怖かったのだ。

 ミッドウェイを過ぎて、ベガス郊外まであともう一息という地点マウンテン・パスに入る頃には、すでに日が傾きかけて、トラックさえ姿を見かけなくなっていた。
 目当ての講演をとっくに逃したアガサは、もはや焦る必要もなくのんびりと運転をしていた。
ドラコは何も喋らなくなっていたが、それでもずっと起きていて、忍耐強くアガサの運転を見守っているようだった。

 マウンテン・パスに入って間もなく、沈みかけた夕日の中で、進行車線に停車しているセダンがあった。
男性が一人で、困ったようにボンネットの中を覗き込んでいる。故障車だろうか。
 他に行き交う車もなかったので、アガサはゆっくりとその車の後ろにザ・ビートルを停めて、運転席から降りた。

「故障ですか? 何かお手伝いできることがあればいいんですけど」
 アガサが声をかけると、白人のハンサムな男性が困ったように両手を上げて振り返った。
「突然、エンジンが動かなくなってしまって、さっきまで白い煙が出ていたんですよ」
 しばらく車をいじっていたのか、男性の両手は真っ黒に汚れていた。
 男性に並んでアガサもボンネットの中を覗いてみたが、煙は確認できず、エンジンは冷めているようだった。
「はじめまして、僕はリックです」
「私はアガサです。修理業者を手配しましたか? リックさん」
「さっき電話したんですけど、ここに来るまで1時間以上かかると言われてしまって……、ベガスで娘の誕生日会があるのに、すでに遅れていて困っているんですよ」
「エンジンがかかるかどうか、もう一度試してみませんか? 音を聞けば、何か原因がわかるかも」
 アガサが提案すると、男性は嬉々として運転席のドアを開けて、アガサに乗るように促した。
「こんなに手が汚れてしまっているから、あなたがかけてみてください。僕が外で音を聞いていますから」
 何の疑いもなく、アガサが言われた通りセダンの運転席に乗り込もうとした。そのとき、ザ・ビートルからドラコが降りてきて、ドアをバタンと閉めた。

 必要以上に大きな音をドラコがわざと出したように感じて、アガサは違和感を覚えてドラコを振り返った。アガサのザ・ビートルの停車位置が、故障したセダンの位置よりも西側にあり、セダンからは逆光になっていたので、ドラコの姿はよく見えなかった。
 だが、ザ・ビートルから出てきたドラコに気づくと、故障車のリックの表情が一瞬、邪悪にひきつったように、アガサには見えた。
「一人じゃなかったんですか?」
 リックが聞いたので、アガサは頷いた。

 ドラコはゆっくりとセダンに近づいてくると、リックには挨拶もせずに、セダンの周りをぐるりと歩いて見て回り、最後にボンネットの中を覗き込んだ。
それから小さくため息をつくと、セダンの運転席に乗ろうとしていたアガサの腕を掴んで、リックから引き離した。

「エンジンをかけてみろ」

 表情のない冷たい声で、ドラコがリックに言うと、リックの顔がまた一瞬、険しく歪んだ。
 だが、隙のないドラコにジッと睨みつけられ、リックは何も言わずにセダンの運転席に乗り込んだ。
 キーを回すと、エンジンはすぐにかかった。

「よ、よかった、……おかしいな、直ったみたいだ」
「早く行った方がいい」
 冷ややかな口調でドラコはそう言うと、「失せろ」、と言わんばかりにセダンの運転席のドアを乱暴に閉めた。
「いやはや、お騒がせして、どうも、……じゃあ、僕はこれで」

 リックのセダンは真っすぐにベガスの方に走り去っていった。
「お前、マジかよ……」
 セダンが完全に見えなくなると、ドラコが怖い顔でアガサを見下ろしてきた。
「私、何か悪いことした?」
「危機感がなさすぎる。無防備な親切も大概にしないと、早死にするぞ」

 アガサには、わけがわからなかった。

 だが、ザ・ビートルに戻ってから再び走り出すと、ドラコは説明してくれた。
 あのリックという男が、いかに怪しかったかということを。
 ナンバープレートのビスがズレていて、その下に別のプレートがあったから、おそらく上のプレートは偽装だということ。
 長距離を走って来た車が突然に故障したとして、ボンネットの中を調べた手があんなに黒くなることはない。熱くて触れるはずがないから。
 ドラコが見たとき、エンジンは冷え切っていて、金属が熱収縮する音はしていなかったから、車はかなり長い間、あそこに停まっていたと考えられる。
 運転席のドアを開けたときにルームランプがついていたから、バッテリー上がりではない。
 水温計も正常値だったから、オーバーヒートでもない。
 ガソリンは満タン近く入っていた。ロサンゼルス方面から来たなら直前の給油ポイントは、アガサたちが食事をしたミッドウェイのはずだが、だとすればあの型式の古いセダンなら、少なくともワンメーターはガソリンが減っていたはずだ。だからおそらくリックは、ロサンゼルス方面から来た旅行者を装った、ネバダ州の人間。
 極めつけに、運転席以外のドアが改造されていて、内側から開けられないようにドアハンドルが取り除かれていた。

「よくある手さ。ナンバープレートを偽装して、車が故障したように装い、しかもそれが中から出られないように改造された車だとしたら、その車の持ち主は何を考えていると思う?」
「まさかと思うけど、私を誘拐するつもりだったの?」
「ネバダ州では、失踪事件が多い。一人旅の女性客が重大犯罪に巻き込まれる確率も、統計的に男性の3倍以上だ。まさか、じゃなくて、必然だよ」
 にわかには現実を受け止められないアガサに反して、ドラコは、目前の脅威を平然と受け入れているようだった。
「助けてくれてありがとう。次からは、もっと用心します」
「それがいい」

 結局その後、学会会場になっているホテルに着いたのは17時近くだった。
 巨大な噴水を面前に、白亜の宮殿のようなベラージオホテルのフロントには、初日の講演を終えて、これから夜遊びに繰り出そうとする人々で賑わっていた。
 ホテル内にはカジノもあるらしい。
 アガサは、楽しそうな人々の波に乗り遅れた形となったが、無事にホテルに到着できたことをまずは感謝して、あとは明日の発表に備えて、一刻も早く休みたかった。
 だが、予約の名前を告げると、フロントスタッフがパソコンのモニターを見ながら良くない顔をした。
「あのう、大変申し訳ないのですが、ご到着が遅れているご様子でしたので、やむなくキャンセル扱いとさせていただいておりますようでして、」
 他の部屋でもいい、とアガサが伝えると、あいにく本日は満室で……という、歯切れの悪い答えが返って来た。

 すでにクタクタに疲れているのに、今から他のホテルを探す気力など沸くはずがない、と、アガサが途方に暮れていると、後ろに並んでいたドラコが割り込んできた。

「これだけのホテルが、予備の空室を一つも備えていないはずはないだろう。なんとか俺【たち】のために一室、調達してもらえると助かるんだけど」
 そうしてあの人好きのする笑みを浮かべると、すごく自然な仕草で、フロントデスクの上にブラックカードを置いた。

 フロントスタッフは鋭い眼力でドラコの装いと、それからブラックカードとに交互に目を向け、銀の盆の上にそのカードを載せると裏に入っていった。
 すぐに別の、もっと年上のフロントスタッフが自らカウンターの外まで出てきた。
 その初老のフロントスタッフは、恭しく一礼すると、支払いの手続きや受付の記入もなしに、いきなりエレベーターの方にドラコとアガサの二人を案内して導いた。
「ヤコブソン様、いつもご利用をいただき有難うございます。本日は、最上階のペントハウススイートをご案内させていただきます」
「ありがとう」
 ドラコはさも、それが当然というように初老のフロントスタッフの後に従った。
 アガサは、ホテル側のあまりの態度の豹変ぶりに、開いた口がふさがらない。
 最初のフロントスタッフがポーターに合図をして、アガサのスーツケースを運んでくれた。

 スイート専用のエレベーターで少しも待つことなく最上階まで上がると、馬鹿みたいに広いスイートに通された。
 
「あとは楽にやらせてもらうから、ここでいいよ」
 そう言うと、ドラコは初老のフロントスタッフに握手がてらにチップを渡した。その動作がとてもスマートだったので、あやうくアガサは見落とすところだった。
 スーツケースを運んでくれたポーターに、アガサも忘れずにチップを渡した。
「どうもありがとう」
「ごゆっくりお過ごしください、マダム」
 何も知らないまだ若いポーターが、気前のいい笑みを浮かべて帰っていった。

 壁一面の窓から、ラスベガスの街並みが一望できた。
 贅沢な家具は、スミレ色やブロンズ色を基調にまとめられて、大人たちの落ち着く空間を演出している。
 大理石の広い玄関ホール、広々とした化粧室、独立したリビングとダイニングエリア。バーカウンターもある。
 寝室が二部屋あったので、アガサはホッと胸をなでおろした。

「俺はこっちの寝室を使うから、アガサは奥を使うといい」
 そう言って、ドラコは玄関ホールに近い方の寝室に入って行って、早くもジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを緩め始めている。

「前にもこのホテルに来たことがあるの?」
「あったかもな。ベガスには何度か来てるけど、どこに泊まったかはあまり覚えていないんだ。誰と泊まったかはよく覚えてる」
「あ、そう」

 アガサは自分のスーツケースを持って奥の寝室に入った。だが、中に入るとまたすぐに戻ってきて、ドラコの寝室を覗いた。
「奥の方が主寝室になってて、あっちの方が広いみたいなんだけど」
「……、だから?」
「あなたがあっちの方がいいんじゃない?」
「主寝室で一緒に寝ようって、俺を誘ってるのか?」
 スリムタイを完全にほどいて、それをベッドの上に無造作に放ると、ベッドの端に座ったドラコが意味深にアガサを見つめてきた。
「違います。部屋をチェンジしないかって言ってるのよ」
「俺はこっちの方がいいんだ。危機意識の低い女を奥に寝かせて、俺は自分で玄関に近い方をガードしておいたほうが、よほど安心して眠れるからな」
「わかった」
 アガサはとって引き返そうとして、だが思い出したようにまたドラコを振り返って言った。
「今夜、あなたが安心して眠れるように祈っているわね」
「祈りで安心が買えれば楽なんだけどな。事実、今日は俺がいなかったら、今頃、アガサはここにはいなかっただろう」
「きっと神様が、私を助けるためにあなたを送ってくださったのね。ありがとう、ドラコ」
 そう言うと、アガサが瞳をうるませて天を仰ぎながら奥の寝室に入って行ったので、ドラコは唖然として言葉を失った。
――あの女の頭の中には本当に神のことしかないんだな。なんて狂気じみた女だ!

 それから、ドラコはズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、おもむろに短縮ナンバーを呼び出した。
 相手はすぐに応答した。
『頼みたい仕事がある。……ネバダで偽装ナンバーをつけているセダン、金髪の男、名前は――リック。ああ、できれば今夜のうちに、――殺すな。なに、この機会にベガス署に恩を売っておくのもいいだろう。ダメだ、――殺すな。ああ、それならいいよ、じゃあ、任せたぞ』

 ドラコは電話を切ると、一日がかりの車移動で体ががちがちに硬くなっていることに気づいて、すぐに熱いシャワーを浴びた。
 シャワーからあがると腹が減ったのでルームサービスを頼み、食事が届くとアガサの部屋をノックした。
 だが、応答がなかったので、疲れ切って眠っているに違いないと思い、放っておくことにした。





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