恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-4
アガサが城に帰ると、シャツの腕をまくり上げたドラコがキッチンから出てきた。
ガーリックの焦げるいい匂いに気づいて、アガサは意外な顔をする。
「遅かったな」
「料理をしたの?」
「タラとトマトのパスタを作った。よければ一緒にどう?」
「お腹ぺこぺこ」
背の高いキッチンテーブルの上に、まだ温かいパスタが盛り付けられた皿が二つ。その一つをアガサに押し出すと、
「冷蔵庫にあった飲みかけのシャンパン、勝手に飲ませてもらってるよ」、と、ドラコがアガサのグラスにもそれを注いでくれた。
アガサはスツールに腰かけると、キッチンを見回した。ドラコのネクタイとジャケットが、無造作に近くの椅子の背もたれにひっかけられている。
「今日は銃を持ってないのね」
「ちゃんと籠にしまったよ」
そう言って、ドラコはキャビネットの上の藤のバスケットを親指で差した。
「どういうつもり?」
「なにが?」
「食事を作ったり、銃をおとなしくしまったりして。私の機嫌をとろうとしているみたい」
「いいから早く食えよ。冷めるだろ」
「……いただきます」
アガサは短い祈りを捧げてから、フォークで巻き上げてパスタを一口食べた。
「うん、美味しい」
ドラコもアガサの向かいに座ると、そのまま二人はキッチンテーブルで食事を始めた。
「すっかり元気そうね。肩の調子はもういいの?」
「お陰様で。そっちはなんだか元気がなさそうだ」
「うん、学会の準備で、徹夜続きだったから。こっちに来て初めて研究の成果を発表する機会だから、完璧にやりたくて」
「一緒にいたピアスの男は?」
「彼は私の研究助手。ほら、前に言ったでしょ、私が地球温暖化と新しいリサイクル機構の研究をしてるって。頼りないように見えるけど、彼は研究室で唯一の私の味方で、とってもよくやってくれてる。――念のために言っておくけど、彼に何かしたら、あなたのことを神に訴えるから」
そう言ったアガサの声音にはやや棘があった。
「心配しなくても、俺たちは堅気には手を出さないよ。どうしてそんなことを思ったんだ?」
「グレッグはあなたのことを見て、すごく怖がっていたから」
「どうして」
「睨んだでしょう」
「心外だな、ちょっと目があっただけだろ」
「それに嵐の晩に、あなたの顔写真がテレビに出たのを見たんだって。彼、記憶力がいいのよ。もちろん、まだ死にたくないから口外はしないって言ってたわ」
「それはそれは、随分と物騒な話にされたもんだ」
ドラコは他人事のようにシャンパンを一口飲んだ。
「ところで、どうしてまたロスにやって来たの?」
「こっちを任されることになったんだ」
何でもないことのようにドラコが言ったので、アガサは一瞬、呆ける。
「……、へえ」
アガサは座り直してから、シャンパンをぐいと飲み干して続きを待ったが、ドラコの説明はそこで終わりのようだった。
「ニューヨークは?」
「部下に引き継いで来た」
「え、じゃあ本当に……。住むところはもう決めた?」
「ここに置いてくれると助かるんだけど」
「言うと思った! ダメに決まってるでしょう。ここには私が住んでるのよ」
「でも、広いし、部屋はいっぱいあるだろう」
造作もなくドラコが言うので、アガサは鼻を膨らませて抗議した。
「夫婦でもない男女が、山奥で二人きりで住むのは分別のある行ないではないって、思わないわけ?」
「ティーンエイジャーじゃあるまいし、俺たちはいい大人だろ。わざわざ、そんな生々しい言い方をするから、話が変な方向にいくんじゃないのか……。さっきの話のことなら、俺は君の【純潔】とやらを侵すつもりはないよ、アガサ」
「これはあなたの側だけの問題じゃないのよ。私があなたの純潔を侵す心配もある」
「……なんだって?」
アガサの言葉に、ドラコが唖然として聞き返した。
フォークを置いてナプキンで口を拭き、どこからアガサの間違いを訂正していいやら、しばし考えをまとめるのに時間を要する。
まず、そもそも、ドラコは純潔ではない。
もちろんここで言われる「純潔」が、文字通り、結婚前に異性と肉体関係を持たない、という意味ならばだが。
仮にそうでなかったとしても、ドラコは裏社会の人間だ。純潔をさらに拡大解釈したとしても、ドラコが純潔であるはずなどなかった。結論、この女に侵される心配などあるものか。
「俺のことは心配しなくていい。清廉潔白からは程遠い、汚れた男だ。純潔なんか、俺には最初からないんだから」
「ちょっと待ってよ、そういう意味じゃないのよ、ドラコ」
アガサは、とてもショックを受けたようにハッとして、テーブルの上でドラコの手を優しくつかんだ。
「人はみんな、罪びとよ。あなたが汚くて、私が綺麗だなんて、そんなこと思ってないから。私が言いたいのは、男女の規律の問題なの」
「勘弁してくれ……」
ドラコは手を引いて、アガサから離れるように体勢を後ろに傾けた。だがアガサは構わず先を続けた。
「神はいつも、男女が正しい関係にあることを願っているのよ。なぜなら、男と女は神の愛を具現化するために特別に創造されたから。だから、神が結び合わせたものは決して引き離されることがないのよ。この祝福を軽んじることがないように、男女は分別をもって接する必要がある。もしも一時の誘惑に流されて純潔を侵害すれば、あなたも私も、互いに罪に定められるのよ。どちらか一方が悪いということにはならないし、これまでどう生きてきたかは問題じゃない」
「じゃあ君は、俺たちの間にその、一時の誘惑が入り込む余地があると考えているんだな?」
「はい」
「勘弁してくれ……!」
大真面目でアガサが頷いたので、ついにドラコは吹き出した。
「私は本気で言っているんだけど」
「そんな間違いは起こらないよ」
ドラコは本気にしなかった。だが、アガサの言ったことを心にとめて、忘れないようにしよう、とは思った。
それから考えをめぐらせて、やがて代替案を思いつく。
「ここは神の家だ」
「その通り」
「こうしたらどうだろう、俺たちは互いに、善き隣人だ。一緒に住むというよりも、隣人としてここにある部屋の一つを、俺が借りる。キッチンとリビングとランドリールームは共用スペースとしてたまに貸してくれればいい。家賃を払うし、自分のことは自分でやるよ」
「でも……」
と、アガサが言いかけるのを遮って、さらにドラコは続けた。
「街には危険がいっぱいだし、俺には神の家が必要なんだ。それに、俺はここをとても気に入ってる。頼むよ、アガサ」
人好きのする笑みを浮かべて眩しそうにアガサを見つめるドラコに、アガサは内心、なんて狡猾な男なんだろうと思った。
嵐の晩に来た無感情で、無口で、不愛想な男の印象とはまるで異なっている。
「一泊100ドル、支払いは現金で」
やがて、アガサが敗北を宣言した。
「食事つき?」
「つきません」
「ちょっと高いな……」
100万ドル以上する高級車を乗り回し、全身をアルマーニのスーツに包んでいる男が何を言う。ニューヨークのホテルの相場はもっと高いはずだった。
「冷蔵庫のものは好きに使っていいけど、食事はセルフよ。その代わり、車庫をつける」
「わかった、契約成立だ」
「まだよ、ここに住むからには、大切な約束を守ってもらう」
「銃をピクニックバスケットに隠す以外に、まだルールが?」
「こっちの方がもっとずっと大事よ。守れないなら、出て行ってもらう」
「……わかった、それで、何を約束すればいいのかな」
ドラコは食事を中断し、腕組をしてアガサが何を言い出すのかと、身構えた。
「出エジプトを読んだなら、モーセが神から授かった十戒を読んだでしょうね。覚えてる?」
「確か一つ目は、『唯一の神』だったか」
「そう、唯一の神のほかに、他の神々があってはならない。ここにいる間は、神の存在を認めること」
「わかった。二つ目と三つ目は、偶像をつくってはならない、それらを拝んではならない、だな。わけもない」
「それから四つ目、安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。日曜日は私と一緒に教会に行くのよ、ドラコ」
「それはちょっと、」
「絶対に連れて行くから」
と、アガサがドラコを睨みつけた。
「この国には信仰の自由があるはずなんだが」
「私にはここからあなたを追い出す自由があるのよ。それに、教会に行ったからって無理に神を信じなくてもいい。ただ、私と一緒に行って、黙って説教を聞いていればいいのよ」
「五つ目はどうなる? あなたの父と母を敬え。親はいないぞ」
「あなたを育み、あなたに教え、あなたに与えた人を敬えばいいわ」
「わかった」
ドラコはイタリアにいるアルテミッズ・ファミリーの大ボス、フェデリコをその条件に当てはめることにした。
「六つ目、殺してはならない」
「了解、多分そんなことにはならないと思うが、この城で流血沙汰にならないよう最善を尽くすよ」
「七つ目、姦淫してはならない。彼女を連れ込むのも禁止よ。念のため言っておくけど、そういうことを商売にしている、その女性も」
ドラコは苦虫をかみ殺した。
「ここには連れ込まない。大丈夫だ、必要になったら外で済ませてくるから」
アガサは呆れたようにかぶりをふると、さらに先を続けた。
「八つ目、盗んではならない」
「あ、そういえば君の聖書を借りてるよ。読み終わったら返すんだから、盗んだとは違うよな」
「あれはあなたに上げたんだから、返さなくていいわよ」
「そうか」
「九つ目、あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。私たちの間に、嘘はなしよ」
「それは大いに賛同する」
「最後は、あなたの隣人の家を欲しがってはならない」
「できれば俺が買いとりたかったんだが……、ああ、それもわかったよ。ここは、アガサの神の家だ」
アガサが手を出すと、ドラコがそれに応え、二人はキッチンテーブルの上で短い握手をした。善き隣人契約の成立である。
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