恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-3
カリフォルニア工科大学には二つの生物学棟がある。
一つはガラス張りの近代的な建物で、そこには生物学分野の中でも大学が特に力を入れて研究を推し進めている神経科学ラボが入っている。ルラ・ストリートと呼ばれる遊歩道を挟んでその向かいに建つ白い建物が、アガサの勤めるバイオテクノロジーラボだ。
神経科学ラボのガラスの開放的な建物とは違って、やや古いこちらの棟は外からの視線を遮るように窓が少なく、閉鎖的な雰囲気をたたえている。
水曜日の夕刻。
ルラ・ストリートに面するゲスト用の屋外駐車場に、一台の真っ赤なフェラーリが重厚なエンジン音を轟かせて滑るように入ってきた。
リアウィングつきのSF90XXストラダーレは、公道を走れるようにわざわざレース用のスピードカーを改良したモデルで、軽く100万ドル以上する高級車だ。
大学の駐車場にそんな派手な車が停まることはないから、ドラコのフェラーリはいとも容易く往来の大学関係者の関心を集めた。
時刻はちょうど、17時になったところだ。
ドラコは運転席に座ったまま、白い石張りの歩道の先にある、小さな四角い建物に視線を向けた。
彼女が平日の9時から17時までの間、目の前の白い建物の中で仕事をしていることをドラコはラットからの報告で知っていた。ただ、最近は帰りが遅くなることが多く、17時に出てくることはめったにない。
気長に待つつもりで、ドラコは助手席から聖書を取り上げて読み始めた。毎日少しずつ読み進めて、今は新約のマタイの福音書に入ったところだ。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図――
アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが……、
だがドラコは、いまいち内容に集中できなかった。
ラットからの報告では、アガサは最近、城に帰らないことが三回あった。
二度までは偶然かもしれないが、三度あることは必然だ。
月曜から金曜まで、決まって朝8時に城を出て、夕方の17時には大学の仕事を終えていたのに、最近はひどく疲れて、何かに追われている様子だという。
毎日規則正しく生活をして、仕事の他に出かけるといえば週に一度の食料品の買出しや、日曜日の朝に教会に行き、たまにロサンゼルスにある図書館をいくつか廻ったり、不動産会社に一度足を運んだくらいだったのに、最近のアガサはそれらのパターンから外れて、朝帰りをしている。一体どうしたというのだろうか。
ラットが、キャンバスのアガサの様子を撮影して何度か送ってきたが、どの写真にもパンク風のチャラそうな男が一緒に写っていた。名前はグレッグ。バイオテクノロジー学科の博士課程の大学院生らしいが、この学生が何か関係しているのだろうか。
ラットは観察と情報収集のプロだ。
膝の上で聖書を開いたまま、ドラコはうつろに、これまでにラットからもたらされたアガサの情報を頭の中で反芻した。
彼女は、アメリカ国籍を持つ日本人で、生まれはニューメキシコ州のサンタフェだ。高校と大学は日本で卒業しているらしい。
中流階級の家庭で育ち、両親は今は日本にいる。
資産状況を調査するに、借金はなく、ごくごく堅実な財産状況がうかがえる。現在の大学の仕事からアガサが得ている報酬もそう多くはないはずだが、とすれば、マウント・グロリアの古城を買った資金はどこから出たのか、それだけは未だに不明だった。もっとも、破格の値段で売り買いされたようだったし、アガサ自身があの城を『神の家』と呼んでいたから、もしかすると教会や信者の後ろ盾や寄付があったのかもしれない。
それよりも、ドラコが特に驚いたのは、アガサがドラコより二つも年上であるという事実だった。
人が見た眼によらないということは心得ていたつもりだが、まさかアラサーとは思いもしなかったので、ドラコは改めて東洋人の外見の幼さに心底恐れ入った。
ラットによれば、今週の日曜日に、アガサは28歳の誕生日を迎えるはずだ。
その時、行き交う人の流れの中に黒髪の日系人の姿をとらえて、ドラコの思考は停止した。パンク風に髪を逆立たせ、耳にピアスをした男子学生も一緒に歩いてくる。
ドラコは聖書を閉じて、車から外に出た。
◇
駐車場に停まるその車は、夕日を受けてひと際通行人の目を惹いた。
学会発表に向けた最後の打合せを終えて、アガサはグレッグとともに帰途につこうとしていた。ここ何日かは研究の大詰めで徹夜になることもあり、神経がぴりぴりしていた。早く家に帰って休みたい、と思ったら、真っ赤なフェラーリから見たことのある男が出てきた。
「ひどい顔だな。ちゃんと食べてるのか?」
男の第一声を、アガサは努めて好意的に「挨拶」だと受け止めた。
だが、彼が再びアガサの前に姿を現すとは想定外のことだったし、疲れてもいたので、口をついて出たのは不愛想なものだ。
「どうしてあなたがここにいるの?」
「随分な挨拶じゃないか。以前の借りがあるから、夕飯でも奢ろうと思って来たんだけど」
定時過ぎのラナ・ストリートは、仕事を終えて帰宅する人の流れで賑わっているが、普段見慣れない高級車と、その横に立つ背の高いダークスーツの男は、たちどころに周囲の注目の的になり、通行人たちが足をとめて様子をうかがい始めた。
「それは有難いけど、今日は都合が悪いのよね。実は、明日からベガスで開かれる学会に参加することになってて、明日は朝早くから270マイルも運転して行かなきゃならない。……だから、今夜はもう帰って休まないと」
アガサの説明に、ドラコは小さく肩をすくめ、「わかった」と一言返事をした。
気分を害するわけでもなくこちらの事情を呑み込んでくれたことにアガサはホッとしたが、直後にドラコが、
「今夜泊めてくれる?」
と、周囲の野次馬たちが聞き耳をたてているのもお構いなしに、大きな声で聞いてきたので、アガサは慌てて駆け寄って、ドラコに耳打ちした。
「人目があるのよ。私が男性を簡単に家に泊める不埒ものと誤解されるでしょう」
「違うのか?」
「違います。この前は、天使があなたを助けるように言ったから、泊めたんです」
「ああ、確かそんなことを言ってたっけ。――で、今夜は泊めてくれるのか?」
「だから……、」
アガサはドラコの無頓着ぶりに戸惑いながら、周囲の視線がますます二人に集まってきていることに気づいてさらに声を顰めた。
「もしかしてまた、警察に追われてるの?」
「いや」
「どこか怪我をしているとか?」
「確かめてみるか」
と、今度はドラコが小さく両手を上げて、アガサにボディチェックをするように促した。
アガサはそれには取り合わずに、首を横に振った。
「だったらホテルに泊まればいいでしょう。男女は結婚するまで互いに純潔であるべきで、万が一にも誘惑にあいかねない状況に身を置くべきではないのよ」
ドラコが首を傾げたので、アガサは聞き返した。
「私の言っている意味、わかる?」
「いや、わからない」
「今度ゆっくり説明してあげる。とにかく、今日は泊められませんから」
「頼むよアガサ、困ってるんだ。ホテルじゃゆっくり休めない。俺はギャングたちの反感を買っているから、どこで命を狙われるか知れない。――そんな俺を危険な街に放り出すのって、神の御心なのかな」
相手が断ることのできない切り札を切って、ドラコは天使のように微笑んだ。
案の定、アガサは返す言葉を失って、やがて、仕方なくバッグから鍵を取り出した。
「先に帰っていて。でも、あなたをうちに泊めるにはいくつか条件がある。あとでゆっくり話し合いましょう」
「ありがとう」
ドラコは鍵を受け取ると満足してフェラーリに乗り込み、エンジンをふかして、滑るように駐車場を出て行った。
そのエンジン音が物凄く煩く感じて、徹夜続きで疲弊していたアガサは早くも頭痛がした。
少し離れた所から一部始終を見守っていたグレッグがアガサの肩を遠慮がちにつついてきた。
「ねえアガサ、あの人とどういう関係なんです?」
グレッグの問いかけにどう応えるべきか、アガサは束の間、思案した。
「彼は、教会の奉仕活動の一環で知り合った人なの。どうやら今日も神の助けが必要になったみたいね」
「教会の奉仕活動って……、あれは数カ月前にギャングと撃ち合いになったっていう、ニューヨークのマフィアですよね。僕、一度見た人の顔は忘れないんです。見間違うはずない。脅されているんですか?」
「まさか! 大丈夫よ、危険はないわ」
「でもどう見ても、僕らの住む世界とは違う世界の人ですよね。あの人が一瞬だけ、僕の方を見たから目があったんですけど、怖かったなあ。僕が何をしたっていうんですか? ちゃんと言っておいてくださいよ、僕は善良なる学生で、アガサ、あなたとは何の関係もないって」
「グレッグったら。彼の外見をとやかく言う前に、まずは自分の外見を改めた方がいいわよ。この、ハリネズミみたいな髪といったら……」
アガサは、言いながらグレッグのモヒカン風に立たせた髪をくしゃくしゃっと手で壊した。
「ああ、もう! やめてくださいよ。これは僕のスタイルで、お洒落なんですって。それに僕が言ったのは外見のことなんかじゃありませんよ。あの人のもつオーラがもう、普通じゃないってことです。怖いっていうか、危険っていうか」
「警察はもう彼のことを追っていないし、神の家は、求める人には誰にも開かれているの。だから、彼の正体は他言無用でお願いね、グレッグ」
「お口にチャック、死んでも言いませんよ。僕はまだ、死にたくありませんからね」
グレッグはそれから帰るまでの間、ずっとビクビクしていた。
だが、グレッグのようにドラコの正体に気づいたのはほんの少数だった。アガサがその場を立ち去ろうとすると、野次馬の中から、普段ならアガサには見向きもしないような綺麗な女性たちが近寄ってきて、「彼ってセクシーね」、とか、「今度、あなたと話していた素敵な彼を紹介してくれない?」、と、声をかけてきた。アガサは、「教会の奉仕活動の一環で知り合った人だから、みんな教会に来るといい」、と言って、神の教会のことを宣伝した。
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