恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-14
「着いたぞ」
どれくらい山道を走ったのだろうか。祈ることに夢中になっていたアガサは、ドラコの声で目を開けた。
ガーデンに囲まれた白い建物が、キャンドルと、オレンジ色の柔らかいイルミネーションで輝いている。
ドラコが先に車から降りて、助手席のアガサを引っ張り出してくれた。
少し離れた所に広い駐車場があるのが見えたが、バレーサービスのスタッフも見当たらないのに、ドラコはエントランスにストラダーレを停めたまま、中に入って行こうとした。
「ドラコ、車はここでいいの?」
「いいんだ、今夜は貸し切りにしてもらってるから」
「……そう」
数段の階段を上がって、大きな木の両扉をあけて中に入ると、タキシード姿の受付係が、二人を笑顔で迎え入れた。
どうやらすでに、ドラコとアガサの名前を知っているらしい。
二人とも身軽だったので、クロークに預ける物もなく、そのまま席に通された。
そこは、ガーデンの中にある鳥かごのようなレストランだった。床は白い大理石、壁は漆喰塗りの白い石積み、その中にマホガニーの梁がアーチ状に張り巡らされていて、円い天上には、三つのシャンデリアが白く輝いて。広間の半分が天上までガラス張りになっていて、ライトアップされた夜のガーデンを見渡すことができた。
真っ白なテーブルクロスがかけられた円いテーブルがいくつか置かれているが、ドラコが貸し切りだといった通り他に客はなく、カトラリーがセットされているのは中央のテーブルただ一つだった。
ギャルソンが椅子を引いて、アガサを座らせるときに、「本日はお誕生日おめでとうございます、アガサ様」、と挨拶をしてくれた。礼を伝えて席に着き、ドラコがペアリングのワインを選び終えるのを待ってから、アガサは改めて、ドラコにも礼を伝えた。
「ところであなたは、女性の誕生日をいつもこんな風に特別にお祝いしてあげるの?」
「いや、気に入った女性にしか、こういうことはしないよ」
「あなたの友人になれて本当に良かったけど、なんだか素敵すぎて、後が怖い気がする」
「なんだよそれ」
ドラコが思い切り顔をしかめた。
料理が運ばれてきたので、二人は会話を中断してギャルソンの説明に耳を傾けた。
はじめにアミューズ・ブーシェとして、サザエのベニエと、ブルーチーズのシュークリームが振舞われると、あとに本日のスープとしてトリュフ風味のコンソメスープがテーブルに置かれた。
ゆっくりと食事に手をつけながら、二人はまた会話を再開する。
「そういえば、誕生日を祝ってくれるのに私の年齢を聞かないのね」
テーブルの上でワインを回しながら、ドラコが笑みを浮かべる。
「そう、もう知ってるのね。ドラコは何歳なの?」
「年齢の話をするのはやめないか」
「でも、あなただけ私のことを知っているのは、フェアじゃないと思う。言ってよ、何歳なの? 意外に、若かったりしてね」
「25歳だ。今年の11月に26歳になる」
「だいたい想像通り」
「そんなわけあるものか、俺の方がずっと大人びて見える。どう見ても、アガサは28歳には見えないよ」
「欧米にみられるゲルマン系の人々は、確かにアジア系と比べると大人びて見えるわね。だから私は、彼らの年齢を見積もる必要があるときは5歳は差し引くようにしてる。これでだいたい、予想が当たるのよ」
冷前菜として、キャビアを添えたホタテとフルーツトマトのマリネが運ばれてきた。
その皿が空になる頃に、温前菜として黒アワビのシャンパン蒸が。料理は早すぎることも、遅すぎることもなく、二人の会話の息継ぎに運ばれてきた。
「フランス語を話せるのはどうして?」
「大学で少し習って、あとはプライベートで旅行に行ったりして、独学でね」
「それにしては、この前はすごくよく喋れてたな」
「いいえ、細かい文法は間違っていたんじゃないかと思うの。男性動詞と女性動詞が、いまだに使い分けらないの。あのとき質問してきてたガブリエルさんにも、君のフランス語は基本に忠実だ、って皮肉を言われたしね」
「気にすることないさ。けど、あの男は確かに嫌な奴だったな」
そこでアガサが、何かを思い出したように笑みを浮かべた。
「信じられないことに、あの後、ディナーパーティーに誘われたのよ」
「はあ? なんで」
「わからないけど、悪意が透けて見えたから断ったわ」
「夫がいるということにして?」
「……そう。でも、彼には嘘を訂正するつもりはない」
「それがいい」
二人は笑って、ワイングラスを掲げた。
鮮魚の料理に、生うにを添えた黄アラのポワレがテーブルに運ばれてきた。
日本料理に馴染みのあるアガサは、魚や貝類や、ウニを食べることに抵抗がないが、意外にもドラコも、出されたメニューを楽しんでいるようだった。
「はじめの印象では、あなたは好き嫌いの激しい人なのかと思ってたわ」
「うんとガキだった頃に、ひもじくて路地裏のゴミ箱を漁ってたこともあるんだ。それを思えば、だいたい何でも食べれる」
「まあ、ドラコ……」
アガサは酷くショックを受けて、ドラコに同情を示した。
こういうときドラコは、ただ可哀相に思って同情を示すだけの者を多く見てきたし、また、そんなスラムから出てきたドラコのことを蔑む人間も見てきた。
アガサは食事の手を止めて、ドラコの目を真っすぐに覗き込んで言った。
「もし、あなたがまたそんなふうにお腹をすかせることがあったら、私があなたを助けるから。あなたは生きているだけで、高価で尊い存在なのよ。今、ようやく確信したんだけど、天の父なる神様は、やっぱり特別な理由があって、あなたを私に会わせてくれのだと思う。あなたは、神様から愛されているのよ、ドラコ」
アガサはドラコがこれまで見てきた、どちらのタイプの人間でもなかった。
あまりにも綺麗すぎる彼女の言葉を、ドラコは当然ながら素直に呑み込むことはできない。だが理性に反して、『あなたは生きているだけで高価で尊い』というアガサの言葉には、胸を締め付けられた。
――わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
だから父なる神は、神の御子イエス・キリストを引き換えにして、あなたを贖ったのだと。それは、聖書の中で何度も語られるメッセージだった。
文字として読んだときには全然ピンとこなかった、愛という、ドラコにとってはとてつもなく未知なるものが、今、目の前のアガサの中にあって、愛は、求めて手を伸ばしさえすれば触れるほどに、実はすぐ近くにあるのかもしれない。そんな錯覚にとらわれて、ドラコの胸は騒いだ。
それからメインの牛ランプ肉のポワレが運ばれてくる頃には、ドラコはすっかり混乱してしまっていた。
今晩目覚めたアガサへの感情が、友情なのか、色欲なのか、だとすればそれは一晩限りのものなのか、あるいは、もう少し長く続く火遊びなのか。あるいはもっと純粋で清いもの、それは愛なのか。そもそも、愛とは何なのか。
彼女に対する湧き上がる衝動の正体を、ドラコは確かめてみたくなった。
「アガサは、愛をどうとらえている?」
普段ならそんな話を誰かにするのは、とても気まずいことのように思われたが、アガサになら自然に問いかけることができた。
「愛の本質は、相手を大切に思うことだと、私は考えてる」
「それは難しくないな。というか、なんだかありきたりで、期待外れだ」
「愛はいたるところにあって、別に高尚なものじゃないわよ。全ての人が、機会さえあればいつでも愛を発動できるんだから」
「もっと、深くて、強いものなんじゃないのか、本当の愛は」
「大きくても、小さくても、愛は、愛よ。でも愛の用い方にはいろいろあって、私たちはそれを使い分けるべきだと思う」
「例えば?」
「例えば、友情、家族、男女。どのケースでも、相手を大切に思うことは本質的に同じだけど、愛の表現の仕方は変わると思う。わかりやすく例を上げるなら、男女は肉体的に親密になることで愛を表現する。友人は一緒に食事をしたり、悩みを打ち明け合ったりして愛を表現する」
「キリスト教でいうところの、4つの愛のことかな」
「そう、エロスは男女の純粋な愛、フィリアは友情、ストロゲーは家族愛。そしてアガペーは、神の愛」
「神の愛は人とは違うのか?」
「私が思うに、神の愛は、人知を超えて最も嫉妬深くて、深くて、強い。そして完全に一方的に人類に注がれ続けている。永遠に――」
「そんなふうに愛されたいのか、アガサは」
「すでにそんなふうに愛されているのよ、ドラコ。私も、あなたも」
「信じられない」
「きっとわかる日がくるわ」
デザートに、ブルーベリーとハニークリームチーズのパイ仕立てが運ばれてきた後も、このテーマは続いた。
「フィリアはエロスを内包すると思うか?」
「男女の友情が恋愛に発展するかという意味なら、それはないと思う。でも、エロスはフィリアとストロゲーを内包しうるんじゃないかしら」
「それは理解できるが、男女の友情が恋愛に発展することだって、実際あるだろ」
「その男女は最初からエロスの愛で愛し合っていたのに、はじめはそれを友情だと勘違いしたのよ」
「……勘違いだったとして、もし、友情なのか、男女の愛なのかを見極めたいとしたら、アガサはどうする」
アガサはデザートに本日一番の感動を込めて舌鼓を打つと、聖書の一節を引用して答えた。
「――揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。雅歌の一節にあるように、知るべき時まで、気づく必要のないこともあるのよ。私なら、そっとしておく」
本当にそうだろうか、と、ドラコは思う。
少なくともドラコは、愛の正体をすぐに確かめたかった。
――あの方が私に、口づけしてくださったらよいのに。
聖書に書かれている、ソロモンの雅歌の冒頭がふと、ドラコの脳裏に浮かんだ。
突拍子もないことだが、ドラコはその夜、アガサにキスをしようと心に決めた。
きっとそれで、このもやもやした感情の正体を突き止めることができるだろう。
それが後に、彼女のとんでもない怒りを買うことになるとも知らずに……。
◇
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