恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-15
食後には、ドラコはコーヒーを、アガサはハーブティーを飲んだ。
かなり長い時間をゆっくり過ごしたのに、帰りの時間になると、あっという間に時間がすぎたように思われた。
ドラコは、アガサが椅子から立ち上がるのを、手を差し伸べて手伝った。
だから、並んで歩くときに腕を組むのではなく、二人が手を繋いだことにも、アガサはほとんど気づかなかった。
支払いは事前にすませていたのか、ドラコはチェックをすることも、チップを置くこともなく、ただ親しみを込めて料理が美味しかったことと、快い給仕への礼を述べて店を出た。
タキシード姿のスタッフたちは温かく二人を送り出してくれた。
帰りの車に収まりながら、今夜の素晴らしい料理と、この店を貸し切りにするのに、ドラコは一体いくら支払ったのだろう、と、アガサは思った。
お金の話をするのは野暮だが、ドラコの【職業】を思うと、良くないお金が使われたのではないかと、今更ながら不安になって、恥ずかしくなる。
今夜だけではない、ラスベガスのホテルの件もそうだ。
「ドラコ、今夜はありがとう。料理は最高に美味しかったし、あなたと過ごした時間はとても楽しかった」
「どういたしまして」
レストランのエントランスを名残惜しく後にして、サンガブリエル山脈をドラコのストラダーレが滑るように下る間、アガサは我慢できなくなって口を開いた。
「あなたはリッチで、高級な車にも乗ってる」
脈略のない言葉に、ドラコが一瞬、横目でアガサを見やる。
「それが、どうかしたのか」
「あなたはマフィアだから、今までのことを、もし良くないことをして手に入れたお金で私にしてくれたのだとしたら、って考えてたの」
「だとしたら、なんなんだ」
「とても気が咎めるし、今までそのことに思い至らなかった自分を、恥ずかしく思う」
「俺たちが盗みや、殺しで金を稼いでいると思ってるんだな」
車内は暗くてドラコの表情はよく見えなかったが、ドラコの声が沈み、棘をもったことにアガサは気づいた。
「あなたの仕事のことを裁いているんじゃないの。でも、あなたはマフィアだから、そうなのかなって思ったんだけど」
「俺たちは、奪うことはあっても、盗むことはない。殺すことはあっても、道理を曲げることはない」
抑揚のない声が返ってきた。
「どう違うの。どちらにしろ、目的のために手段を選ばないのは悪いことだと思う」
「綺麗ごとを言うなよ。俺たちには俺たちのルールがあって、社会の仕組みの中でまっとうなビジネスをしている。時には、その障害になるものを【排除】したり、礼儀知らずな相手に【容赦】しないことが、そんなに悪いことなのか」
「あなたたちのルールや生き方を咎めるつもりはない。ただ、私はそれを受け取らないってだけ」
「でも、もう受け取っただろ」
「だから思ったんだけど、あなたに全て返すべきかもしれない」
「どうやって」
明らかに気分を害した様子のドラコに、アガサは愚直に答えた。
「小切手で」
「……。」
ドラコがアクセルを踏み込み、シフトレバーを一気に二段階も上げた。
途端に強いGがかかり、アガサの体はシートの背もたれに押し付けられて潰れそうになる。
暗い山道にストラダーレの高周波のエンジン音が木霊する。
「スピードを落として!」
だが、ドラコはさらにアクセルを踏み込んで、ギアを上げた。
「金はいらないから、別のもので返せよ」
「はあ? スピードを落として! あぶない!!」
前方に急カーブが迫ってくるのを見て、アガサは悲鳴を上げた。
ドラコは少しも速度をゆるめず、カーブの直前でクラッチを切って素早くハンドルを回した。
カウンターショックが起きて、浮遊感にも似た横向きの力に押されて、ストラダーレのボディはカーブの外側に流れた。
後輪がアスファルトの上を滑って甲高い軋み音を上げる。
それでもストラダーレは地面に吸い付きながらカーブを滑りながら回っていく。
フロントがカーブの出口を向いた瞬間、ドラコはギアを下げると、勢いよくクラッチを繋げてまたアクセルを踏み込んだ。
エンジンが爆発にも似た破裂音を上げて、また重低音で唸り始める。
後輪がアスファルトを擦って煙を上げたが、ストラダーレは軽やかに前進方向への安定性を取り戻してまた走り出した。
ドラコの手荒い運転をものともせず、いいぞ、もっとやれ、と、ストラダーレは笑っているようだった。
直後、ドラコはいきなりブレーキを踏んで車を路肩に停車させた。
エンジンを切って、素早くハーネスベルトを外して上半身を起こす。
そして身を乗り出して、助手席のシートに埋もれて完全に固まっている、無抵抗なアガサの上に覆いかぶさった。
すべてが一瞬のことだった。
奪うように重ねた唇から、彼女の柔らかさが伝わってくる。もはやドラコに、躊躇や戸惑いはない。
乾いた彼女の唇を舐めてやり、その唇の間からそっと彼女の中に舌を入れる……。
息の詰まる高揚を覚えながら、彼女の口を完全に塞いでいると、やはりこの感情はフィリアではなく、エロスだと、ドラコは確信する。
抑えがたく突き上げてくる衝動に、すぐにキスだけでは満足できないと悟る。――もっと、今すぐに、この場所で。
だが、ドラコがそう思った次の瞬間、アガサの拳が飛んできた。
一度目は空振りだったが、押し返されて顔が離れたとき、二度目の拳がドラコの顔面にクリティカルヒットした。
驚いたドラコが運転席側に身を引くと、アガサは自分でハーネスベルトを外して、尚も追撃を仕掛けてきた。しかも、その手には助手席に置いたままになっていた聖書が握られている。
その怒り狂った女は聖書を武器に、ドラコを何度も叩いた。
「わっ、やめろ、タンマ! ごめん! 痛いだろ、角が、角があたる!」
「この軽薄男……、一体、何を考えてるのよ! 馬鹿! 馬鹿!」
アガサは何度も、何度もドラコを殴った。
「いい機会だからここでまっさらに生まれ変わることね! 今、殺ってあげるから」
「痛いって! 殺る、って、あのなあ、目的のために手段を選ばないのは、悪いことだって、さっき自分で言ってただろうが!」
ドラコはアガサの手から、命からがら聖書を取り上げた。
「この場合は許される」
アガサの顔には完全に青筋が浮いていた。
「はあ? なんだよそれ……」
「わかってる? 私たちの友情は終わってしまった。あなたのせいで全てが台無しになったわ!」
「俺たちは最初から、フィリア向きじゃなかったのさ」
「いいえ、それは私の考えとは違う!」
「じゃあアガサは、俺とキスしても何も感じなかったっていうのか」
「はあ!? こっちはあなたの馬鹿な運転のせいで死ぬ目にあったの。何かを感じられる状態じゃなかった。そもそも、あなたのエロスが本物なら、私のことを大切にするはずでしょう。少なくとも、あんな危険な運転はしないはずだわ。あなたは素敵な夜のロマンスに流された、ただの馬鹿な軽薄男よ!」
アガサに言われて、ドラコは返す言葉もなかった。
彼女が怖がると知っていてわざと危険な運転をしたのは事実だった。楽しんでいたのだ。
相手のことを本当に大切に思っていたら、……。
確かに、その通りかもしれなかった。
「ごめん。けど、頭に来たから」
ドラコは運転席に座り直して、前方を見据えてハンドルに手をかけた。
それを見たアガサは、まだ怒りが収まらないが、少しだけ我に返った。
「あなたたちの仕事のことに口を出したのは、確かに不適切だった。私も、……謝る」
「そうじゃないよ、それはまだ許せる。確かに俺たちのやり方には、【少し】荒っぽいところがある。そうじゃなくて、頭に来たのは、金を返すって言われたことだ。そんなことを言うのはすごく失礼だし、ひどく拒絶された気がして、……とても傷ついたよ」
そう言ったドラコは、フロントガラスの向こうの暗闇を見つめているだけで、アガサの方を見ようとはしなかった。
アガサには、彼がとても努力して気持ちを打ち明けてくれたことがわかった。
彼を傷つけないような、もっといい言い方があったのではないか、と、アガサは後悔した。
「あなたを拒絶したんじゃないのよ」
アガサは真っすぐにドラコを見つめた。
「あなたの親切は喜んで受け取っているわ。今夜、誕生日を祝ってくれたのはとても嬉しかった。ロスに来て初めて私の誕生日を祝ってくれた人が現れたんだもの。それに、ベガスの夜に一緒にいてくれたことも嬉しかったし、あなたの作ってくれたパスタは最高に美味しかった。全部本当に嬉しい。だけど、私のために、高価なレストランを予約したり、他にも、お金のかかることは、もうして欲しくない。それはあなたのもので、私のものではないから、……わかってくれる?」
ドラコはアガサの言葉を真剣に聞いて、それからしばらく黙り込んでいた。
やがて静かに息を吐いた。
「だけど、金を返すっていうのは流石に野暮すぎる。もしどうしても返すっていうなら、俺は【軽薄な男】らしいから、金よりもさっきみたいなキスで……」
ドラコの軽口に、アガサはまた鬼の形相をして聖書を掴んだ。
「もう二度とさっきみたいなことはしないで!」
「……わかったって」
その夜は、二人はそれから一言も口をきかなかった。
ドラコは再びストラダーレを発進させ、古城に着くまでの間、一度もスピード違反をしなかった。
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第2話END (第3話につづく)