恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-13
とびきりのお洒落を、と、ドラコは言ったが。
友人に敬意を払って、何かフォーマルで、綺麗な装いを、と、クローゼットの中を探してみたものの、アガサは思い悩んだ。
そもそも、ドレスはそう多くは持っていない。
ラスベガスのベラージオホテルで軽くブラックカードを切ったドラコが【いい店】だと言うからには、今夜連れていかれるのは、きっと高級なお店なのだろう。
そんな高級フレンチの、しかもランチではなく【ディナー】に着て行くのに相応しいと思える、一着のドレスを手に取る。
それは大学時代に、アガサが秘かに片思いしていた先輩と一緒に卒業パーティーに参加することを夢見て初めてオーダーメイドしたドレスだった。
生憎、当時の恋は実らなかったのでアガサはそのドレスを一度も着ることなく、これまで仕舞い込んできたのだった。
そんな、苦い思い出が蘇るドレスではあるが、やはりこれしかないか。
あれからもう5年も経っているので、当時の体型に合わせて作ったドレスが、果たして今でも着られるかどうか……。アガサは人知れず溜息をついた。
◇
エルメネジルド・ゼニアは世界で最も美しい織物との呼び声が高い、イタリアを代表する高級ファッションブランドだ。
ドラコは、そのグリーンがかったグレーのスーツを身に纏い、一階のキッチンでアガサが下りてくるのを待っていた。
今晩の彼は、エスコートをする女性が何色のドレスを着ていても引き立つように、スーツもシャツもネクタイもワントーンで揃えている。
一見すると地味に見えるかもしれないが、程よい光沢があるそのスーツは、襟が上向きに尖ったピークドラペルで、着る者にシャープでエレガントな印象を与えてくれる。
それは知的で、個性的で、色気もあり、まさにお洒落を楽しむためのスーツだった。
心から楽しみたいフォーマルな夜には、ドラコは時計も電話も持たない。
ロサンゼルスの新しい部下たちにも、今夜は邪魔しないように伝えてあった。
思えばニューヨークをジョーイに引き継いで、ロサンゼルスに移って来た最初の数カ月は大変だった。
アホな組員たちの性根を叩き直し、ギャングとの馴れ合いを断ち切らせ、時には容赦なく粛清した。
そうやって、なんとかアガサの誕生日に間に合わせることができたのだ。
ラットからの情報で彼女の誕生日を初めて知ったときから、ドラコはロサンゼルスのファミリーの内政を落ち着かせたら彼女を誕生日のディナーに誘うことを計画していた。
嵐の夜に手を差し伸べてくれた恩返しをしたいと思ったからだ。
だが、今はさらに進んで、善き友人としても、彼女とディナーに行きたいと思っている。
そう、友人という言葉はこの場合、相応しいとドラコは思った。
彼女はバーで口説きたくなるような女とは違う。およそドラコが今までに接したことがない、もっと異質な存在だ。
キッチンでエスプレッソを飲み終わる頃、広間からアガサの呼ぶ声がした。時間通りに下りてきたようだ。
「ドラコ、どこにいるの?」
「キッチンだ、今そっちに行く」
カップをシンクに片付けて、ドラコは広間に出て行った。そして、思わず息を呑む。
エメラルド色の広間の真ん中に、沈みかけている太陽の光を受けてアガサが立っていた。
まるで夕日に染まったかのような、深紅のロングドレスを纏って。
「見違えたな……」
かろうじて出た声が掠れた。
それは彼女のために作られたような、美しいサテンのドレスだった。
細い腰元から足首まで、マーメイドラインが上品に流れている。
「お洒落なディナーに出かける機会なんてめったにないから、学生のときに作ったドレスしかなかったの。やっぱり当時よりも少し太ったみたいで、背中のファスナーを上げるのに本当に苦労して、もうダメかと思ったけど、この通り。なんとか着れて良かったわよ」
「ファスナーくらい俺が上げてやったのに」
ドラコの軽口を、アガサは鼻で一蹴する。
「良く見せて」
そう言ってドラコが指をまわしたので、アガサは少しはにかみながら、その場でゆっくりと一回転してドラコに見せた。
肩の部分にギャザーが寄せられてふっくらと膨らんだ小さなフレンチスリーブが、アガサの華奢な上半身で、デコルテラインを美しく際立たせている。
スリーブから出ている腕は形が良く、スラリと女性らしい曲線をたたえているので、思わず触れてみたくなるほどだった。
ドラコは無意識のうちに手が出てしまわないように気を付けて、両手をスーツのポケットに入れて、アガサをじっくり観察した。
「どうかな」
サイドの髪をハーフアップにして、背中には緩くウエーブのかかった黒髪をおろしている。
それを見たドラコは、柄にもなく絵本の中に出てくるようなお姫様を連想した。髪をすべて降ろしてカチューシャをつけていたベガスの夜の少女とは大違いだ。
メイクのせいだろうか、今夜のアガサは、とても大人っぽく見えた。でも、それはイタズラに男を挑発するような美しさではない。
アガサの分別のある上品な女性らしさを目の当たりにして、ドラコは面食らった。
「すごく綺麗だよ」
「ありがとう」
「そのネックレスは、誰かからのプレゼント?」
不意に、アガサの首元に目を奪われて、ドラコは訊ねた。彼女のデコルテに不思議な存在感のある美しいドロップ型の石が輝いている。
その石は見る角度によって、金色や、濃い青や、グリーンに光ってとても神秘的だ。ドラコにはそれが彼女のために作られた特別なアクセサリーに見えた。もしかすると特別な誰かからのプレゼントなのだろうか、ということが妙に気になった。
「母からのプレゼントよ。ダイヤモンドのような高価なものじゃないの。でもこれは手作りの一点ものなのよ、いいでしょう」
アガサはそれから、その石がラブラドライト、という天然石であることを、熱心にドラコに説明してくれた。
「そうか」
「もう行ける? 今夜はあなたのエスコートを頼りにして、7センチのヒールを履いてるのよ。我ながら大胆なことをしたものだわ」
そう言って、アガサは冗談交じりにスカートの裾を少し持ち上げて、ビジューの散りばめられた黒いハイヒールをドラコに見せた。反対の手には、ハイヒールと揃いだという小さなハンドバックを持っている。
アガサの話に耳を傾けながらも、彼女の形のいい足に見とれて、ドラコは肌の下がざわつくのを感じた。
腕を組んで歩くと、彼女の顔がいつもより近くにある。なぜか、抑えようもなく胸が高揚する。
思いがけず自分が彼女のことを女性として意識していることに気づいて、はて、どうしたものか、と、ドラコは内心で苦笑する。
素直に衝動に従いたい気持ちもあったが、そんなことをすれば、きっとアガサは許さないだろう。
◇
紳士らしく、ドラコがストラダーレの助手席のドアを開けて抑えてくれている間に、アガサはドレスの裾をたくし上げて中に乗り込んだ。深く体を包み込むバケットシートは、地面に座っているのかと思うくらい低い。シートベルトをどう着用していいのか戸惑っていると、ドラコが手伝ってくれた。
はじめに、腰の前でベルトのバックルを止め、左右から引き締めて長さを調節する。続いて、後方から両肩の上にハーネスをおろし、腰のバックルと繋げる。
「こんなに強く締め付ける必要があるわけ?」
アガサはドラコにされるがままシートに固定された。まるで、チャイルドシートに寝かされた赤ちゃんみたいだ。
「ないよ。少なくとも今夜は」
「じゃあなんでこんなにするのよ」
「走り出してから怖がっても遅いからだよ。この車にはビートルみたいに掴まるところはないから、体の支えになるのはこのハーネスベルトだけだ」
アガサが見ると、車内にはアシストグリップも、アームレストグリップもなかった。
「怖がらせるような運転をするつもり?」
「勝手に怖がってろ」
ドラコは助手席のドアを閉めた。
それから運転席に滑り込んでくると、自身もハーネスベルトを装着して、クラッチとブレーキを踏み込んだ。慣れたものだ。
「お願いだから、今夜だけはスピードを出しすぎないでよ。安全運転でお願い」
「わかってないな、俺は無謀運転はしない」
「本当にそうだといいけど」
アガサは、早くも怖くなってきた。
ハンドルに手をかざしただけで、エンジンがかかったように見えた。
途端に大地を揺り動かす重低音が轟き、エンジンの振動がシートから突き上げて、アガサの体に伝わってきた。
「ああ、神様……」
ドラコは構わずストラダーレを発進させた。
ストラダーレはドライバーの一挙手一投足を鋭敏に感じ取り、すべてにおいて繊細に、かつ素早く反応する。
腹を沸かすような低速の重低音から一変、アクセルを踏み込むほどにストラダーレはセクシーな高周波で鳴き、地面に吸い付いて、放さない。
音と振動を通して、ドライバーはストラダーレと一体となって、世界を疾走している感覚を味わえる。
運転していてこれほど楽しい車は、他にない、とドラコは思った。
◇
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