恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-12
安全運転をする約束で、帰りはドラコが運転を任されることになった。
バレーサービスをしてくれる専用のボーイが、ザ・ビートルをホテルのエントランスに停車させると、二人はホテルスタッフに滞在中の礼を述べて車に乗り込んだ。
ドラコはまたしてもシートの位置を直さなければならなかったが、最初に助手席に乗ったときよりもスムーズにそれをやり遂げた。
デュアルクラッチトランスミッションの七段変速マニュアル車。
本来はスポーツカーに採用されるミッションが、アガサの【のろまな】愛車に積まれていることに、ドラコは苦笑いする。
ザ・ビートルのような小排気量の車に、それは不釣り合いに思えた。
1.2リットルという可愛らしい排気量ながら、四気筒ターボエンジンを乗せてトルクを上げているのも小生意気なことだ。
このズングリむっくりした大人しい車に、あえてそれを載せてくるあたり、ドイツのフォルクスワーゲンもなかなかに【アタオカ(頭がおかしい)】だ、とドラコは思う。
ラスベガスの市街地を抜けるまで、ドラコは制限速度を守って運転していた。
だが、国道12号線に入ると変則レバーを4速から5速に、5速から6速、7速へとすみやかに上げて、一気に時速200キロまで加速させた。
「ちょっと! 安全運転をする約束でしょ!」
アガサが怒って、ルーフのアシストグリップにしがみついた。
ドラコは車線変更をして前方を走る輸送用トラックを軽く追い抜かしてから、アクセルを緩めてシフトレバーを動かし、時速180キロまで速度を落とした。
「加速時の安定感は悪くないが、200キロ以上出すとボディが軽いせいで少しガタつくな。このくらいの方が、乗り心地よく走れるか……」
「まだ180キロも出てるけど、正気なの?」
「車には、それぞれ適した速度があるんだよ。こいつは見かけによらず、ミッションがスポーツ仕様なんだから、たまにはこのくらいで走ってやらないとエンジンが腐るぞ」
アガサは開いた口がふさがらなかったが、確かにドラコの言う通り、ザ・ビートルが安定して真っすぐに走っているので、それ以上は何も言わなかった。
朝日を受けて、砂漠の一本道がキラキラ輝いている。
その中を、ザ・ビートルは驚くほど気持ちよく、滑るように疾走して行く。
やがてアガサはドラコの運転に慣れて、アシストグリップから手を放した。
それから何もやることがなくて退屈なので、何気なく、ホテルからもらってきた朝刊に目を通し始めた。
――ラスベガス市警のお手柄、連続誘拐犯をついに逮捕!
ラスベガス・ポストの二面の記事が目に留まった。
――ラスベガス市警は一昨日の深夜、市警の地下駐車場に違法駐車された車内から、白人の男を確保した。
男は車内で縛り上げられた状態で発見され、多数の暴行を受けた痕があったことから、警察は当初、暴行事件の被害者としてこの男を保護した。
しかし、車内で発見されたビデオカメラの映像を確認した鑑識の報告で、事態は一変した。
――驚くことに、ビデオカメラには、男がこれまでの連続婦女誘拐を涙ながらに告白する映像が記録されていた。
鑑識がさらに車内を捜索すると、ダッシュボードから市警宛の封筒が見つかり、中には行方不明になっている被害者たちのリストと、人身売買の記録が詳細に記されたメモが入っていた。
これが証拠となり、警察はこの哀れな男を緊急逮捕した。
現在、FBIが被害者たちの保護奪還のために、警察と協力して奔走しているところである。
――尚、ラスベガス市警は今回の男の逮捕劇について、【何者か】が介入した可能性を示唆しているが、その正体は依然として不明である。
犯人の顔写真を見て、アガサは驚きの声を上げた。
「あの男だわ!」
それは、国道12号線でアガサが声をかけた、車の故障を装って困ったふりをしていたリックだったのだ。
運転をしているドラコは何も言わなかったが、その口角がわずかに上がったように見えたので、アガサはハッとした。
「もしかして、あなたが何かしたの?」
運転中のドラコがサングラスをかけているので、アガサにはその表情がよく見えない。
「何のことだ? 俺はずっと、アガサと一緒にいたんだぞ」
嘘はついていない。
事実、ドラコはベガスに滞在している間、一歩もベラージオホテルから外には出なかったのだから。
「……そう、よね」
一昨日といえば、アガサとドラコがベラージオホテルにチェックインをした日だった。
あの夜、アガサはクタクタに疲れてすぐに眠りについてしまったが、その後にドラコが、一晩のうちに犯人に何かできたとは思えなかった。
「そうよね……」
アガサは自分を納得させるように、もう一度言った。「そうよね」、と。
何かがひっかかるのだが、アガサはそれ以上は何も言わなかった。ただ心の中で、犯人が捕まったことへの感謝を神に捧げ、被害にあった女性たちが無事に救出されることを、ロサンゼルスに着くまで祈り続けた。
◇
行きはアガサの運転で8時間以上かかった道のりも、帰りはドラコの運転で2時間半ですんだ。
ザ・ビートルは昼前に古城に到着した。
古城に帰ってくると、アガサとドラコはそれぞれ思い思いに過ごした。
ドラコはすぐに街に出かけたようだったが、アガサは旅の疲れを癒すためにゆっくり風呂につかり、その後は今回の学会で得た成果をまとめたり、読書をしたりして、土曜の残りをのんびり過ごした。
善き隣人同士、互いの行動に干渉しなくて済むのは楽だった。
日曜の朝には、アガサは約束通りにドラコを教会に連れて行った。
ドラコは彼自身の愛車であるストラダーレを出すと言い張ったが、教会に行くには目立ちすぎるので、アガサが断固として阻止した。
教会に着くまでドラコは恨み言を並べ続けていたが、ひとたび教会に足を踏み入れると、天使のような笑みを浮かべてご婦人方の挨拶に応じた。
アガサは、シャーローム・プロジェクトの秘書をしてくれているミシェルと、たまに古城を巡回しに来てくれる警官のローランを、ドラコに紹介した。
アガサは教会の信徒たちの前で、ドラコのことを『神が送ってくれた助け手』だと強調した。
だから、彼のことを度々、古城で見かけることがあっても驚かないようにと、余念なく皆に説明した。
アガサのことを知る人々は、彼女が揺るぎない信仰をもっていることを良く知っていたし、ドラコの方も信徒たちの前で謙虚に振舞い、とても礼儀正しくしていたので、教会の信徒たちは皆一様に、ドラコを温かく迎え入れ、彼がアガサの善き隣人で、友人であるということを少しも疑わなかった。
ドラコが教会の仲間たちに気に入られたので、アガサはとても喜んだ。
だが、帰りのザ・ビートルの助手席に乗り込むと、ドラコはすぐに天使の仮面を脱ぎ捨てて、「キチガイじみた無防備と善良の巣窟だな」、と揶揄した。
「そんなことはないわ。みんなとても用心深くて、賢いし、それに、いつも自分の中にある罪と向き合って苦しんでいるのよ」
シフトレバーをニュートラルに入れてエンジンをかけると、アガサはゆっくりと城に向かってザ・ビートルを発進させた。
疲れたのか、ドラコはしばらく黙り込んでいたが、やがてまた口を開いた。
「アガサはどんな罪に苦しんでるんだ?」
「嘘や、憎しみ、人をねたむ気持ち。正しくあろうと願うほど、自分が罪深い人間であることに気づくわね。でも、どうしてそんなことを聞くのよ」
「別に。本当かな、って思ったからさ。嘘すら上手くつけない奴に、どんな罪があるっていうんだ? ……まあ、ベガスで俺との間に4人も子どもを設けたことは、流石に大胆がすぎるとは思ったけど」
ドラコが含み笑いを見せたので、アガサは口を引き結んで鼻を膨らませた。
「その話はもう終わったはずでしょう?」
「結婚したら、4人も子どもが欲しいの」
「考えたこともないけど、なぜか自然に言ってたのよね、4人だ、って」
今思い返してみても、随分と滑稽なことを口走ったものだと、アガサは自嘲の笑みを零した。
ドラコは何も言わなかったが、しばらくするとまた質問をしてきた。
「結婚を考えてる相手はいないのか」
「うん。私は一生独身でもいいかな、って思ってるの」
「どうして」
「まず、出会いがないしね」
ドラコはほんのかすかに眉をひそめた。
少なくともドラコが見る限り、アガサに好意を抱いているらしい男が教会の信徒たちの中に何人かいたからだ。
「どんな男が好みなんだ」
「イエス様」
即答だった。
「聞いた俺がバカだったよ」
「ドラコはどうなの、マフィアの人も結婚はするんでしょう?」
「したいと思ったことはない」
「どうして?」
少しの間考えてから、ドラコは答えた。
「結婚をするのって、子どもを生んで、育てるためだろ。そんな退屈で面倒なことを一緒にしたいと思える女と、これまで出会ったことがないからかな」
「ふーん、そう」
と、アガサは相槌をうつと、ウィンカーを上げてマウント・グロリアの麓に続く山道に入って行った。
アスファルトの山道を登っていくと、さらに道が分岐して細くなり、『マウント・グロリア』と刻まれた、ほとんど崩れかけた石門が見えてくる。
石門から先は古城に続く古い私道で、石のタイルが敷き詰められたその傾斜の強い細道には、ハイカーやバイカーさえ立ち入ることがない。
その道には鬱蒼とした自然が覆い、どこか人を寄せ付けない異質な雰囲気が漂っている。
「今夜、何か予定はあるのか」
と、不意にドラコが訊ねてきたので、ギアを三速から二速に落として、「特にないけど」、とアガサは答えた。
「それなら、フレンチでもどうかな。店を予約したんだ」
唐突な誘いに、アガサは戸惑う。
「え……、フレンチ? 予約したって、どこのお店を? どうして」
「誕生日のお祝いだよ」
「もしかして、私の誕生日?」
「ほかにいるのか?」
「こっちに来てから誰にも誕生日の話はしていないんだけど、……なんで知ってるの?」
「前を見て運転に集中してくれ」
アガサの運転操作が一瞬乱れそうになったのを見て、ドラコが助手席から手を伸ばしてハンドルを補助した。
「ああ、ごめん」
それからアガサは運転に集中するために会話を中断したが、古城の表玄関のエントランスにザ・ビートルを停車してエンジンを切ると、すぐにまた話の続きをした。
「それで、あなたはどうして私の誕生日を知っているの?」
「俺たちの世界では、隣人の素行を事前に調査しておくのも、大事なリスク管理の一つでね」
それを聞いて、アガサは束の間、表情を失ってドラコを見つめた。
探偵みたいに自分のことを調べられていたと知って、驚いたからだ。
だが、考えてみれば別に知られて困ることもなかったし、マフィアの世界ではそういうものなのか、と、納得する。
「そうなんだ」
ドラコが黙ったまま車から下りないので、アガサは彼がディナーの誘いに対する返事を待っていることに気づいて口を開いた。
「あなたはフレンチよりも、イタリアンが好みなのかと思ってた」
「イタリアンなら外で食べるより俺が作った方が旨い。この近くで手間をかけずに、ゆっくり食事するなら、フレンチがいいかと思ったんだけど、気に入らないようだな」
「そんなことない、嬉しい」
「じゃあ、決まりだな」
「けど、驚いたわ。だって、フレンチは特別な人と食べに行くものでしょう。本当にいいの? ……あなたの奢り?」
「もちろん」
「どこのお店?」
「それは行ってからのお楽しみだ。いい店をとったんだから、今夜はとびきりのお洒落をしろよ、アガサ」
何でもないことのようにそう行って、ドラコは助手席から下りて行った。
それから運転席側に回ってくると、窓をコンコンと叩いてきたので、アガサはウィンドウを下ろした。
「念のために言っておくけど、今夜は俺の車で行くからな」
まるでストラダーレで教会に行けなかったことを根に持っているかのように、ドラコが念押しして言ってきたので、アガサは戸惑いなら頷く。
「別に構わないけど……」
アガサの返事を聞いて、ドラコは満足そうに微笑んで先に城に入って行った。
その後ろ姿を見送りながら、フレンチかあ、と、アガサは考えた。
男性と二人きりでフレンチを食べに行くのは、少しロマンチックすぎるような気がしないでもない。
もし、下心丸出しの別の誰かから誘われたのだったら、アガサはきっと断っただろうと思う。
でも、ドラコはそうではないし、料理と、ワインと、会話を楽しむには申し分のない相手に思えた。
それに、ロサンゼルスに引っ越してきてからというもの、誰かに誕生日を祝ってもらうのは初めてだったので、アガサはとても嬉しかった。
◇
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