恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 2-1
翌朝遅くに目覚めると、スズメたちのさえずりが賑やかに聞こえていた。
ロサンゼルスで見られるスズメは、日本のとはちがって頭のてっぺんが灰色をしているのが多い。そこだけが異なるが、鳴き声は日本のと一緒だ。
窓の外は数日ぶりの晴天で、鳥たちも久しぶりに羽を伸ばしているのだろう。賑やかなことだ。ベッドの中で耳を澄ませていると、スズメの他にも、ステラジェイのだみ声や、ハチドリの甲高い声も聞こえてくる。
強い陽光がベッドのすぐ足元のところまで射し込んできていたのでアガサは眩しさに目を細めた。そろそろ昼が近いことを悟り、アガサはゆっくりと起き出した。
階下に降りていくと、広間の大理石が天窓の陽光に照らされて眩しいばかりにエメラルド色に輝いていた。
リビングの暖炉の火は消え、すっかり冷たくなっていた。あのマフィアの男は、やはり昨日のうちに城を発ったのだろう。
客人に使ってもらっていたソファーの寝具は片付けられて、すべてまとめてランドリールームの籠の中に入れてあった。ランドリールームに揃えてあったあの男の私物は、全てなくなっていた。
キッチンのボウルの中には、アガサのビートルのキーが残されたままになっていた。あの男はもしや、歩いて山を下ったのだろうか? 麓までは車で片道15分はかかるうえに、夜は真っ暗で、コヨーテも出るというのに、いや、まさかそんなはずない、と思い直す。もしかしたら、仲間が近くまで迎えに来たのかもしれない。
リビングに戻ると、コーヒーテーブルの上に新聞が乱雑に散らばっていた。それを片付けるために一番上に置いてあるロサンゼルス・タイムズを手に取ると、一つの広告が目についた。――迷い犬、探しています。
背表紙にでかでかと掲載されている写真には、額に大きなハートの模様があるとても不細工な顔つきのブルテリアが写されていた。
何気なく記事に目を走らせてみれば、その犬はどうやらニューヨークで行方不明になったらしいのだが、わざわざ大陸を横断した反対側のロサンゼルス・タイムズにまで、これほど大きな広告を掲載しているのは奇妙だった。ふと、気になってテーブルの上にあるすべての新聞を開いてみれば、同じ広告が他の全ての新聞にも掲載されていた。唯一つ、アガサが善意で忍ばせておいたキリスト教新聞を除いて。
大手の新聞に広告を掲載する費用は、1回三千ドルをくだらない。背表紙にこれだけ大きな広告を載せれば七千ドルはするだろう。日本円にして百万円くらいだ。それを、全国のあらゆる新聞に掲載したというのだろうか。アガサは自身も愛犬家であることから、迷い犬を探す飼い主の気持ちは理解できる。だがこの飼い主はどう見てもやりすぎだ。こんなことをするのはよほどの大富豪に違いない。それで、この犬を見つけたら連絡先は、――これは変だわね。
広告に掲載されている電話番号を見つけて、アガサは盛大に眉をしかめた。10桁の番号のうち先頭の三桁がエリアコードになっているはずなのに、少なくともそれはアメリカに存在する番号ではなかった。――迷い犬、D これって、もしかして……
突如ひらめいた考えを押し戻して、アガサは新聞をバサッと閉じると、全てまとめて古紙回収用のボックスに投げ入れた。――私の知るべきことじゃないわね。
「さてと、」
他に片付ける物はないかとリビングを見回したアガサは、すぐに首を傾げた。
念のため暖炉の横の本棚を確認してみたが、やはり眉を顰める。なぜなら、コーヒーテーブルの上に置いてあった聖書が、どこにもなくなっているのだ。まさか、あの男が持って行ったのだろうか? 別にあげても構わなかったが、アガサにはそれがちょっと意外だった。
それから日常は川の水が流れるように戻ってきて、その日の午後には、アガサはドラコのことはすっかり忘れてしまっていた。
バイオラボのプロジェクトに関して、年が明けた春には学会で研究発表をすることになっているから、仕事に身を入れなければならない。
ラボの仕事以外にも、ここ数日の嵐の後の庭の片付けや、まだ途中になっている古城の改装も、涼しくて天気のいい今のうちにやってしまいたかった。また、ゆくゆくは豊かな自然をいかして庭で家畜を飼いたかったので、家畜小屋や納屋を建築して、バイオマス槽とを繋げる計画もしている。設計図を描いて、業者に依頼するつもりだから、年が明けて混み合う前に腕のいい大工を捕まえる必要があるだろう。
そのほかにも、居場所をなくした動物たちの保護活動や、教会への援助、それに、神が彼女に与えられた特別なミッションも、クリスマス休暇中の今のうちに、本格的に始動するつもりだ。やるべきことは一杯あった。
アガサは普段から忙しい毎日を送っているのだが、古城に引っ越して来たばかりの今年は特に忙しく、クリスマスツリーさえ飾ることができずに終わってしまって、もう年末だ。来年こそは、大きなクリスマスツリーをこの城の広間に飾り、敬虔なキリスト教徒らしく、イエス・キリストの誕生を祝いたいと思った。
そうして年末に早くも来年のクリスマスの飾り付けのことなどを考えているうちに、そうだ、シャローム・プロジェクトと名付けよう、という考えが、突然にアガサの内にひらめいた。シャロームは、ヘブライ語で「平和」を意味する言葉だ。
天使が降り立つ町ロサンゼルスで、栄光の山マウント・グロリアから始まる、平和のプロジェクト。
神の願いは個々人が救われることにとどまらず、世界が神の平和の実現にむかって変革されていくことだ。アガサはそのために働くことを神から命じられているのである。
◇
天使たちは年に一度、アガサの元に大量の荷物を運び込んでくる。
すべてが同じ形、同じサイズの段ボール箱に入っていて、それは胸に抱えられるくらいの大きさだが、一つ一つがコピー用紙の箱のようにズッシリ重い。それらが7万個も運び込まれるのだ。アガサが古城に越してきたときに、天使は、これからは年に一度の元日にやって来ると予告していった。天使が言った通り、元日の早朝まだうす暗い中に、古城の広間に天使の軍勢が陽光のように姿を現した。
アガサは最初、天使に気づかなかった。ただ朝日が昇って、強い陽射しが広間にさしてきたな、と思ったのだ。だが、耳元で角笛の音が鳴り響いたので、紅茶を手にリビングまで移動しようとしていたアガサは、その場所で驚いて飛び上がり、紅茶をカップからこぼした。
暗いところでならよく見えるのだが、朝や昼間は、眩しさに目を細めているうちにそれが天使だと気づかないことがある。
アガサは年が明ける前に、祈りの中でプロジェクトの名前を神に報告していたので、今回運び込まれてきた箱のすべてに、ヘブライ語で「シャローム」という焼き印が押されていた。
「去年の分もまだ使い切れていないというのに、困ったわね」
アガサが言うと、天使の一群のリーダーと思しき、いつもの天使の声が返って来た。天使たちは休みなく光り輝いているので、アガサには彼等の外見の特徴を詳しく見分けることができなかった。会話をするときに、目が合っているかどうかもあやしい。それくらいに、天使たちはアガサの目に眩しかった。
『与えなさい。そうすればあなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである』
それは聖書の、ルカによる福音書の言葉だった。
神がアガサに求めておられる仕事のうち、最大のテーマが、『与える』ことなのだ。だからアガサは毎年、与えきれないほどの富を神から預けられ、それを人々のために用いることを求められている。だが良くないことに、最初の年はそれらを20パーセントも用いることができなかった。つまり、80パーセントも使い余している計算になるのだが、今年はそこに加えて、最初の年と同じようにまた富が上積みされるらしい。これにはさすがのアガサも内心の焦りを禁じ得なかった。まだまだ彼女は、神の求めに達していないのである。
ここ数日前からアガサは、天使たちが来たときに7万個もの段ボール箱をどこに置いてもらうかを思案していて、とりあえず広間に置いてもらうしかないか、と考えていたのだったが、天使たちは彼女からの指示を待たずに、真っすぐと階段をのぼりはじめ、アガサの寝室に向かっていった。
「え、ちょっと……」
アガサの寝室はあまり広くないので、7万個もの段ボール箱を積み上げられてしまえば、身動きがとれなくなってしまうに違いない。もしかすると天使たちは、有限の次元に存在している人間とは違って、無限の次元に存在しているせいで、身動きがとれなくなるという状態をわかっていないのかもしれない。
だが、慌てて後を追いかけてみれば、意外や意外、天使たちはアガサの寝室に入るや、ベッドの横の壁の中に箱を持ったままスッと入って行ってしまうのである。次々に天使たちが壁の中に入っていくのを見ながら、アガサもその壁に触ってみたが、ザラザラとした冷たい石壁の感触が手のひらに伝わっただけだった。
「え、あのう、……どうやって?」
一体どうやって、壁の中に置かれた荷物を取り出せばいいというのか。天使たちに聞いても、リーダー格らしい天使の他は口をきかず、一心に壁の中に消えていくだけなので、途方に暮れながらアガサはしばらく自分であちこちを探ってみるしかなかった。体重をかけて押してみたり、あるいは壁が横にスライドしないかと横向きに押してみたりしたが、まずビクともしない。
もしかすると隠しボタンのようなものがあるのかと、上から下まであちこちを手で押してみたが、どうやらこの線も違うようだ。
アガサが天使たちの列の間でうろうろと壁を調べている間、アガサは面白いことに気づいた。天使たちは実体のある荷物を持ったまま壁をすり抜けて行くことができるのに、アガサのことはすりぬけずに、必ず右か左に避けて通って行くのだった。
だからアガサは天使たちの邪魔にならないように部屋の真ん中に移動して、そこで腕を組み、部屋の中を見回してみることにした。
ふと、この部屋に備え付けの天蓋ベッドの横にある燭台が目についた。その燭台は石壁に備え付けられていて、アガサがここに引っ越してきたときからそこにあった。そういえば、この部屋に元からあったのは、天蓋付きの古い木のベッドの他には、その壁から突き出た燭台だけだった。
近づいて行って、燭台に両手ををかけて引っ張ってみた。……動かない。次いで横にゆすり動かしてみたが、やはりビクともしなかった。最後に、何気なく下向きに力をかけてみると、燭台がレバーのように手前に傾いた。同時に、ボンっという低い音がして、分厚い石壁が滑らかに奥に開いた。
「うわーお」
本当に驚いて感動すると、語彙力はなくなってしまう。
アガサは期待に胸を高鳴らせて秘密の入口を入って、瞬間、すぐにまた「うわーお!」、と驚きの声を上げた。そこには想像以上の光景が広がっていた。
秘密の扉の先はすぐに階段の踊り場になっていて、眼前に、一階から三階分まではありそうな、巨大な洞窟のような空間を一望できた。踊り場から上には壁伝いに、手すりのない細い石の螺旋階段が昇り、踊り場から下にはもう少し太い石造りの真っすぐな階段が降りていた。壁一枚を隔ててこんな秘密の空間があったことにまず驚いたが、アガサがさらに驚いたことには、そこには金の延べ棒や、金貨、様々な色に輝く宝石類、銀器、中世時代のものと思われる豪華な衣装が山のように積まれていた。まるでアラジンの魔法の宝物庫だ。
天使たちはその宝物庫の中央に、今もこつこつと段ボール箱を積み上げている。なるほど、ここならば人目にもつかないし、スペースも十分にあるから申し分ない。
窓も電気もないその場所は、本来であれば真っ暗であるはずだが、今は天使たちの光で明るかった。いくつか壁に松明の朽ちた木片が残っているから、昔この城に住んでいた人はそれを明かりにしていたのだろう。
アガサは金銀財宝には指一本触れるつもりはなく、階段の上でしばらく考えを巡らせた。
はるか昔に、この城に住んでいた主人は、海賊か、泥棒か、資産家か、……善人なのか、悪人なのか。そういえば今まで、この古城とマウント・グロリアの歴史を聞いたことがなかったことに思い至る。
秘密の宝物庫にこれだけの財宝を貯め込んだまま、この城が誰からも見放されて朽ち果てようとしていたのは、どうしてだろう。
アガサがこの城を不動産屋から紹介されたとき、誰にも相続されず、忘れ去られたこの城は、マウント・グロリアの土地のすべてと建物をあわせて、わずか数億円で売りに出されていた。もちろん、神の富を預かっているのでなければ、そんな大金をアガサに支払えるはずはなかったが、ロサンゼルス郊外の交通の便が悪いという立地条件だけで、山一つと城がそんなに安く変えたのは、奇跡だった。
この城のルーツを調べてみる必要があるかもね、と、アガサは思った。
◇
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