恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1-8
アガサがキッチンのエスプレッソマシンで食後のコーヒーを落とし始めると、その香りをかいだだけでドラコがダイニングで声を上げた。
「ラヴァッツァだな」
イタリアンコーヒーの有名なブランドの一つだ。
正直なところ、紅茶派のアガサはコーヒーに詳しくなかったし、中でもエスプレッソは苦すぎて苦手だった。だが、アガサが差し出した食後のエスプレッソをドラコが嬉しそうに飲んだのを見ると、満足できた。
ドラコは砂糖もミルクも入れずにそれを飲んでいたから、てっきりそういうものなのかと思い、アガサもそのままエスプレッソを飲んだが、やはり顔をしかめるほど苦かった。
「俺はこの苦味が好きだけど、本場イタリアでは砂糖を入れて飲むのが普通なんだ。スプーンにたっぷり、2~3倍は入れるぞ」
「え、体に悪そう」
「砂糖がまだ溶け切らないうちにエスプレッソと一緒に口に含んで、舌の上で甘さと苦さの境界を楽しむんだよ」
「……へえ」
アガサはドラコに言われたとおりやってみることにした。スプーンですくった砂糖を小さなカップに入れると、エスプレッソの表面に浮かぶクレマと呼ばれる膜がそれを受け止めて、砂糖は完全には溶けずにゆっくりと沈んでいった。それを見届けてからグイと一飲みしてみると、なるほど、甘い。だが、その甘みの後からエスプレッソの苦みが追ってきて、混ざりあい、それまで苦さの他は何も感じられなかったエスプレッソの風味が、鮮明に鼻に抜けていくのを感じた。それは花のような、フルーツのような甘い香りだ。
アガサが満足したのを見て取って、ドラコが笑みを浮かべながら口を開く。
「Un uomo e una donna si incontrano e si fondono.(男と女が出会って溶け合う)」
「なるほど、イタリアでは苦みと甘みの融合をそんなふうに表現するのね」
「イタリア語がわかるのか」
ドラコが、少し驚いた顔をしたので、アガサも一言だけイタリア語で返した。
「Solo un po'(少しだけ)」
「カップの底に残った砂糖をスプーンですくって食べるのを好む者もいる。キャラメルみたいな風味を味わえるんだ」
アガサは、無邪気な子どものように溶けた砂糖をスプーンですくって口に入れた。
何とも言えぬ背徳感があるが、なるほど、エスプレッソの焦げた苦みが染みて溶けた砂糖は、本当にキャラメルみたいな味がした。
エスプレッソの本場の飲み方を知れたのは面白い体験だったし、砂糖を摂取しすぎることが体の害にさえならなければ、これはなかなかアガサの好みに合った。
「聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「さっき言ってた、バイオマスエネルギー循環機構って、何のこと」
「生物由来の有機資源をエネルギーにして電気や熱などを生み出すことよ」
ドラコがぴんときていないようなので、アガサはさらに続けた。
「例えは生ごみや、家畜の糞尿を、微生物の力をかりて分解すると、熱やガスが発生するの。我が家ではそれをセントラルヒーティングの熱源にしたり、お湯を沸かすのに使ってる」
「どんな仕組みになってるんだ?」
「城の地下の一角に、バイオマス槽という大きな入れ物があって、そこに排泄物や生ごみ、枯れ葉を貯め込んでいるわ。それらを発酵分解してくれる微生物と一緒にね。槽の周りには空気の入った小さなパイプがたくさん巻きついていて、それは城中に伸びているんだけど、バイオマス槽で発生した熱がパイプに伝わると、パイプの中に満ちている空気が温められて膨張し、熱がどんどん広がっていく仕組みになってるの。うちではこれをセントラルヒーティングとして活用してるわ」
「電気はどうやって作るんだ?」
「バイオマス槽の中で発生するメタンガスを燃やして発電機を動かしてるの。発電機と焼却炉は、バイオマス槽に隣接して設置してある」
「それが本当なら、石油や天然ガスを燃やさなくてもいいってことになるけど」
「そう、だから循環機構って呼ばれるの。石油や天然ガスは有限の資源だけど、バイオマスエネルギーは生物が生きている限り、繰り返し生み出される資源だからね。でも、メタンガスの回収効率が悪くて、実用化までにはもう少し改良が必要ね」
「へえ……」
大して楽しい話でもないだろうに、ドラコはアガサの話を熱心に聞いて、何か考えを巡らせているようだった。
それからしばらくして、「仕事は何をしてる? つまり、神の家で俺みたいな可哀相な男の世話を焼く意外には」、と聞いてきたので、アガサは包み隠さず答えた。
「カリフォルニア工科大学で研究員をしてる。地球温暖化と、新しいリサイクル機構の開発が私の仕事よ」
「へえ、すごいじゃないか」
「別にすごくなんか。……ただ、できることをやっているだけ」
アガサの言葉尻の中にわずかな影を感じて、ドラコがすぐに聞き返してきた。
「今の仕事に不満でもあるのか」
そこで、アガサはこれまで神の前以外では決して口にしなかった心の内を打ち明けた。
「正直、最初は不満だったの。バイオテクノロジーの分野では、地球温暖化やリサイクルはすごく地味なテーマだから。私は何のためにここにいるのかしら、って、ラボでも疎外感を感じていたわ。だけど、神が私に与えられた仕事だと信じているから、このプロジェクトを一生懸命やろうと決めているの」
ドラコは黙ってアガサの話を聞いて、あとは何も言わなかった。それがアガサには救いだった。
口先だけで煽てられたり、励まされたりするのは心外だったし、慰められるのも御免だった。
今まさに、自分で自分を奮い立たせて精一杯頑張っている最中だから、何も言われたくなかったのだ。
気づけば外は真っ暗になり、テーブルの上の蝋燭も残り僅かになっていた。
昨晩からずっと続いていた雨音が今は止んで、辺りは静寂に包まれている。
最後にドラコが礼儀正しく夕食への感謝を述べて、ディナーはお開きとなった。
夕食の片づけを手伝うというドラコの申し出を、アガサは丁寧に断った。
「肩の傷がまだ痛いでしょう。全部、食洗器に入れちゃうからこっちは心配しないで、今夜は早く休むといいわ」
ドラコが少し名残惜しそうにキッチンから出ていこうとしたとき、アガサはその背中に声をかけた。
「ここの片付けが済んだら、あなたがちゃんと毛布にくるまって寝てるか見に行くからね」
「イエス、マァム」
即座にドラコが、反抗的なティーンエイジャーの口調を真似て返事をしてきたので、アガサは食器を片付けながらニヤリとした。
だけどアガサには、本当はその時、ドラコが何かもっと別のことを言おうとしたように感じられた。
瞬間、もしかしたら雨が止んだことを合図に、ドラコは早ければ今夜にもここを去っていくのではないかしら、という考えがひらめいた。
その最初の考えが呼び水となって、アガサの頭の中で次々とパズルのピースが組み合わされていった。
昨晩はマフィアとギャングの事件がテレビで大騒ぎされていたのに、今日はもう一切報じられないことがアガサには不思議だった。それに、新聞にも一つもそのことに関する記事が出ていないなんて、あり得るだろうか。大きな違和感がある。きっと、何か裏社会の手回しがあったに違いない。
また、アガサは気づいていた。ついさっきまで真剣な表情で新聞を睨んでいたドラコが、その後は何かを吹っ切って、心から食事を楽しんでいるように見えたのだ。まるで、最後の晩餐を楽しんでいるかのようだった。
ドラコがどうしてそれを言わないのかは分からなかったが、おそらく今夜のうちに、あるいは明日の朝、アガサと顔を合わせる前にここを出ていくつもりで、その前に別れの挨拶を告げようとしたのでないか。
アガサはキッチンの片付けを手早くすませると、わざと夜の間に音が鳴るように食洗器のスイッチを入れてスタートさせた。
そして、キッチンのキャビネットの上にしまっておいた藤のバスケットを持つと、必要な仕事をするために足早にランドリールームに向かった。
◇
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