恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1-9
2時間ほどして、やるべきことを終えたと確信したアガサは、寝室に上がる前にリビングを覗いた。ドラコはまだ起きていて、聖書を読んでいた。
「読んでみた感想はどう?」
「退屈なレビ記がやっと終わったと思ったら、捧げものの話ばかりの民数記に入ったところだ。読み物としての娯楽性は皆無だなこれは」
「それはある意味で正しい見解ね。旧約聖書にはキリストの救いを理解するための前提となった歴史が記されているの。神は私たちを正しくあらせたいけど、人は捧げものをささげることにおいても、また、罪を犯さないというその一点においても、ことごとく神を裏切り、ダメさ加減をさらけ出す。あなたが捧げものの話を読んで退屈だと感じるのは、当時の人たちと同じ反応なのだと思う。ドストエフスキーの罪と罰を読んだことがある?」
「いや、ないな」
「あの小説も序盤は旧約聖書のように延々と退屈なんだけど、最後まで読み進めるとその全ての意味がわかり、ラスコーリニコフと同じように泣き崩れることになるのよ」
へえ、と、ドラコが興味を示したようだったが、アガサはリビングに来た目的を思い出して慌てて口を開いた。
「そうだった、言っておかなくちゃ。あなたの服と靴はランドリールームにかけてあるわ。預かっておいた銃とナイフも、藤のバスケットに入れたまま同じ場所に置いてある。それと…‥、もし必要だったら私の車のキーはキッチンのボウルの中にあるから」
「まるで、俺をここから追い出したがってるみたいだな」
「まさか! それより、これも言わせて。『下着までアルマーニで揃えるのは嫌味だ』 なんて、誰が言ったか。あなた、覚えてる?」
「見たのか……」
「洗濯したからね」
「プライバシーだろう」
ドラコがムッとしたのを見て、アガサは笑みをかみ殺しながら両手を上げた。
「わざわざ見たりしたことは謝ります。じゃあ、おやすみ。明日は私、朝寝坊をするつもりだから、起こさないようにしてね」
そう言って、アガサは二階の自室に入った。
寝る前の支度をして、ベッドに入る前にひざまずき、短い祈りをささげる。
――彼の行く先に、神の祝福と守りがありますように。
天使のお告げから始まって奇跡のように巡り合った、マフィアの男。
きっともう、二度と会うことはないだろうが、楽しかった。
それからアガサは安心して、深い眠りについた。
◇
ドラコの目にはアガサの賢さが魅力的に映った。
彼女は敬虔なキリスト教徒で、面倒見がよく、常識とはかけ離れた感性を持っている。
行動力があって、イタリア語を話し、料理が上手い。
今夜、ドラコがここを発とうとしていることにも、どうやら気づいたようだ。驚くほど勘のいいことには、警戒すべきかもしれない。
ここを発つことをアガサに伝えなかったのは、別れを言いたくなかったからだった。なんとなく、それを言えば寂しくなる気がしたのだ。
世話をやかれて子どもみたいに扱われることには抵抗があったし、嵐の晩に、ドラコのような不審者を代償なしに受け入れたアガサのことは今でも奇妙に思うが、彼女の傍にいるのは心地が良かった。
廃墟だったこの城を人が住める温かい環境に整え、立派に自分の仕事と向き合っている。そんな自立した女のことを、もっと知るのは面白そうだなとドラコは思った。
アガサが二階にあがってしまうと、ドラコはすぐにランドリールームに向かった。
彼女が言った通り、ここに来た時にドラコが身に着けていたものがすべて、整然とそこに置かれていた。
スーツの上下とネクタイは丁寧に洗われ、アイロンをかけて太いハンガーにかけられていた。破れていたジャケットの右肩の部分は目立たないように縫われている。クリーニングに出したときのようなパリッとした仕上がりではないものの、外に着て出るのに十分な出来だった。
ワイシャツは新品だった。きっと破れて血だらけだったのでアガサがジョルジオ・アルマーニに行ったときに買ってきてくれたのだろう。
嵐の山道を歩いて来たせいで濡れて泥だらけになっていた革靴は、すっかり乾いて綺麗に磨きあげられ、木のスツールの足元に置かれていた。
ふと、靴下と一緒に、アンダーウェアがキャビネットの上に畳んで置いてあるのを見つけて、ドラコは苦笑いした。――恥ずかしい。
アガサの熱心なお節介に心を打たれながら、ドラコはそれらすべてを身に纏った。そうしていつもの自分の装いに戻ってしまうと、これから車を隠している街のクラブまで、暗くて長い道のりを歩いていくのに、必要な力が沸いてくる思いがした。
ピクニック用の藤のバスケットから拳銃を取り出すと、体に染みついた機械的な動きでスライドを引いて薬室を確かめ、素早い手つきで拳銃に弾倉を装着し、もう一度スライドを引く。それらを一つずつホルスターに納めてから、最後に折り畳みナイフをジャケットの内ポケットにしまう。それで身支度は完全に整った。
ドラコは音もなく外にでると、束の間、アガサの古城を振り返って見上げた。
二階の窓に明かりはなかったので、彼女の部屋がどこなのかは分からなかった。
いずれにしろ、そう長くかからないうちにまたここへ戻ってくることになるだろう。
ドラコは月明かりのもと、元来た道を影の中へと戻って行った。
◇
第1話END (第2話へ続く)