恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1-7
新聞のページに視線を落としたまま、ドラコがとても集中している様子だったので、アガサは声をかけてしまったことを少し後悔した。
だが、意外にもドラコは快く夕飯の知らせに応じてきた。
キッチンの奥に洞窟のような小間があって、そこはかつて薪を納めておく場所だったはずだが、今はアガサはその場所をダイニングルームとして活用していた。
低いアーチ状の天上には梁が剥き出しになっていて、窓がないので、その場所は薄暗くて圧迫感のある空間だったが、壁にはエアープランツや、銀細工の美しい鏡や、アガサ自身が描いた油絵が飾られて、しばしば来訪者の目を楽しませた。
小間の中央に置かれた六人掛けの円いダイニングテーブルは、一本の松の木から切り出されたものだ。
それは、アガサがこの城に越してきて、建物に覆いかぶさっている庭の植物をいくつか取り除く必要があったときに切り倒された松の巨木だった。アガサは、アジア系の自分がこの国ではしばしば異邦人のように扱われることを知っていたし、この城にやって来たときにも同様に、自分は後からやって来た部外者なのだという気がしていた。だから、自分よりも先に長い年月をこの場所で過ごしてきた松の木を切り倒したときに、それをただ捨てる気にはなれず、むしろ敬意を払って、これからも一緒に暮らしたいと思ったのだ。
職人の手により、松の巨木は彼女が想像していたよりも素晴らしい、温もりのある立派なダイニングテーブルとなった。
夕飯のサラダと、ローストビーフと、付け合わせのジャガイモ料理は、すでにテーブルの上に並べられ、冷めないうちに食べられるのを待っている。
デザートの苺のフールは冷蔵庫でスタンバイ中だ。
ドラコを席に案内して座らせてから、アガサはミントを浮かべたウォーターポットを持って、ドラコのグラスに水を注いだ。
アガサがグラスに注ぎ終わるのを待ってから、ドラコはテーブルから折りたたまれたナプキンをとり、一度広げてから上の部分を少し手前に折って、膝の上に置いた。
とてもさり気ないが、スマートなテーブルマナーだった。
「絵を描くのか」
ドラコが壁に掛けられている絵に視線を投げた。
「趣味で少しだけ」
「この立派なゴリラは、……もしかして君の恋人?」
ドラコがそう聞いたのは、その絵のタイトルがイタリア語でAmore(愛)となっていたからだ。
まさかドラコが本気でそう思っているとは思わなかったが、アガサは笑みを零した。
「それはメスのゴリラよ。アモーレは彼女の名前で、認知発達研究の被験者だったの。手話で人とコミュニケーションがとれて、『アガサが大好き』って、やってくれるの」
言いながらアガサは、ドラコに小指をたてた拳と、次いで人差し指と親指をたてた拳、最後に親指と小指をたてた拳をみせて、I love youの手話をやって見せた。
「私もアモーレが大好きだったのよね」
すると、ドラコはわざとらしく神妙な顔をしてアガサに言った。
「このゴリラはどこか、オスっぽく見える。もう少しメスらしく描いてやれなかったのか」
「うるさいなあ。その絵はアモーレの可愛らしさがよく表現できていて、私としては上々の出来栄えなんだけど。褒めてよ」
「迫力は満点。ディナーの間中、この距離で睨みつけられるのはちょっとキツイくらいだ」
アガサは目を細めて、「せいぜい食事に集中することね」、と返すと、ドラコの皿にサラダをたっぷり盛りつけた。
レタスとルッコラ、千切りにしてほんの少しだけ湯通しした大根の中に、バターであえた薄切りのマッシュルームと、カルパス、モッツァレラチーズ、ホワイトブロッコリー、それにクルトンが散りばめられている。ドレッシングのかわりに、バジルと塩で味付けしたオリーブオイルをスプーンで振りかけるのがアガサのお薦めだ。
「召し上がれ」
「食前の祈りは?」
「それはクリスチャンの慣習で、もちろん私はするけど、あなたに強要するつもりはないわ」
アガサはドラコの向かいの席に座ると、両手をテーブルの上で組んで目をつむり、静かに頭を垂れた。
この城に来てからというもの、まるで神がドラコに試練を与えてでもいるかのように、アガサからいくつかのことを強要されてきたので、ドラコはひどく拍子抜けしてアガサを見つめた。
そうして彼女が祈りをささげている【しばしの間】、ドラコは食事に手をつけずに待った。
壁から突き出たランタン風の間接照明が淡い光を放っていたが、それだけでは明かりが不十分と見えて、テーブルの真ん中に置かれた燭台に3本の蝋燭が灯っていた。
祈りを終えると、アガサは何事もなかったかのように顔を上げ、また話し出した。
「バイオマスエネルギー循環機構の効率が良くなくて、まだ照明に回せる電力が十分じゃないの。薄暗くて申し訳ないけど、さあ食事をいただきましょう」
――バイオマスエネルギー循環機構だって?
アガサの口から、いとも簡単に聞き慣れない単語が出たことに、ドラコはやや戸惑ったが、目の前の食事がとても美味しそうなので、あえて聞き返しはしなかった。
一方でアガサは、ドラコが迷わずサラダ用のフォークを使って行儀よく食事を始めたので、秘かに驚いていた。
カトラリーの扱いに慣れていて、とても自然だった。
なんとなく、マフィアというだけで彼らが乱暴で粗雑な振舞いをするのではないかという先入観を抱いていた事に気づき、アガサは反省した。
「食欲が戻って来たようで、良かった」
アガサは自分の皿にもサラダを盛り付けると、次いでメインのローストビーフをカットして、今度はそれをドラコの皿に給仕した。
「オニオンソースと、バルサミコソースを、お好みでどうぞ」
二つのソースポットを、ドラコが取りやすいように近づけた。それからバゲットが山盛りになったバスケットも、ドラコの手に届きやすいように近づけた。
フォークとナイフを持ち替えると、ドラコはローストビーフを皿の上で器用に丸めて、最初にソースをつけずに一口食べた。
「こんなに柔らかいローストビーフを家庭で作れるとは、信じがたいな……。ローズマリーの風味と、塩加減が絶妙で、……これ、めちゃめちゃ旨いよ」
「それは良かった」
それからドラコはオニオンソースとバルサミコソースを交互にとり、どちらも試した。
「牛肉には鉄分が豊富に含まれているから、たくさん食べるといい」
アガサがそう言うまでもなく、ドラコはたくさん食べた。
メインの付け合わせは、ジャガイモの料理だ。
これはアガサの母親から伝えられた家庭料理で、茹でたジャガイモを半分に切り、中味をくりぬいて味付けした後、それをまたジャガイモの中に戻して丸ごとオーブンにかける。味付けは、コーンビーフと、バターで炒めたみじん切りの玉ねぎを、くりぬいたジャガイモとよく練り合わせて塩コショウで閉めただけのシンプルなものだ。トップにパン粉をまぶしてオーブンでこんがり焼きあげると、外側はさくさく、中味はジューシーな仕上がりになる。
ドラコはこれも気に入ったようだった。
「普段は、どんな食事をしているの?」
「外食が多い」
「自分で料理はする?」
「せいぜい簡単なイタリヤ料理だ。アガサは経済的だから自炊をするって言ってたけど、俺の場合は、楽しみたいからやるんだ」
「それってすごく素敵だと思う。料理って毎日すると面倒になることもあるから」
「気が向かないときにもやり続けられるのは、賞賛すべき才能だと思う」
「それはどうも。でも、たまには外食したりテイクアウトを利用することもあるのよ」
ドラコがメイン料理を楽しんでいるうちに、アガサは思い出したように冷やしたデカンターから濃い赤色の飲み物をステムグラスに注いだ。
「試しにこれを飲んでみて。肉料理にあうと思うの」
ドラコはナイフとフォークを置くと、すぐに右手でステムをつかんで視線の高さまでグラスを持ち上げると、反時計に回して香りを確かめ、それから口に運び、すぐには呑み込まずに少しの間、口に含んでから静かに呑み込んだ。
ワインが好きなのかな、と、アガサは思った。
ドラコがいかにもワイン好きに見られる典型的な所作をしたからだ。
「ワインじゃないのよ」
「でも、それに近い。ワインになる前の、未熟性のジュースって感じだな。すごく濃厚で、ワインには珍しい風味が混ざってる、これは……」
「赤しそよ。この山に自生してる山葡萄と、私が庭で栽培した赤しそを混ぜて、試しに醸造してみてるの。発酵が進めばワインみたいになるんじゃないかと思うんだけど、どうかしら」
「神の家で酒造を試みるとは、やるじゃないか。これが完成したら、また飲ませてもらいたいよ。ジュースとしてなら、このままでも美味しい」
ドラコのお腹が満たされる頃合いに、アガサは冷蔵庫からよく冷えた苺のフールを出した。
マスカルポーネチーズと生クリームをよく練り込んで、レモンで風味をつけたものに、冷凍してからクラッシュした苺を混ぜこんでいる。
小皿に盛り付けたフールの上にはクランベリーと生の苺が飾られている。味付けは爽やかで、食べ過ぎた肉料理の後の胃のもたれをすっきり解消してくれるはずだった。
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