恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1-6


 広間の奥の扉の先には新しく作られた洗面ルームがあって、そこには清潔なタオルや石鹸類、それにゲスト用の使い捨て歯ブラシやシェーバーなどが、見つけやすいところに備えられていた。洗面ルームに隣接して、トイレとシャワールームがあり、ウォークスルークローゼットの先にランドリールームがあった。
 ドラコが洗面ルームで顔を洗い、歯磨きをしていると、アガサの車が城の裏庭の車庫に戻って来るのが窓から見えた。
車から降りたアガサは雨に濡れないようにレインコートのフードをすっぽりかぶり、両手に荷物を抱えて小走りにキッチンの勝手口から入って来た。

 胸元に新聞の束を抱えて、片手にはジョルジオ・アルマーニの文字が入った褐色の紙袋を下げている。

「だいぶ動けるようになったみたいね」
 レインコートの雫をはらって広間のコート掛けにひっかけようとしていたアガサが、廊下側の扉口に立つドラコに気づいて嬉しそうに言った。

「わざわざジョルジオに行ったのか」
「まあ、店員のお姉さんにはちょっと変な顔をされたけどね」
 アガサはドラコをキッチンに手招きした。
「アルマーニしか着ない友人がいて、寝間着代わりに着るものが緊急で必要になったと説明したら、お姉さんがこれを選んでくれたの」
 そう言いながら、アガサは紙袋から前ジッパーの黒のフード付きパーカーと、スウェットパンツを取り出した。
「どれも目玉が飛び出るくらい高くてビックリしたわ。あと、アンダーウェアも」
 白昼堂々、アガサが差し出してきたのは、ジョルジオ・アルマーニの黒色のボクサーパンツだった。しかも、ピュアコットン製だ。

「俺がアルマーニしか着ないって、どうしてそんなことを思ったんだ?」
「だって、昨日脱がせたものが全部アルマーニだったからてっきり、拘りがあるのかと思ったんだけど、……違うの?」
 アガサがショックを受けたように固まったので、ドラコは小さく鼻で笑った。
「昨日はたまたまセットアップを着ていただけで、別にいつもアルマーニばかり着てるわけじゃない。それに、……有難いけど、下着までアルマーニで揃えるのは、ちょっと嫌味じゃないかな」
「じゃあ今は何の下着をつけてるの」
「俺が同じ質問をしたら、お前は答えるのか?」
 暗にセクハラだと言われたことに気づき、そんなつもりはないという意味でアガサは肩をすくめた。

「とにかく、今はこれしかないから着替えてしまって。汚れものはランドリーの籠に出しておいてね。雨に濡れたままにすると、色落ちして皺になっちゃうわよ」
「そういえば俺のジャケットとシャツはどうした? まさか、洗濯機に入れてないよな」
「心配しないで、私が持っている一番高い下着を洗うのと同じように手洗いして、陰干ししてるから。水で押し洗いする方法を試したの……」
 だが、それ以上は興味がなかったのでドラコは聞き流した。
「先に新聞に目を通したい」
「だーめ、着替えてから!」
 と、伸ばした手をアガサにぴしゃりと打ち叩かれた。
「なんだよ」
 ドラコはムッとしたが、一瞬にして赤い小鬼のようになったアガサの方がもっと怖かった。
「新聞は全部リビングのコーヒーテーブルの上に置いておくから、着替えてからゆっくり読んでちょうだい」
 有無を言わせぬアガサの迫力に、ドラコは言葉を失った。
 ドラコに対して、こんな強気な態度をとる仕切り屋の女は、他にはいないだろう。
 それから半ば強引に押し付けられた着替えを持って、ドラコは辟易して洗面ルームに着替えに行くことになった。

ほどなくしてドラコが不機嫌に広間に戻ってくると、アガサはキッチンで鼻歌交じりに夕飯の準備にとりかかっているらしかった。
ところどころで、「天の父」とか、「御国をきたらせたまえ」とかの歌詞を口ずさんでいるので、それが讃美歌なのだと悟り、ドラコは静かにリビングに退散した。
コーヒーテーブルの上には、ドラコが注文した新聞の他にも、いくつか主要な新聞がずらりと並べられていた。だが、その中になぜかキリスト教新聞が混ざっていることに気づき、ドラコは苦笑いした。

気を取り直してウォール・ジャーナルから目を通すと、米国株価が5ポイント以上も下落していた。
ニューヨーク市場の半分は、アルテミッズファミリーの動向に影響されて動く。今回は、ドラコがロサンゼルスで事件を起こしたせいで、おそらくアンダーグラウンドの連中が怖気づいて市場から撤退したのだろう。ドラコが死ねばいくつかの産業のパワーバランスが崩れて、おそらく株価はもっと下がる。だが、おあいにく様。まだ死ぬつもりはないし、株価はドラコが生きてさえいれば、じきに回復するだろう。むしろ株価が下がった今が買い時だ、と、ドラコは思った。
ニューヨークに残してきた部下の一人、ジョーイに、すぐに株の買い増しを指示したいところだが。
アガサの城から電話をすれば向こうにもこの場所が知れるから、それはさけたかった。いずれにしろジョーイなら、ドラコが指示しなくても動いている可能性があった。俺がそう簡単にくたばるとは思っていないだろうから。
 次にドラコは、ニューヨークタイムズとロサンゼルスタイムズに目を通した。管轄している地域で何が起きているかを知るのも重要な仕事の一つだが、アルテミッズファミリーがタイムズ紙上で暗号伝達を行なっているというのは、業界でも有名だ。ただ、その内容を解読できるかどうかは別問題だが。警察やギャングに包囲されてデジタル通信機器が使えない今は、ドラコに対して何かメッセージがあれば、ファミリーは必ずタイムズを利用するはずだった。

――『迷い犬、探しています。』
 すぐに一つの広告が目に留まった。広告に掲載されている迷い犬の写真が、イタリア本部にいるファミリーのボスが飼っている愛犬のものだったからだ。
確か犬種はブルテリアで、名前はラジャーといったが、広告にはこう記されていた。
――『愛犬の名前はMr.D 飼い主は、Dがニューヨークの我が家に安全に帰ってくることを願っています。』
『家族が捜索のため、全国の愛犬家の皆様に貼り紙を広めていますが、Dは狂犬病予防接種を受けていないので見つけても手出しをしないでください、【大変危険】です。』
『Dを見つけた方は次の番号までご連絡ください』

それは、アルテミッズファミリーのボス直々からの、ドラコへのメッセージだった。
最初の一文は単純に、ドラコにニューヨークに戻るように命じている。ボスの願いはすなわち、命令だ。
『家族が捜索』とはアルテミッズファミリーがドラコの身の安全のために動いていることを指し、『全国の愛犬家』は、ギャングを含めたすべての犯罪組織集団のことをさしている。
さらに、『狂犬』というワードと、『大変危険』というワードが同時に使われているときには、アルテミッズファミリーが必ず報復をするという意味になる。
つまり、ドラコに手をだしたら誰であろうと生かしてはおかない、ということを、すべての犯罪組織集団に対して警告しているのだ。警察や、政府機関やマスメディアなど、裏社会の人間はあらゆるところに潜んでいて、今回のような裏社会の【通達】を受けて、ささやかにこの世界の理をコントロールしている。

 ドラコは、自分がすでに警察から追われなくなった身であることを悟った。
また、どういうわけかボスは、今回のことでドラコにお咎めを与えるつもりはないらしい。
――だが問題は、最後に記載されている電話番号だ。

 電話番号は架空のもので、数字暗号になっているのがドラコにはすぐに分かった。
今回はD、つまりドラコにだけわかる暗号をボスは残している。
 支部を任せられているアルテミッズファミリーの幹部には、それぞれに独自の暗号解読用の対応表が渡されている。対応表は幹部一人一人に別のものが与えられ、それを他人に漏らすことは許されず、また、形や記録に残すことも禁じられている。だからファミリーの幹部になる者は全員、膨大な数字の羅列や、小説一冊分ほどの文字の羅列や配置を、すべて暗記していた。その程度ができなければ、アルテミッズファミリーの幹部にはなれない。知恵と力のある者がのし上る、弱肉強食の世界だ。

 今、広告に掲載された、たった十桁の番号を視線の先に捕らえながら、ドラコはボスの突拍子もない意向を汲み取った。
【極秘裏に進めろ……、ニューヨークはジョーイに……、ロサンゼルスの犬たちに首輪をつけろ……。――全てが終わったら、大事な話がある。】

 これはまた、想像以上に厄介なことになったもんだな、とドラコは思った。
その時、アガサがリビングの入口から顔を出して、遠慮がちに夕飯ができたことを知らせてきた。
アガサの心配そうな目を見て、ドラコは微笑んだ。

「忙しいようなら、後にしましょうか」
「ちょうど終わったところだ。腹ペコだよ」






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