恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1-5


 マウント・グロリアの細い山道をキャラメル色のフォルクスワーゲン、ザ・ビートルで慎重に下りながら、アガサは思いめぐらしていた。
嵐の夜に突如舞い込んできたマフィアの男の気持ちが、アガサにはまったく計り知れなかったからだ。
彼は無口で、表情も乏しいから、何を考えているのかが、本当にわからない。
出された食事にすぐ手をつけなかったり、傷の手当をしぶったりするのは、きっとこちらを警戒しているからだと思う。
もちろん好かれてはいないだろうが、今のところ、嫌われてもいないと感じる。

 彼はニューヨークマフィアのボスで、人殺しで、おそらく他にも多くの犯罪に関わっているのだろう。
人を寄せ付けない鋭い目をしているのはそのせいかもしれないが、アガサは、彼の眼の輝きの中には邪悪ではない、何か別のもの、……むしろ知性や正しさがあるように感じられるのだった。
だから、嘘やごまかしではなく、真実と誠実を尽くして接する限りは、危害を加えられることはないような気がした。

だけどアガサにとって恐ろしいのは、ドラコが何も恐れてはいないように見えることだった。
組織から命を狙われることも、警官から追われていることも、そして、銃弾で受けた傷のせいで死んでしまうかもしれないことさえ、ドラコは恐れていないのに、なぜかとても傷ついていて、寂しそうに見える。
アガサにはそれが、とても良くないことに思えた。


 麓までザ・ビートルをなめらかに走らせてパサデナを過ぎると、アガサは真っすぐにバーバンクにあるジョルジオ・アルマーニの店を目指した。
雨は昨晩よりもだいぶ小降りになってきているが、たっぷりと水分を含んだ路面は滑りやすそうだった。

 ジョルジオ・アルマーニは、アルマーニの中でも最高級のラインのはずだ。
普段ならアガサがそのような高級品を買い求めることは絶対にないのだが、あの気難し屋のイタリア系マフィアから湿ったパンツを脱がせるためには、金に糸目をつけるべきではないと考えたのだった。
昨晩剝ぎ取ったドラコの黒いジャケットや、ネクタイや、革靴は、どれもジョルジオ・アルマーニのものだった。
おそらく上下揃いのスーツは、体のラインに合わせて作られたオーダーメイドだろう。
ギャングと撃ち合いになるかもしれないというときに、あんな高級品を着て出かけるとは、一体どんな金銭感覚の持ち主か知れない。

 とにかく、上から下までアルマーニで固めているドラコのことだから、きっと下着にも拘っているはずだと思った。
だからわざわざ、バーバンクにある一番近いジョルジオ・アルマーニの店に向かっているのだ。アガサはそこで、何か適当なスウェットとアンダーウェアを仕入れるつもりだった。
新聞は帰りに、モールの書店で購入するつもりだ。





 アガサが出かけてから、もう3時間になる。
軽い読書のつもりで聖書の創世記から出エジプトまでを読み進めてみたが、レビ記に入ると、血と生贄と、皮膚のらい病の話に少し飽きてきた。
聖書の中に描かれている人々の行動原理は、現代のそれと大差なく、ドラコにも理解できるものだった。
異なっているのは、彼らが神と対話していることで、正義と悪、罪と罰は、神によって定められていることだった。

広間の向こうでベルが鳴り始めたので、ドラコは聖書を置いてソファーから立ち上がった。
リビングを出ると、天窓から射し込む自然光で、床の大理石が薄いエメラルド色に輝いていた。
その上を裸足で歩くとひんやりしたが、体が熱でほてっているので、ドラコにはそれが心地よく感じられた。
ゆっくりとした足取りで広間を横切って行くと、キッチンに続くアーチ型の入口をくぐったすぐのところに、壁掛けの電話があった。

出ると、受話器の向こうの相手はすぐさまドラコをたしなめ始めた。
『どうして電話に出るのよ』
 運転中にハンズフリーでかけてきているらしく、背後に雨水が跳ねる音や、車の走行音がしている。
「じゃあどうしてかけてきたんだ」
『私じゃなかったら、なんて言い訳をするつもりだったの? 知らない男性がうちの電話に出たらみんなビックリしたはずよ』
「そんなの、彼氏が来てるとかなんとか、いくらでも言いようがある」
『はっ、それだけはあり得ないわ!』
 そう断言するアガサにはあえて何も返さなかったドラコだが、きっとその通りなんだろうな、と思った。
 彼女はとびきり変わり者の敬虔なキリスト教徒で、身持ちは堅く、男を軽々しく家に連れ込むタイプには見えなかった。
 この城を神の家だと言っているくらいだ。
「……それで、要件はなんなんだ」
『買い物が無事に終わったから、あと30分くらいでそっちに着けると思う。じゃあ切るけど、次からは電話には出ないでね』
 ドラコが返事をする間もなく、受話器の向こうでアガサが突然に毒づき、直後にけたたましいクラクションの音がしたかと思うと、通話が途絶えた。
――ツー、ツー、ツー

ドラコは無表情に受話器を壁に戻すと、そのまま待った。
数分後、思った通り電話がまた鳴ったので、ドラコはすぐに受話器を取り上げた。
「大丈夫なのか?」
『あなたは電話に出ないはずでしょう?』
「ふざけてるんじゃないんだ、事故にあったのか」
『前の車がスリップしたの。あやうく玉突き事故を起こすところだったけど、私も、その後ろの車もなんとか避けて無事よ。スリップした車のドライバーにも怪我はないみたいだから、ひとまず安全運転で帰るわ。神に感謝しなくちゃ!』
「ああ、それがいい」

受話器を壁に戻してから、ドラコは人知れず溜息をついた。
善人が早死にすることほど、気持ちの好かないことはない。だからもし神が本当にいるなら、アガサのようなお節介な変わり者の善人にこそ、神の加護はあるべきだと思った。
それにしても、なんて人騒がせな女だろう。






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