恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1-4
脚付きトレイに載せてアガサが運んできたのは、緑色の何か溶けたものだった。
「これは?」
「ミルク粥よ」
「どうして緑色をしているのかな」
「すり潰したほうれん草が入っているからよ。鉄分が豊富で貧血にいいの。まあ、食べてみてよ」
と、アガサは屈託なくウィンクをしてきた。
ドラコは食欲がなかったし、他人に提供される手料理を食べるのは昔から好きではなかったので、どうしたものかと少し迷った。
今、コーヒーテーブルに肘をついてアガサはじっとドラコを見つめ、彼がそれを口に運ぶのを見届けようとしていた。
どうやら神は、先ほどのドラコの祈りを聞き入れられなかったようだ。いや、あるいは、もしかするとこれを食べればそれが叶うのか……。
怪我をしていない左手で木のスプーンをつかみ、ドラコはゆっくりとそれをすくって口に入れた。
「食べられそう?」
「うん」
丁度いい熱加減の柔らかなライスが舌にのり、鶏がらの香ばしい風味が鼻に広がった。
優しい塩加減の横に、わずかなブラックペッパーが利いている。疲労と貧血でムカムカしていた胃の中に、それは抵抗なく落ちていった。
シンプルな味付けだが、これなら食べられそうだ。
ミルクのまろやかさの中に、みじん切りにしてよく熱を通した玉ねぎが散りばめられているのだろう。サクッとした触感と、爽やかな甘みが、ミルクの重ったるさを緩和しているので、もたれずに食べ進められる。中から時折、ご褒美のようにほろほろに煮込まれた鶏肉が出てきた。――これは旨い。
ドラコは自分で料理をするのが嫌いじゃなかった。ニューヨークの自宅でも一人で自炊をすることがあるほどだ。
そんなときにドラコが作るのは、いつも洒落たイタリア料理だが、こんなシンプルで素朴なミルク粥を、これほど美味しいと感じたのは初めてだった。
「いつも自炊をするのか?」
気づけば純粋な興味が口をついて出ていた。
一度ドラコが食事を始めてしまうと、アガサの興味はすぐにソファーの汚れたタオルへ、そして冷めた湯たんぽに移ってしまい、さっきからせわしなく動き回っている。
今もアガサは、湯気の立ち昇る熱々の湯を湯たんぽに注ぎ込んでいるところで、ドラコの質問には、「そのほうが経済的だから」、と短く答えただけだった。
それからタオルをかき集めて忙しそうにリビングから出て行った。
ミルク粥をすんなり完食してしまうと、ドラコはグラスから水を飲んだ。
レモンと、かすかな炭酸がすっと鼻から抜けて、食後の胃がスッキリする感覚があった。
「おかわりいる?」
ウォーターポッドと新しいタオルを手に、アガサが戻って来た。ポッドには切り出しのレモンがたっぷり浮かんでいる。
ドラコはもう少し何か食べられそうだったが、体力が落ちているときに食べ過ぎるとかえって負担になることを知っていたので、丁寧に断った。
「美味かったよ。ありがとう」
「夕飯にはもう少し、精の出るものを作るわね」
「それは楽しみだ」
だが、昼食の後にまたしてもジャーマンカモミールとジンジャーブレンドティーが出されると、ドラコは嫌な顔をした。
「そのお茶は、臭いがきつすぎて鼻が曲がりそうだ」
イタリアでは薄めの紅茶が好まれる。ドラコはイタリア系マフィアの中で育てられたので、英国で好まれるような香りの強いお茶には馴染みがなかった。
しかし、アガサによれば、それらのハーブティーには今のドラコの体にどうしても必要な薬効があるらしい。しかもハーブは、彼女自らが手をかけて庭で育てたものだという。
どうしても、とすすめられるので、ドラコは仕方なく一杯だけ飲み干した。
その時のドラコのしかめ面を目にして、アガサは残念そうに溜息をついた。
「ハーブティーは嫌いなのね。次は食後にコーヒーを出すことにするわ」
「是非、そうしてもらいたいね」
それから食後の片づけがすんでしまうと、今度はアガサが、ドラコの傷を確かめると言って譲らなかった。
救急箱の蓋が開かれ、交換用の新しいガーゼと包帯がコーヒーテーブルの上に並べられた。
アガサが言うには、もし傷が変な色になっていたり、あるいは膿が出ていたりしたら、発熱の原因は感染症によるものかもしれないから、早めの対処が必要なのだという。
表情にこそ出さなかったが、ドラコは内心これにもゲンナリした。
もし傷口がまずいことになっていれば『早めの対処』のために何かまた痛いことをされるのだろうし、もし傷口が問題なかったとしたら、発熱の原因は濡れたズボンを脱がなかったせいで風邪をひいたと言って騒ぐだろう。どちらにしても面倒なことになるのは、目に見えている。
なんとか断りたかったが、アガサは病人を看病することにとりつかれた狂気の母親よろしく、とても頑固だった。
そしていつもならあり得ないことだが、傷の痛みと熱で弱っているドラコには、そんなアガサのお節介を振り払う気力はなかった。
「わかったよ、好きにすればいい」
ゆるしをもらったアガサは意気揚々と、だが慎重な手つきで昨晩巻いたばかりの包帯をドラコの体からほどき、その肩に張り付いている止血ガーゼをそっと取り去った。
真剣な表情で傷の検め作業に入っている間、アガサは一言も口を開かなかった。
なるほど、好きにやらせておきさえすれば、アガサがとても静かな女だということにドラコは気づいた。
ほどなくして、「思ってたより全然いいみたい」と、アガサは言った。
「少し浸出液はあるみたいだけど、膿は出ていないし、綺麗な色をしてる。よかったわね、神様が守ってくださったんだわ」
それからアガサは、救急箱から取り出した銀のスパチュラに消毒用のアルコールを吹きかけてから、それをサッと暖炉の火にくぐらせた。
昨晩の熱したスプーンのことが鮮明に思い出されて、まだ触られてもいないのに肩に痛みが走ったた。
そんなドラコの内心のかすかな動揺を知る由もなく、アガサは迷いのない手つきで、滅菌した銀のスパチュラに軟膏をたっぷり絡めとると、それをドラコの傷に塗りつけた。
一瞬ヒヤッとして、生理食塩水で傷口を洗われたときのような痛みを覚悟したが、軟膏が全く沁みなかったのでドラコは拍子抜けした。
「昔、保護した犬に足を噛まれて、ざっくり傷になっちゃったことがあってね。そのときにこの抗生剤をドクターが塗り込んでくれて、以来、救急セットの中に常備してるの」
「蹴ったのか」
「私が犬を蹴るような人間に見えるわけ?」
「やつらは臆病で、バカなんだから、何もしなければ攻撃はしてこないはずだ」
「確かに言えるのは、犬を蹴る奴は地獄に堕ちるということね」
呪いでもかけるような怖い顔でそう言うと、一変、アガサは反省するように過去を振り返った。
「私が噛まれたのはそうじゃなくて、多分、あの仔は人間に酷いことをされて怖かったんだと思うんだけど、私が無理をして、少し早く、その仔に近づきすぎてしまったのね。今はその仔、リビングと寝室にベッドを二つも与えてくれる里親のところで、幸せに暮らしてるわ」
「よかったな」
相手との心理的距離感を見誤れば、思いがけない危険を招くことがある。親切のつもりで手を差し伸べても、時には想像もしていなかったような手痛いしっぺ返しを喰らうものだ。もしかしてアガサは自分のことを、その犬のように考えて居るのだろうか、と、ドラコはふと思った。
「俺は噛みつかないから安心していい、……多分」
「ええ、だから最初に会ったとき、あなたの銃を預からせてもらったのよ」
と、アガサも冗談交じりに返した。
新しいガーゼと、包帯を巻いてもらった後は、ドラコは少し気分が良くなった気がした。
「二階にゲストルームを用意しているから、そっちに移ったらどう?」
「ここでいい。ロスに来た時はこの暖炉の前を寝床にしてたから、ここが落ち着くんだ」
「ここって、天上が割れて、ほとんど廃墟だったでしょう。どうしてホテルに泊まらなかったの」
「一人になれる場所が好きだったんだよ」
「そう」
茶化すでも驚くでもなく、当然のようにそう返すと、アガサは救急箱を片付けてリビングから出て行った。
そうかと思うと今度はレインコートの上からショルダーバッグをかけた姿で忙しく戻ってきたアガサは、暖炉に薪を何本かくべてから、ドラコの毛布を直して言った。
「ちょっと出かけてくるわね。トイレは広間の奥の扉の向こうよ。洗面台の上にあなたが使えそうなアメニティを置いてあるから、自由に使ってね。お腹が空いたら、キッチンにあるものを適当に食べてて。それと、テレビのリモコンはここ」
アガサは暖炉のマントルピースの上からリモコンをとって、それをドラコに届きやすいように、コーヒーテーブルの上の聖書の横に置いた。
「テレビよりも、聖書を読んでみることを、強くすすめするけどね」
と、最後に聖書をドラコの方にもう少し押し出してきた。
「どこに行くんだ?」
「街まで買い物に。うちには男物の着替えや下着がないから、あなたのために何か適当なものを見繕う必要があるわ。留守の間、来客の予定はないけど、もし誰か来ても出なくていいからね」
「……わかった」
「他に何か必要な物はある?」
「新聞がほしいな。ニューヨークタイムズとロサンゼルスタイムズ、ウォールストリート・ジャーナル、あと、トゥデイも」
「驚いた」
アガサが面白そうにソファーのドラコを見下ろした。
――マフィアが新聞をよく読むというのは、どうやら本当のようだ。彼らはそこから裏表の情報を得るだけではなく、紙面上で秘密の情報交換を行なっている、というのもまた、あながち嘘ではないのかもしれない。
アガサは少し考えてから、「ワシントン・ポストや、ボストン・グローブも買って来ましょうか?」 と言った。
ドラコは何も言わず、にやりとした。
堅気の女だろうに、警察に指名手配されているマフィアの男を少しも怖がる様子がない。ドラコはドラコで、内心アガサのことを本当に変な女だなと思った。
「じゃあ、行ってくる」
アガサが出て行ってしまうと、遠くの方でかすかに雨の音がする他は、城中がとても静かになった。
犯罪者をリビングに寝かせておいて、悪びれることなく平気で巡回の警官と会話していたことからも、アガサは相当に奇妙で、変わり者の女だ。
だが、なぜか不思議とドラコは確信していた。
――ここは神の家よ。今夜あなたはここで休み、守られる。
あの言葉は嘘ではない。
あのアジア人は、一体何者だろう。
今までに感じたことのない、他人への純粋な興味にかきたてられて、ドラコはコーヒーテーブルの上に置かれたままになっている聖書を手に取った。
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