恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1−3
どれくらい眠っていただろうか。
気が付くと、暖炉で薪の燃える音が心地よく、全身が温かく気持ちよかった。
サンルームの窓に打ち付ける雨の音から、まだ天候が回復していないことが知れたが、外は明るくなっていた。
腕時計を見るために少し体をよじっただけで、右肩に強い痛みが走った。野戦病院のような手荒い応急処置を受けたばかりなのを思い出す。
――昼の12時。
背中と足元に置かれている湯たんぽがまだしっかり温かいのは、きっとあの女、アガサが何度かそれを交換をしてくれたからだろう。
それにしても、あれが頭のおかしな女であることは間違いない。ジャーマンカモミールとかジンジャーブレンドとかの怪しげなお茶を飲ませてきたことから察するに、新手のヒッピーか何かだろう。
それに、大真面目で天使を見たとも言っていた。妄想を見る病気なのかもしれない。
いずれにしても、長居は無用だ。
ソファーのうえで上半身を起こすと、ズンと重たい痛みに突き上げられて思わず悪態が漏れた。それに、頭がくらっとして軽い吐き気がする。
広間の方でアガサが誰かと話しているのが聞こえた。
アガサがどこの国の出身かは不明だが、アジア系なのは間違いない。でも、ニューヨーク育ちのドラコの耳にも違和感のない綺麗な英語を喋っているから、彼女はもしかするとアメリカ生まれだろうか。
「大変な時に有難う、ローラン。じゃあ、また教会で」
話し相手はすぐに帰っていったようで、アガサはそれから真っすぐにリビングに入って来て、ドラコが起きているのに気づくと嬉しそうな顔をした。
デニムのパンツに、フード付きのトレーナー。昨晩見たときにも思ったことだが、飾り気のない地味な女だ。
ドラコは、目の前に近づいてくるアガサを無表情に見つめながら、アジア人に多く見られる凹凸の少ない幼い容姿を一瞥し、どことなくお節介な母親っぽさがあるから、もしかすると意外に歳はいっているのかもしれないな、とも思った。
「気分はどう?」
「良くない」
アガサが体温計を差し出してきたので、ドラコはそれを受け取って右脇の下に入れた。
「誰が来てたんだ」
「教会の友人。彼は警官で、地域の巡回パトロールをしているんだけど、昨晩はすごい嵐だったし、ギャングとマフィアの抗争があって、ニューヨークマフィアのボスが逃走中だから、くれぐれも戸締りには気を付けるようにって心配してくれて、様子を見に来てくれたの。ところであなた、ボスだったの?」
ドラコは深々とソファーの背もたれに身をあずけて、気怠そうに応じた。
「アルテミッズファミリーはイタリアに本部をおく組織だ。世界中に支部があって、俺はニューヨークを任されてる。だから、ニューヨークではボスだが、ファミリーとしてはただの幹部だ。もっとも、この先も生きていれば、の話だが」
「ギャングから命を狙われているの?」
「いいや、ファミリーから」
「どうして?」
「次から次に質問をしてくるなよ、複雑なんだ。だいいち、それを聞いてどうするつもりだ」
「正しいと思うことをしたんだと思うけど、あなたはとても傷ついているように見えるから、気になるのよ。どうしてギャングを相手にする必要があったの?」
母親がいたら、こんなふうなのかもしれない。と、ドラコは想像した。
喧嘩をしたら、そのことを咎めながらも、どうしてそうしたのかを聞き出そうとしてくるんだろう。
きっと何を言っても怒られるんだろうし、何を言っても見捨てられはしないだろう。心底面倒くさくて厄介なのに、ホッとさせられる存在。
母親が自分にもいたらいいのに、と思うこともあるが、目の前のこの女は厄介だ。
ドラコが質問に応えるまでいつまでも待ち続けるつもりのようなので、ドラコは仕方なく説明することにした。
「アルテミッズファミリーの支部はロスにもあって、そこを仕切ってた俺の馴染が組織を抜けたんだ。別に裏切りじゃない。ただ、堅気になって生きていきたいらしかったんだが、ロスの組員はそれを許さず、地元のギャングをさしむけたわけだ。だから俺が返り討ちにした。形はどうあれ、ファミリーの意向に逆らったわけだから、次は俺が狙われると思う」
ドラコの淡々とかいつまんだ話を、ただ黙って聞いていたアガサは、それから細部をいくつか質問しただけで、動揺も感動も恐怖も示すことはなかった。
納得するまでドラコから聞き出したあとは、暖炉の横の本棚から一冊の分厚い本をとってきて、それをドラコの前のコーヒーテーブルの上に置いた。
「友人を助けて逃がしたことは、正しい行いだと思う。だけど、殺人をしてはいけないと、この聖書に書いてある。だから、あなたがもし悔い改めの祈りをする気になったら、この聖書の上に手をおいて、二人で一緒に神に祈りましょう」
ドラコは言葉を失い、ぽかんとして目の前に立ちはだかる修道女のようなアガサを見上げた。
長く裏社会で生きてきたドラコには、他人の嘘を敏感に察知する能力が備わっている。だからドラコには、アガサが大真面目で確信をもって神や聖書のことを語っていることがわかったのだが、それがドラコにはあまりに突拍子もないことに思われた。
ピピピっと体温計が鳴って、見ると、ドラコの体温は38℃を超えていた。
途端にアガサの表情が修道女から鬼の形相に変貌して睨みつけてきた。
「ほらやっぱり、濡れたズボンを脱がないから風邪をひいたのよ。いますぐそれを脱いだほうがいい!」
そう言って、間髪入れずにアガサがドラコの腰元に手を伸ばしてきたので、ドラコはそれを払いのけた。
「もうほとんど乾いてるからいいって。必要ない。やめろって、もし触ったら、セクハラで訴えるぞ。あ、イテテテ……」
アガサに腰のベルトを掴まれたドラコは、肩に激痛が走って大袈裟に身もだえした。
昨晩は肩をスプーンで焼かれても我慢していた大の大人が、今は涙目で本気で痛がっているのを見て、アガサは困惑した。
「呆れた、生死がかかっているというのに。……ティーンエイジャーのほうがまだ言うことをきくと思うわよ」
アガサはいったん手を放して諦めたようだったが、くるりと踵を返すと、ぷりぷりして広間に出て行った。
「昼食をつくるから、寝ていなさい。まずは何か食べないと本当に死ぬわよ! あなたの濡れたパンツの件はその後で話し合いましょう」
遠くの方でアガサが叫んでいるのが聞こえてくる。
無理に動かした肩の痛みと、およそ今まで関わり合ったことのないお節介な女にやりこめられた心労で、ドラコはまた力なくソファーにくず折れた。
体さえ動けば、今すぐ逃げ出すところだが、今は貧血で立ち上がることもできなさそうだ。
――神よ、もしいるなら今すぐ俺を殺してくれ。あの女には耐えられそうにありません。
ドラコは、生まれて初めて神に祈った。
◇
次のページ1−4