恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1−2
アガサが扉を空けると、そこに天使が立っていた。
それはアガサに神の富を預けに来たのと同じ天使で、暗闇の中でほとんど光のように見え、強風や雨の影響を受けることなく、明らかにこの世とは異なる次元に静かに立っていた。
天使が言うには、もうじきここに助けを求めてやってくる者がいるから、その者を受け入れなさいということだった。
彼に必要なものを与え、彼と話をして、彼が不安を感じないように知恵と心を尽くすように、とも言った。
また、アガサ自身が彼を恐れるかもしれないが、彼はあなたに手出しすることはできないから、恐れる必要はない、ということを天使は最後に強調して言った。
聖書の中に、悪魔が天使の姿に化けて人を騙し、死に追いやった話が記されている。
その記載を思い出したアガサは、このときも天使の衣の裾に目をやった。偽りの天使は衣の裾に影があるからだ。
だが、目の前の天使に影はなく、天使は光の中で翼を広げたかと思うと、音もなく姿を消した。
汝、隣人を助けよ。
今夜、父なる神はアガサに、善きサマリヤ人になることを求めておられるようだ。
アガサはすぐにポットに水を汲んで、それを暖炉の火にかけた。そして清潔で乾いたタオルをたくさん用意した。
まだ見ぬ来訪者のために玉ねぎとソーセージのスープをこしらえて、それをキッチンの薪ストーブの上で保温したころ、時刻がそろそろ深夜12時を回ろうとしていることに気づいて、アガサは防水の懐中電灯を手にした。
ドアベルは鳴っていないが不思議と、来訪者がもう戸口まで来ているような気がしたのだ。
だが、玄関のドアを開けてもそこには誰もいなかった。戸口から身を乗り出して、暗闇と嵐の中に懐中電灯を照らして見たが、人影は見当たらない。
「到着が遅れているのかしら。どこかで道に迷ってないといいけど」
強風にもっていかれそうな扉をなんとか閉めて振り返った瞬間、稲光が広間全体を白く染めた。その時、庭に面するバルコニーの窓の外に黒い影が浮かび上がったのを見て、アガサはにわかに悲鳴を上げて懐中電灯を落とした。自分でも驚くほど大きな声が出たので、そのことにも驚いたほどだ。
シルエットが真っ黒だったので、一瞬、死神のような得体のしれない存在を連想してしまったのだが、落ち着いてみると、そこに立っているのは全身ずぶ濡れの黒いスーツの男だった。ひどく青ざめた顔をしているので、それが本当に死神のようで不気味に感じられたのだが、なぜか男の方でも、こちらを驚いた顔で見ているのだった。
アガサはすぐに冷静になって、バルコニーの窓を開けた。
「ごめんなさい、てっきり玄関から来るとばかり思っていたから、すっかり驚いてしまって」
男が打ちつける雨と強風の中で何も言わずに立っているだけなので、アガサは腕をつかんで中に引き入れた。その時、男のスーツの腰元が少し膨らんでいて、銃のホルスターをつけているのが見えた。
――恐れるな。
天使の言葉が脳裏で反芻される。
風と押し合いながらガタガタ揺れるフランス窓をなんとか閉めると、広間に静けさが戻った。
男の足もとに早くも水たまりができていることを見て取って、アガサはリビングの暖炉で温めておいた乾いたタオルを男に差し出した。
「もう少し早くくると思ったんだけど、ここにはどうやって来たの?」
男はアガサの質問には応えず、逆にこう返してきた。
「俺を誰かと勘違いしているのか?」
「いいえ。あなた、名前は?」
だが、男はこの質問にも応えなかった。
「私はアガサよ。ここは神の家。とにかく濡れた服を脱いで、暖炉の前で休むといい。それと、腰につけている拳銃は預かります」
アガサはそう言って、ピクニック用の藤の蓋つきバスケットを差し出した。
「ここにいるのは、お前一人なのか」
「ええ、私一人。神の臨在と、天使をのぞけば、だけど」
男が無表情なので何を考えているのか分からなかったが、特に抵抗するでもなく、男は素直に腰から銃を抜いて、それをアガサの持つバスケットの中に入れた。
アガサはこれまで銃を近くで見たことも触ったこともなかったので、手の中のバスケットに想像以上の重さがかかったことに内心ヒヤリとした。
「それだけでいいのか?」
男はそういうと、左脇のホルスターから1つと、さらに右の足首から1つの銃を取り出して指先にかけ、アガサに見せた。
「3つも持ってたの? 戦争にでも行ってたわけ」
思わず口をついて出たアガサの嫌味ごとを、男は何事もなく無視した。
「他に危険なものは持ってない?」
念のための確認だったが、男は背広の内ポケットから折り畳みナイフを取り出すと、慣れた手つきで刃先を出して見せてきた。
「これも危険なものに含まれるのかな」
「預かります。ここでは林檎の皮を剥くときも、缶詰を開けるときも、そういうナイフは使わないのよ」
「手紙の封を切るためのものだよ」
面白くもなさそうに男はそう言うと、ナイフを折りたたんでアガサのバスケットの中に入れた。
「ついて来て、リビングに案内する」
アガサの城の玄関ホールはちょっとした広間になっていて、庭に面する片側一面がフランス窓のバルコニーになっている。
玄関を入って右手前にサンルーム付きのリビングがあり、玄関から入って左奥にキッチンとダイニング、広間正面の奥には扉があって、その先は温室に続く廊下が続いていた。
広間の中央右手には二階に続く大きな階段がある。この階段はアガサが城を買い取ってから改修したもので、マホガニーの手すりとその色に合わせて敷かれた暖色の絨毯が、クラシカルで温かな印象を与えた。
「へえ、見違えたな」
注意深く室内を見回していた男が呟いたので、アガサは不思議に思った。
「前にもここに来たことがあるの?」
「ここがこんなふうになる前に、何度か寝床にしたことがあった。こんな廃墟を誰も買いとるはずないと思っていたんだが、……変わり者もいたもんだな」
と、男は迷惑そうにアガサを見た。
リビングでは暖炉が赤々と燃え、それを囲むように並べられたソファーの1つに乾いたタオルが敷き詰められていた。傍らには湯たんぽが用意されている。
まるで彼がここに来ることを予見して、準備されているようだったので、男は眉をひそめた。
「俺がここに来ることを、誰かから聞いたのか」
その声色に警戒の気配があることに、アガサは気づいた。彼が不安を感じないように知恵と心を尽くすようにと、天使が言ったのをアガサは思い出した。
「実はあなたがここに来る少し前に天使が来て、助けの必要な人が来ると知らせてきたの。それで、私はあなたを待っていたのよ」
アガサは自身の強い信仰心から確信して事実を説明したつもりだったが、男の方は一瞬言葉を失って、アガサのことを不躾に見つめた。
「それが本当なら、今すぐ銃を返してもらいたいんだが」
アガサはくすりと笑った。
「天使に銃は効かないわよ。あなたがもし神を信じていないなら、想像もつかないでしょうけれど、神は本当にいて、天使も存在するの。さっきも言ったように、ここは神の家よ。今夜あなたはここで休み、守られる。聖書の中に、善きサマリヤ人というお話があってね、今夜、神は私にそのようであることを望まれているようなの。だから心配しなくていいわ、警察には通報しないから。……さっきニュースで見たのよ。あなた、ギャングとやりあったニューヨークのマフィアでしょう」
少しの沈黙の後、男は小さく頷いた。
「……この城に電話があったとは驚きだな。携帯だって圏外だろ」
「ここに越してきたときに、電波塔を山に立てたの。ソーラー蓄電方式だから多少不安定ではあるけどね。もしあなたの名前を教えてくれたら、Wi-Fiのパスを教えてあげる」
「ニュースを見たんじゃないのか」
「途中で消したから名前は見なかったわ。あなたのことを、何て呼んだらいい?」
「ドラコだ」
「Wi-Fiのパスはそこのコルクボードに貼ってあるから」
アガサは親指でリビングの一方の壁をさすと、そのまま広間の方に出ていこうとした。
「どこへ行くんだ?」
「キッチンでスープを温めてるの。お腹がすいているんじゃないかと思って。あなたは早くその濡れた服を脱いでしまってよ。さもなきゃそこらじゅう水浸しになっちゃう」
数分後、アガサが盆にのせた夜食と、片手にゲスト用のバスローブを手に戻ってくると、ドラコはまだ濡れた格好のままソファーに座っていた。
言うことを聞かない子供に母親が苛立つのと同じように、アガサはややムッとしながらも、男が肩からかけているタオルが赤く滲んでいることに気づいてハッとした。
「怪我をしてるのね。ちょっと見せて」
ドラコが無反応なので、もしかすると触ることを嫌がられるかもしれないと思ったが、恐る恐る手を伸ばしてアガサがドラコの襟元に手をかけて背広を脱がしても、ドラコは抵抗しなかった。背広とシャツの右肩部分が裂けて、焦げたようになっている。
「少し寒いな。もう、眠りたい」
そう言ったドラコの顔はますます蒼白だった。
白いワイシャツの右半身が真っ赤に染まっていて、出血はかなり多いようだった。
「救急車を呼ぶかわりに、もし呼んでほしい闇医者がいるなら、意識を失う前に番号を残しておいて」
「あいにくロスにそんな知り合いはいないな」
ドラコの声にはあまり元気がなかった。だが、その様子には恐怖も焦りもなかった。まるで死ぬことを覚悟しているみたいに。
アガサは慎重な手つきで、ドラコの胸元からネクタイピンを外し、黒のスリム・タイをほどいてから、シャツのボタンをはずしてゆっくりとそれを脱がせた。
手に触れるドラコの肌が氷のように冷たい。
銃弾は右の鎖骨下から入り、肩甲骨の上を抜けたようだ。弾道が内側から皮膚の下の脂肪層までを引き裂いて、二頭筋につながる動脈を傷つけたのだろう。
「鎖骨の下に大きな動脈があるでしょう? それが傷ついてなくてよかった。骨も無事みたいね。でも肩甲骨から二頭筋につながる血管が傷ついているみたい、ちょっと、ここを押さえておいて」
清潔なタオルを丁寧に折りたたんで傷口にあてがい、それをドラコに押さえるように命じてからアガサは足早にリビングを出ていき、ほどなくして救急箱を持って戻って来た。もう一方の手には鉄製のスプーンを持っている。
「止血ガーゼと包帯がある。けどその前に、その出血を止めないと死んじゃうかも」
「それは親切にどうも。……こういうことをやったことがあるのか?」
暖炉の火の中にスプーンを入れて、じりじりとそれが赤くなるまで待っているアガサを見て、ドラコは少し怪訝な顔をした。
「ないわよ。でも大学で生物学を専攻したおかげで動物の解剖をしたことがある」
「……なるほど」
「すぐにすむから、動かないで」
有無を言わせず、アガサはドラコの肩の傷口を開き、赤く熱したスプーンをねじこんで出血部にあてがった。
ジュっという音がして、肉の焼ける香ばしいにおいがたちこめた。
死ぬほど痛いだろうに、ドラコは少しも声を上げずにそれを耐えた。
「よし、出血が止まったわ。生理食塩水で傷口を洗うから、そのままジッとして」
途端に硫酸でもかけられているようなビリビリとする痛みが走ったが、ドラコはそれも耐えた。
それから傷口に止血ガーゼがあてがわれ、その上から再生を促すという保湿ゼリーを塗り込まれた後、最後に傷口が開かないように丁寧に包帯をまきつけられた。
「縫わずに済んで本当に幸運だった」
と、アガサが胸をなでおろすと、ドラコも
「熱したスプーンを肩に押し込まれた【だけ】ですむとは、驚きだよ」
と返した。
一連の手当てがすむと、今度はドラコがぶるぶると震え出した。
「濡れたズボンを脱いだほうがいいと思う」
「悪いけど、神の家でパンツを下ろす気はない」
そのままでは風邪をひいてしまうとアガサが何度説いてもドラコが言うことを聞かないので、仕方なく、アガサは乾いたタオルをさらに持ってきた。
食欲はないらしく、ドラコはアガサの作った夜食を少しも食べなかった。
せめて鎮痛効果のあるジャーマンカモミールと、体を温める効果のあるジンジャーのブレンドティーを飲ませようとしたが、これもドラコは断って、ただアガサがしつこいので、一口だけ飲んだだけだった。
今やドラコの体は麻痺状態で、お茶の味はほとんどわからなかったし、寒さすらもすでに感じなくなっているのに、体の震えだけが止まらない。
アガサが毛布でドラコの体をくるみ、背中と足元に湯たんぽを置いてくれたのをうっすら覚えているが、ドラコはそれから抗うことのできない深い眠りに落ちていった。
◇
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