恋に落ちたマフィアと、アガサの古城 1−1
彼女の名前はアガサ。日系のアメリカ人だ。
ニューメキシコ州の田舎で生まれたアガサは、中学卒業後に両親の仕事の都合で日本に移住し、そのまま高校時代と大学時代を日本で過ごした。
両親は敬虔なキリスト教徒で、彼女自身も神を信じていたが、大学院の博士課程修了を目前にしたある時、彼女は天使から不思議なお告げを受けた。
――多くを受けた者は、多くを与えなければならない
と。
その時からアガサは、期せずして神の富を預かる者になった。詳しくは語れない。
大学を卒業したアガサは、アメリカのカリフォルニア州工科大学のバイオテクノロジー研究室に研究員としてのポストを得た。
最先端のバイオラボだ。
幼い頃から科学への飽くなき探求心を抱く彼女は、生物学と化学の全般に鋭いひらめきを持っていた。
だから、これから自分の興味と関心を最大限に発揮できる環境に身を置けたことをアガサは喜んだ。
しかし、人類に貢献する研究に集中することができる、と喜んだのもつかの間。彼女は希望する研究チームに加えてもらうことはできなかった。
日本から帰国したばかりの日系アメリカ人という肩書が邪魔をしたのだろうか、と、アガサは思った。
彼女が与えられたプロジェクトは「地球温暖化と新しいリサイクル機構の開発」というものだった。
もともとアガサが希望していたのは、 生物テロ対策や、非接触型電流機構の開発、あるいは遺伝病に対する骨髄幹細胞の移植治療の研究に携わることだった。
もちろん、地球温暖化やリサイクルについて考えることも、人類にとっては大切なことだろう。
だが、アメリカがパリ協定から離脱したことからもわかるように、地球温暖化を懐疑的に考える科学者は多く、創成来の長い歴史で見れば、そもそも地球が本当に温暖化しているかどうかは怪しいものだった。そのうえリサイクルとは! これはすでに使い古されたテーマで、民間企業や個人レベルで取り組める一般化された問題なのだから、わざわざ最先端のバイオテクノロジーラボが取り組む課題ではないように、アガサには思われたのだった。
後から知ったことだが、このプロジェクトに配属された研究員はアガサ一人だけだった。
他のプロジェクトはベテランの研究員が4人から5人はチームを組んでいて、さらに専門技術を持つテクニカルスタッフを最低でも4人はつけていた。
対して、アガサのプロジェクトには大学院生のアシスタントが一人つけられただけで、それが何ともチャラいパンクボーイなのだ。
まさかこんな扱いを受けるとは想像もしていなかったし、与えられている予算が他のプロジェクトの25パーセントにも満たないことから、誰も「地球温暖化と新しいリサイクル機構の開発」に期待していないことが窺い知れた。
採用試験の成績が優秀だったからとりあえず採用したけれど、日本から来た新人研究員には期待していないから、とりあえず適当な仕事を割り振っておけ、という魂胆が見え見えだった。
そのようなわけで、着任早々ガッカリしたアガサだったが、先に述べたように、彼女は敬虔なキリスト教徒だ。
持ち前のの信仰心でなんとか気を取り直し、「これは神が私に与えられた使命なのだ」、と自分を戒めて誠実に仕事に向き合うことを心に決めた。
さて、大学の仕事とは別に、アガサにはもう一つの仕事があった。
それは神がじきじきにアガサに命じた仕事で、彼女はそのために惜しみなく神から預かった富を用いた。
そして、ロサンゼルス郊外の山奥に忘れ去られたように建つ、石造りの古い城を手に入れた。ここが、アガサの住まい兼、神の仕事場になる。
だが、実際にそこに住むまでにはいくつか大がかりな改修が必要だった。
崩れた屋根を直し、割れた窓ガラスを交換し、雨風で腐った階段の手すりを造り直さなければならなかった。
おまけにすっかり野生にかえった庭の植物たちが、城全体を食い物にしようとしていたので、人工建築への侵略を防ぐためにそれらを適度に除く作業も必要だった。
幸いにも地元業者が良い仕事をしてくれ、アガサ自身も週末ごとに日曜大工にいそしんだ甲斐あって、半年ほどで城はなんとか人が住めるまでになり、アガサはロスのアパートメントから、マウント・グロリアの山奥の古城に引っ越して来ることができた。
引っ越しを終えてからも、アガサは煤やカビで汚れた床を拭き、壁には漆喰を塗って、黒いお化け屋敷のような城を、少しずつ心安らぐ環境に整えていった。
さらに趣味のガーデニングを活かして、庭には薔薇や野菜やハーブを植えた。
アガサが古城に住み始めて数カ月がたった12月のこと。その夜は風が強く、滝のように雨が降っていた。
地中海性気候のロサンゼルスは冬でも最低気温が10度前後だが、その夜は珍しく、アガサの城があるマウント・グロリアでは吐く息が白くなるほど冷え込んだ。
アガサは暖炉に薪をくべて勢いよく炎を燃え上がらせていた。
テレビでは暴風警報と洪水警報のニュースがひっきりなしに報じられていたが、その合間に速報が流れた。
―― ニューヨークマフィアとロサンゼルスのギャングがアルファベット地区で撃ち合いとなり、ギャングは死亡。
『周辺にお住いの方は戸締りを強化し、不要な外出を避けて、不審人物を発見した場合はただちに警察にご連絡ください』。
特にギャングが絡む抗争では、報復の銃撃戦が起きて一般市民が巻き込まれることが多い。
そうなる前に警察がマフィアの行方を追っているのだろうが、この嵐だ。捜索するのも大変だろう。
しかも、悪天候のせいで停電が起きている地区もあり、街はにわかにパニックになっている。
「神のご加護がありますように」
逃走している男の顔写真が画面に写しだされたが、それを観るまでもなくアガサはテレビを消した。
暖炉の前のソファーに深々と沈み込んで、アガサはココアを飲みながら耳を澄ました。
古城に吹きすさぶ風の金切り音はここに越してきて以来の悲痛な叫びをあげて、木々の枝葉もゴーゴーと、あるいはバサバサと呻いている。
こんな日に外に出る気にはとてもならないし、人里離れた山奥に誰かが訪ねて来れるとも思えなかった。
コーヒーテーブルに置いたキャンドルが隙間風で揺れていた。
建物があまりに古いので、アガサの城には街からの送電線がなく、そのためにバイオマス燃料を用いた自家発電を行なっている。
研究の一環で試作段階のバイオマス燃料機構を設置していることもあり、電力供給は不安定だ。
だからなるべく電気を節約して、今夜もキャンドルを灯しているのだ。
なんてことはない。いざとなれば、ガス式のランタンや、電池式の防水懐中電灯もある。
雨風をしのげる屋根と壁があれば、大抵はなんとかなるものだ。
ただ、山奥の古城に住むには多少の不便はあった。
外灯がないから夜は真っ暗で、マウント・グロリアの麓からアガサの城までの山道は、車一台がすれ違うのがやっとという細さだ。
麓までは車で15分、一番近いガソリンスタンドまでは片道30分ほどかかるし、職場の大学までは1時間以上もかかる。
だが一方で、アガサの城は地球温暖化とリサイクルを研究する科学者が住むに相応しい機関を備えていた。
生活水には地下水と雨水を利用していて、下水はバイオマス槽に送られたあと、その熱でセントラルヒーティング用の蒸気となって放出される仕組みだ。
庭には手動ポンプ式の井戸があるので、草花や野菜を育てるのに利用できる。
アガサはゆくゆくは、生活用のガスを電気と同様にバイオマス燃料から補うことを計画していて、機関の効率化を検討中だ。
今はまだ能力が足りないので、ガス会社から定期的にガスボンベを運んでもらっている。
越してきたばかりの頃に、一度ボンベを切らしてしまったことがあって、冷水シャワーを浴びたこともあった。
以来、もともと城に備わっていた地下の石炭ボイラーをクリーンアップして、いざというときにお湯を沸かすことができるようにした。
キッチンには、電気で動くオーブンと、薪ストーブの両方を備えている。
仮に都市のインフラが途絶えたとしても、アガサの古城での暮らしに、ただちに影響を及ぼすことはないだろう。
古城での暮らしには手間がいったが、アガサはむしろこの孤独で不便な暮らしを楽しんでいた。
手間のかかる生活はひらめきと活力をもたらしてくれるし、静寂は彼女の心を癒したからだ。
しかし、今夜はやけに冷え込むようだ。
アガサはソファーにかけておいたニットのブランケットを肩からすっぽりかぶると、火かき棒で暖炉の薪を崩して、その上に新しい薪をくべた。
炎が爆ぜて火の粉が舞い上がったとき、城の戸が叩かれる音が聞こえた気がしてアガサはビクリとして手を止めた。
◇
かつての仲間に組織から刺客が差し向けられたと知って、ドラコははるばるニューヨークからロスまでやってきた。
足を洗って堅気の女と結婚した幹部の一人を、組織は裏切者とみなしたのだ。
かつての仲間を始末するのに、自分たちの手を汚さず、まだ子どものギャングを差し向けるとは、なんて卑劣な奴らだ。
――手を出すな、引き下がれ。
ドラコが伝えたメッセージはシンプルなものだった。
だが、予想していた通り話し合いで解決を見ることはなく、血の気の荒い一人が銃を手にすると、若いギャングたちはドラコ一人を相手に一斉に撃って来た。不本意ではあったが、こちらもやり返すのに躊躇はなかった。
そうしてドラコの弾倉は空になったが、その場にいた敵の全員を始末した。
組織を抜けたかつての仲間は、新妻を連れてすでに遠い別の街に逃げおおせただろう。
ガキの頃から同じ裏社会で育った、血の繋がりはないが兄弟のような奴。普通の暮らしを夢見続けた馬鹿な男だ。
――夢見た通り幸せになればいい。
裏切者を逃がしたかどで、きっと次に狙われるのはドラコ自身だろうが、知ったことではない。
ドラコの車は裏社会御用達の高級クラブの地下駐車場に停めたままになっている。店の主人とは個人的に【懇意】にしているので、おそらく警察に見つかることはないだろう。
地元警察が大騒ぎしているせいで、今は車をとりに街に戻るより先に身を潜めなければならない。
こんなときに、なんて忌々しい嵐だ!
この山道を登っていけば廃墟になりかけた古い城があるはずで、そこで一晩しのげるはずだ。
ドラコは強風吹きすさぶ中、濡れた細道に足をとられながら険しい山道を影のように登って行った。
全身ずぶ濡れで酷く寒いのに、右の肩から生温かいものが流れ落ちて、そこだけが熱かった。
多分、かすり傷だが、血が止まらない。
意識がいつもより遠くにある気がして、気を抜けば手からこぼれ落ちてしまいそうだった。
◇
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