新婚生活の幕開け(1)
―― 俺には帰る家が他にない。
ダイナモン魔術魔法学校を卒業した朱雀は、久しぶりに故郷に帰ってきた。
荷物は、肩に担いださほど大きくもないバックパックが一つきり。
朱雀の実家があるここロコモコ山は、闇の高円寺夫妻を生み出した場所として人々から怖れられ今や誰も近づくことのない辺境の地と化している。
高円寺家はその山頂に、孤高とそびえ、煤まみれでどこもかしこも真っ黒なその屋敷は、さながら化け物の住処のような様相を呈している。草木が蔓延り、周囲には獣道さえない。
―― それでも、雨風をしのげて寝起きできるなら十分か。
鍵のかかっていない扉を開けて生まれ育った我が家に入ると、朱雀は埃とカビ臭さでむせ返りそうになった。
吹き抜けの広間にぽつりと置かれた食卓と、倒れたままになっている椅子は、あの日のままだ。
もう何年も火が燈されていない暖炉には古い蜘蛛の巣が張っていた。
どこもかしこも代り映えのしない光景に思える。
ほんの少しだけ懐かしさを覚えなくもないが、家に帰ってホッとするという気持ちとは程遠く、むしろここにいて大丈夫だろうかという不安感が募ってくる。
両親が闇の魔法使いに変貌した場所――それは家族団欒が行われるはずの居間として使われていたこの広間の、ちょうど暖炉の前だった。もっとも朱雀は、生まれてこのかた平和な家族団欒というものを経験したことがない。ここで行われていたのは……修行と沈黙と懲戒だ。そして朱雀が大切にしていたイーゴも……。
――イーゴ・テサラム 僕の宝物。
大切なペットのドラゴンを父親に殺されて以来、朱雀は奪われることがとても怖い。大切にすれば悪い運命がそれを奪っていくのではないかと、心のどこかでいつも怖れている。
「まったく、陰湿な場所だよここは」
油断すると知らず知らずのうちに負の感情に吞み込まれてしまいそうになって、朱雀は優のことを思った。
友人たちを通して、優が無事に聖ベラドンナ女学園を卒業したという知らせが朱雀の耳にも届けられていた。
優が大学に進学して、卒業するまで、たった4年。
その後、朱雀は優と結婚する約束をしている。
ここが俺の家だ。これからは優と二人でここに暮らしていくんだ。
朱雀は遠く離れた人間界にいる優に思いを馳せて、自分を奮い立たせた。
――たった、4年だ。
「長いな……」
落胆した朱雀の声が、湿った静けさの中に重く吸い込まれて消えた。
バックパックを肩から落として、さてどこから手をつけたものかと、朱雀は屋敷の中を見回した。
◇◇◇
モアブ省上級魔法公安部に配属された朱雀は、ほどなくして忙しい毎日を送るようになった。
おかげさまでロコモコ山の屋敷にはほとんど寝に帰るだけで、朱雀はいつも着の身着のまま、風呂にも入らず何日も激務に明け暮れては、食事も生存に必要な最低限のものを効率的に摂取するだけの有様で、贅沢や娯楽とは無縁の毎日が風のように過ぎ去っていった。
時々、親友の空が心配して様子を見に来るほかは、朱雀のプライベートに他人を寄せ付ける隙はなかった。誰とも会わず、どこにも出かけず、たまに休日があると泥のように眠って1日が過ぎた。
「およそ真っ当な暮らしぶりを送っているとは言い難いな」と、空が苦言を呈しても、朱雀の生活ぶりは4年間変わらなかった。
一方で、もともと優れた魔法能力を持ち、頭の回転が早く明晰で勘も鋭い朱雀は、ダイナモンにいたときと同じように公安部でも高く評価され、その活躍は目覚ましかった。仕事仲間たちからの信頼も厚く、4年が経過する頃には朱雀は自分の部隊を指揮するまでになっていた。
朱雀は仕事にやりがいを感じていた。
力を発揮し、認められるのは嬉しくもある。
何より、仕事に没頭すればするほど優を待つ歳月が早く過ぎ去るようで、それが朱雀にとっては救いだった。
朱雀も年頃の男だ。離れたところにいる恋人に焦がれる気持ちをただ鎮める日々は、苦痛でしかなかった。
寂しい、会いたい、ずっとそばにいてキスがしたい。そう思わない日はない。
この4年間、優とは手紙で連絡をとりあっていた。会えたのはたったの3回。
毎年の優の誕生日に仕事を休んで優に会いに行くことだけが朱雀の楽しみだった。
人間界にポータルを置くことは禁止されているので、山形の優の家まで半日間も空を飛んで行かなければならなかったが、それでも、その日は朱雀にとってきまって1年の中で最も幸せな日になるのだ。
しかし、自分の部隊を持つようになってから忙しさに拍車がかかり、今年は優の誕生日にさえ会いに行くことが叶わなかった。
そのせいか、ここ最近の朱雀はなんだかずっと体調がすぐれない。
ちょっとしたことでイライラするし、気持ちが落ち込みやすい。
寝ても覚めても、味も香りもない毎日が押し寄せてきて、気怠るさが拭えない。
誕生日に会いに行けなかったとき、優が泣いたり、喚いたり、怒ったりすれば朱雀の気持ちも少しは晴れたかもしれない。だが優の反応は驚くほど淡泊なものだった。
「仕事が忙しいのは流和から聞いて知ってる。私のことはいいから、体を壊さないように、頑張ってね」 と。
そんな妙に聞き分けのいい返事が送られてきて、朱雀はがっかりした。
本当は、会えなくて寂しいと泣いて欲しかったし、無理でも山形まで飛んで来いと我儘を言って欲しかったのだ。それに久しぶりに優の怒った顔が見たかった。
あれからもう半年以上か。辛い日々はもうじき終わる。
朱雀は暖炉の前に座って、空中から一通の手紙を取り出した。
予定通りに大学を卒業して、優がロコモコ山に引っ越してくる日取りを朱雀に知らせてきていた。
その手紙は1カ月前に送られてきたもので、もう何度も読み返しているから内容は頭に入っているのだが、そこに書かれている文字を見ると優を近くに感じられる気がした。
そのとき、不意に暖炉の炎がゆらめき、小さな封筒が火の粉とともに飛び出してきた。
―― 高円寺 朱雀さま
足元に落ちたその筆跡を見て、差出人を見なくても誰だかわかる。
朱雀はすぐにそれを拾い上げ、封を開いた。
挨拶は省略されて、手紙はいきなりこう書きだされていた。
『4年間学んで驚くべき発見をしたの! まだはっきりとは言えないけど、きっと間違いないと思う。そっちに着いたら証明できると思うのだけど、しばらく時間を頂戴ね。朱雀にははっきりしたことが分かってからサプライズするつもり!』
朱雀はわずかに眉をひそめた。
―― サプライズすると事前に告知したそれは、果たして本当にサプライズになるのか?
とにかく、優が何かを見つけて興奮しているらしいことを朱雀は推し量った。
『ところで新婚初夜には何が食べたい? 朱雀が食べたいものを、なーんでも作ってあげるよ! ま・か・せ・て!』
今度は、思わず笑みがこぼれる。
朱雀は優が作った爆発スコーンを食べて火を噴き、一瞬のうちにダイナモンの食堂を全焼させたことを思い出した。もうかなり昔のことのようなのに、あのときのことを朱雀は鮮明に思い出せる。
あのとき朱雀がスコーンを勝手に食べたので優はすごく怒って、そうかと思えば今度は火を噴いた朱雀を見て驚いた顔をしていたっけ。百面相みたいにころころといろんな表情をする優が、今も触れそうなほど記憶の中にはっきり見える。
そういえば朱雀は、あれ以来優の作った食べ物を何一つ口にしてはいない。手紙によると、この4年間で優は料理の腕をそれはもう、めきめきと上げたらしい。もちろん、朱雀はそれを疑いはしない。今や優は炎の力を完全に制御できるから、きっとまともな料理が作れるようになっているんだろう。
―― 新婚初夜に食べたいものか。なんだろうな……。
正直、食欲がわくとは思えなかった。
―― 食事なんか省いてベッドに直行したいなんて言ったら、あいつ怒るだろうな。
最後に、手紙はこう締めくくられていた。
『出発の日にポータルまで迎えに来てくれますか? モアブ領域の最初のポータルまでは一人で飛べそうなんだけど、その先はちょっと自信がないの』
無理もない。優は朱雀の家までの道順を知らないし、それにモアブ領域のポータルはあちらこちらに隠されているから、初めて使用する優にはガイドが必要だろう。
朱雀は羽根ペンを取り上げて、すぐに返事を書いた。
―― 優の家まで迎えに行くよ。暖炉から荷物を送るのも手伝うから、待っていてくれ。
羊皮紙を丸めて暖炉の火にかざすと、火の粉が舞い上がってそれは消えた。
ほどなくして、また暖炉から小さな封筒が飛び出してきた。
『お手間をかけてしまってすみません。それでは、よろしくお願いします』
―― 何をかしこまっているんだか。
遠慮なく俺を頼れよ、お前の夫になる男だぞ。 と、 朱雀は無意識に息を吐いた。
「あと、3日か。……長いな――」
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