新婚生活の幕開け(2)






 優が引っ越してくる日の朝、朱雀は日が昇り始めるより先にロコモコ山から飛び立った。
期待とほんの少しの不安を胸に、優の待つ山形へと――
 不安を感じる要素など微塵もないはずなのだが、どうしてか、4年間願い続けた瞬間がようやく訪れるかと思うと朱雀には信じられない気がしたし、何か途中で予想外のことが起こってすべてが振り出しに戻るんじゃないかという気もして、ただ漠然と胸が騒ぐのだった。

 吐き出す息が白い。
新芽の季節のロコモコ山の空気はまだまだ冷たい。
深く息を吸い込むと、柔らかいクレヨンで塗りつぶしたような濃い緑の香りが重たく肺に流れ込んできた。大気が湿っている。午後からは雨になるかもしれないなと、朱雀は思った。
 眼前の空には雲一つなく、今まさに朝焼けに染められて明るく薄い青と紫のグラデーションを映し始めている。

――晴れているうちに優を連れ帰れるように、急いだほうがいいかもしれない。



 モアブ領域であれば、魔法使いは自由に空を飛ぶことができる。
 だが、人間界の領域にはいくつかの規制がある。
たとえば都市部の上空や航空機の通るような場所を魔法使いが飛ぶことは、厳重に禁じられている。
 現代社会において、魔法使いの存在は政府によってひた隠しにされているから、魔法使いが空を飛んでいるところを見られるわけにはいかないのだ。
 昔ダイナモンにいた頃、優の杖とブックを取りに朱雀と優が山形まで飛んで行ったことがあったが、あれも本当はまずかった。あの時は朱雀も優も、飛んでいい場所とダメな場所があるということを知らなかったのだ。ただなんとなく、人目に触れてはいけないだろうから、という理由で高く飛んだり低く飛んだりして、たまたま人目に触れずに済んだことが幸いだった。
――もし見られていたら大変なことになっていただろう。
 モアブ界では、杖を取り上げられる厳罰が与えられることになっていた。
 今となっては、日本国政府の魔法界への反応はとても神経質なもので、それもこれも5年前の事件が原因だ。魔女アストラと闇の魔法使いたちがベラドンナで起こした事件や、優を交差点で轢き殺そうとしたときに多くの人が見ている前で魔法が使われたことも、日本国政府が態度を一変させた原因の一つだ。
 おかげで、魔法使いの飛行ルートについては今日も厳重に取り締まられている。
それを取り仕切るのが朱雀の所属する公安部の管轄でもあるし、また、烏によって広域な空を監視することのできる……

 不意に、一羽の烏が上空から朱雀の前に舞い降りてきた。
 その山烏は高速で進む朱雀に並走してくる。
――風の力
 普通の烏はこんなに速く飛べないはずだ。
朱雀がかすかに眉をひそめた、その直後、烏の周囲に時空間魔法が発動し、エメラルドの杖を回転させながら一人の男が飛び出してきた。
 朱雀はそれを一瞥しただけで、何事もなかったかのように前方に視線を戻した。

 使い魔である山烏と術者の位置を瞬間転移する時空間魔法だ。
それは代々、東雲家だけに伝わる特別な魔法で、学生時代には使えなかったのに、今ではすっかりそれを使いこなしているその男は……。
 親友の空は人好きのする笑みを浮かべて朱雀に話しかけてきた。
「よお、時間通りだな朱雀」
 強い風の力が、おそらく無意識のうちに朱雀の浮力を支え、飛行速度が上げる。
「時間通りって、何のことだ」
「優を迎えに行くんだろ? 流和から聞いたんだ」
 朱雀は腕組をして応える。
「お前を呼んだ覚えはない」
「何か手伝いが必要かもしれないって、流和が」
「手伝いなんて、大して必要じゃない。暖炉で荷物を送って、優と一緒に飛んで帰ってくるだけなんだから……で、流和はどこにいるんだ」
「先に優の実家に向かってるよ。永久も一緒だ」
「聞いてないぞ」
 再び朱雀が眉をひそめる。
「もしかして、吏紀も……」
 と、朱雀が言いかけたとき、前方で紫色の光が稲妻のように輝いたかと思うと、空間に光の門が浮かび上がって中から吏紀が飛び出してきた。
 九門家は、九つの門を司る一族だ。
 朱雀にもその仕組みは分からないが、ポータルがなくても何らかの条件を満たせば特別な門を召喚することで、時空間転移を行うことができる。空と同じで、学生時代にはそんな大それた魔法は使うことができなかった吏紀が、今、当然のように朱雀に並走し始めた。
「遅れて悪い」
「だから、呼んでないだろうが」

 朱雀から不愛想に言われて、吏紀が苦笑いを噛んだ。

「言うと思った。けど、二人の大切な日だろ。親友として立ち会うのは当然だよ」
「そう思ってくれるのは有り難いが吏紀も空も、忙しい身分だろ。九門家と東雲家の次期頭首がそう簡単に出歩いていいのか、こんなとこまで」
 朱雀のこの懸念に、今度は親友たちがおもむろにそっぽを向いた。
「知るかよそんなの」
「問題ない」
 本当はマズいんだよなと察しつつも、朱雀は二人に少し申し訳ない気持ちになった。
「悪かったな、俺はお前たちの結婚式に行かなかったから、付き添いなんかしてもらう義理もないのに」
「公安部の壊滅的な忙しさは知ってる。気にするなよ。最近は優にだって会いに行ってないんだろ?」
「なんでそれを知ってるんだ、空」 
「優から聞いたから。多分、俺の方が優に会いに行ってるぜ? 本当にお前たちときたら、俺たちをいつも心配にさせるんだから、こっちの身にもなってくれよな」
「そういえば、優は俺たちの結婚式に来てくれたよ」
 と、今度は吏紀が口を開いた。
「ご丁寧に結婚祝いまでくれて、今でも大切に使わせてもらってるよ」
「あ、そういえばうちも結婚式に来てもらったな。それで優から特別な贈り物をもらったんだ。流和が感激して泣いてたなあ。――優って、意外とまめなところがあるよな。学生時代には想像もできなかったけど、案外いい嫁さんになったりして」
 と空が笑う。

 朱雀は今までそんな話は全然聞いたことがなかった。4年間という歳月の中に、逃してしまった機会や会話がどれだけあるのだろうか。
 もっと優に会いに行けば良かった。親友たちの結婚式にも、なんとかして出席すべきだったと今さらながらに思えてきて、朱雀の胸が秘かに傷んだ。

「大丈夫だ、これからはずっと一緒だろ」
 朱雀の心中を察してか、空が唐突に言った。
 朱雀は黙って頷くが、だが、そこで一つのひっかかりを覚える。
「俺よりも優に会いに行ってるって、どういうことだ? 空、優の実家に行ったことあるのか」
 すると、空はケロリと肩をすくめた。
「流和がしょっちゅう遊びに行ってたから、俺もついて行ってたんだよ。月に一度は会いに行ってたんだぜ」
「はあ?」
 朱雀が不満を露わに空にかぶりを振る。だが空はおかまいなしに続ける。
「俺だけじゃないぜ? 吏紀と永久が一緒だったこともある。毎回、優が手料理をふるまってくれてさ、ほらアイツの手料理、やばいだろ? 最初は、火を噴いて死ぬんじゃないかと思ったんだが、今じゃ普通に料理ができるようになっててさ。なかなか旨いよな、人間界の料理って」

「優の実家の庭でバーベキューをしたことがあったっけ。あの時は最高に楽しかったな。朱雀も来ればよかったのに」
「いや、そもそも呼ばれてない。なんだよそれ、俺は聞いてないぞ」
「確かあのとき、朱雀はゴブリン掃討作戦で奥地に行ってて、音信不通になってたんだっけ」
「ああ、そんなこと話してたっけ」
「可哀相に」
「可哀相になあ」
――可哀そうにって……、俺の気も知らないで
 その通り、朱雀の心境も知らずに、親友たちはケラケラと笑っている。
「それにしても、あの家とももうお別れだと思うと、少し寂しいよな。俺、優の実家が好きだったんだ」
「確かに。もうバーベキューもできないのか……残念だな」
「なんでお前たちが寂しがるんだよ、可哀相な俺はそれをやったことすらないんだぞ?」
 公安部に所属して以来、親友たちにさえ久しく感情を露わにしていなかった朱雀が珍しく怒っている。
 そんな朱雀を見ると、学生時代に戻ったみたいで空も吏紀も内心秘かにほっとするのだった。

「まあ、これからはロコモコ山でやれるんじゃないか? 優が越してくればさ」
「でもあの鬱蒼とした、陰険な場所で? 庭で火を燃やす場所なんてないくらい茂ってるだろう」

 ややしばらくの間、吏紀と空が無言で顔を見合わせて、その先を考えまいとするかのように互いに首を振った。そして二人は朱雀をそっちのけで寂しげに前方を見据えると、秘かにため息をついたりしている。 親友たちのそんな様子に気が付いて朱雀はさらにムッとする。
――ため息をつきたいのはこっちの方だ。
 4年間を無駄に過ごして、優の手料理と友人たちとの楽しい時間を朱雀だけが逃してしまったのだ。
 あまりに残念ですべての音が耳から遠ざかっていく。
 朱雀はふてくされて飛ぶことだけに意識を集中した。幸いなことに、親友たちもそれぞれが物思いに沈んでいる様子で、それ以上は何も言わなくなった。


 朱雀の速さでロコモコ山から東に3時間ばかり飛ぶと、ダイナモン魔術魔法学校があるオロオロ山の麓に出る。といってもオロオロ山は広大で、その麓にはいくつもの小さな山や谷があるから、実際のオロオロ山ははるか地平線の彼方にかすかにその存在を視認できるだけだ。
 朝露に濡れた木々の匂いを嗅ぎながら、まだうっすらと靄(もや)のかかったその方向に視線を向けて、朱雀はダイナモン魔術魔法学校での日々を懐かしく思い出した。
 そこは朱雀が初めて恋をした場所でもあるし、闇の恐怖と闘いながらも、本当の仲間を得た場所でもあった。楽しいことばかりではなかったが、かけがえのない時間だったと思える。

 猿飛業校長と桜坂教頭は今も健在で、学舎では相変わらずの厳しい魔法教育が行われているらしい。
 闇の世界から生還した紫苑はマリー先生と結婚して、今は銀色狼の棲む深い森の中で静かに暮らしていると聞く。ダイナモン魔法学校と公安部の連絡役でもある播磨先生が、聞きもしないのに朱雀に嬉しそうに知らせてくるのだ。

 そして播磨先生は毎年のようにその知らせを持ってくる。
――「今年も火の魔法使いは一人も現れなかったよ」、と。
 これは魔法界にとっては重大な問題だった。
 もちろんマジックストーンは関係ない。魔法使いが持つ輝きはどれも等しく美しくて気高いのだから。
だが一方で、火の魔法使いがもう少し現れてくれれば、闇の勢力に対抗する公安部で朱雀にかかる負担が減るのも事実だった。
 それは、闇の勢力が持つ「闇」と「冷たさ」に関係する。
 「闇」そのものには光の魔法使いの力が有効で、光の力はすべての魔法使いが持つ力だから、光属性最高位のダイヤモンドがいなくても闇には対抗しうる。だがしかし、「冷たさ」に対抗しうるのは火の魔法使いの「熱」だけなのだ。
 熱を持つマジックストーンはルビー以外にはない。
 現状では火の魔法使いは朱雀一人しかいないので、朱雀がいないとき、公安部の仲間たちはいつも凍えながら闇と戦っている。より深い闇に立ち向かうときには、朱雀がいてさえ、すべての仲間を凍えから守りきれずに歯がゆい思いをすることがしょっちゅうだった。

 魔法使いは光を失えば魂を失い、熱を失えば命を失う。
 それなのに何故、昔から火の魔法使いはこれほどまでに少ないのだろうか。
 朱雀にはその理由がどうしても分からない。

 西の魔女アストラ消滅後も、闇の勢力は根絶されるどころか、減っているとは言い難い状況だ。
いつの時代にも闇の魔法使いは必ず存在する。魔法使いだけではない。ゴブリンや悪霊、闇のエルフや黒狼、あらゆる怪異を生み出す魔物たち。
 だから朱雀は魔法界の未来を憂う。
 同じ火の魔法使いである優が魔法界で暮らすようになれば、何かが変わるだろうか。
 いや、変えさせない。
 公安部は現状を打破するために優を仲間に加えたがっているが、そんなことになれば優は朱雀と一緒に戦いの最前線に送り込まれることになる。朱雀は、それだけは絶対に阻止するつもりだった。血なまぐさい争いの中に身を置くのは朱雀一人で十分なのだ。優には温かく穏やかな毎日を送ってほしいし、悲しい思いをさせたくない。
 そのためなら、朱雀はどんなキツイ仕事も一人でやり切れると思った。

「結婚したら、優にはやさしくしてやれよ、朱雀」
 物思いに沈んでいると、空がいきなりそんなことを言うので、朱雀は驚いて顔を上げた。
「どういう意味だよ」
「流和が東雲家に嫁いできてわかったんだが、嫁はいろいろ大変だってことだよ」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって……、生まれ育った故郷を離れて、慣れない環境での生活が急に始まるんだ。流和でさえ最初の頃は気持ちが落ち込んで、体調を崩したもんだ。今でもたまに実家に帰りたそうにするよ。ましてや優は、人間界から魔法界に嫁いでくるんだからな。生活の変化は大きいだろ」
 空に言われて、朱雀は少し考えた。
 人間界から、魔法界に。もしその逆で、魔法界から人間界に朱雀が引っ越すことになったら、確かに最初は苦労するのかもしれない。朱雀は、優より先に人間界から嫁いできた永久のことが気になった。
「吏紀のところはどうだったんだ?」
「うちは特殊だからな……九門家流の花嫁修業というのがあって、覚えなければいけないことが多いし……」
 吏紀が口ごもるので、朱雀がもう一度聞く。
「はっきり言えよ、どうだったんだ?」
「最初の頃は毎晩泣いて、もう無理だと弱音ばかり言ってたな。正直、永久が俺との生活を諦めて人間界に帰ってしまうんじゃないかと不安になったし、そのことで婆様や母様とはよく喧嘩になったよ。どうだったかって? 思い出したくないくらい、大変だったに決まってるだろ」
「へえ……。でもそれって、九門家と東雲家が特殊なだけじゃないのか? うちには花嫁修業なんかないぞ」
「そうかもしれないが、あの家で、朱雀と二人きりで暮らすんだぜ? 俺ならゾッとするけど」
「言ってくれるじゃないか空、失礼だぞ」
「だが、空の言うことにも一理あると思う」
 と、吏紀が空に加勢する。
「ちゃんと掃除したのか?」
「庭の草も刈った方がいいぜ。と言ってもどこまでが庭なのか知らないけどな……」
「どうせ俺たちの他には、怖がって誰も訪ねてくる者もないんだろうし、あんないつ化け物が出てもおかしくないような暗い屋敷で、話し相手もなく、果たして優は大丈夫なのか?」
「ダイナモンに連れてこられたときみたいに、帰りたがって泣くかもって流和が心配してるよ」
 二人から矢継ぎ早に言われて、朱雀が困ったようにさえぎる。
「はあ……、もうやめてくれ、俺まで不安になるだろう」
「朱雀、不安になるべきだ。優があそこで暮らしやすいように、必要なものは何でも与えてやるんだぞ」
「わかってる」
「本当にわかっているのかどうか、怪しいもんだ」
 親友たちにそういわれて、朱雀は改めて考えさせられた。
 確かに、優があの家を見てどう思うかということを、朱雀もこれまで考えなかったわけではない。だから家を掃除したり、暖炉や水回りを修復したりと、朱雀なりにできることはやってきたつもりだ。
 だが、人里離れた山奥の、誰も訪ねてこないような場所にある恐ろしく古い屋敷での二人暮らしだ。きっと優がこれまで人間界で送ってきた生活とは大きく異なるだろう。そのときに優がどんな反応をするのか。吏紀が言ったように、優が朱雀との生活を諦めて人間界に帰りたいと思ったりしないか、朱雀はとても不安になった。




 


 銀色狼の広大な森を抜けると、標高3000メートルにも及ぶ未開の渓谷の先に、モアブ領域にも人間界にも属さない妖精王の森が広がる。この森が人間界とモアブ領域の境界となる場所だ。
 魔法使いであろうと人間であろうと、この森に万が一にも迷いこめば無事に戻ることはできないだろう。
 そうならないように、妖精たちは森の外縁に秘匿の魔法を張り巡らせて、部外者を退けている。
 近づく者はその場所を忘れ、いつの間にか回れ右して森から離れるように。
 この森に立ち入ることができるのは、妖精王から特別の許しを得たものだけだ。
 ただし、妖精王の森にはただ一つだけ魔法使いの立ち入りが許された場所がある。
 今、その場所に朱雀、空、吏紀の3人は静かに降り立って、一本の白樺の木の前で足を止めた。

『妖精王の名のもとに、かの地への道を開け』

 こうして3人の魔法使いはその場からたちどころに姿を消した。





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