月夜にまたたく魔法の意思 第8話17
優はデザートのコーナーまで行くと、あいた盆にクッキーやキャンディーやチョコレートをてんこ盛りにして、そそくさとテラスに出て行った。
星がダイヤモンドのように輝く新月の夜。
大地は昼の陽気を残して、甘く香りたっていた。草や花や、土の匂いが心地よく優の肺に満ちてゆく。
優はテラスの階段を降り、舞踏会の柔らかな灯りから離れた庭の奥に進んで行った。
パーティーの音楽の音がずっと遠くに聞こえる所まで歩いて来たとき、優の運んで来た盆の匂いを嗅ぎつけたのか、庭妖精たちが暗い地面の上を翔けて来るのが見えた。ズングリした体つきで足が短いので、走ると必要以上に身体が左右に揺れているのが滑稽だ。
黒い顔は暗闇の中では見わけがつきにくいが、青い目が優の足もとでかなりの数、光っている。
「庭妖精さんたち、こんばんは。靴紐を返してくれたお礼に、おやつを持ってきたよ。約束したもんね」
優の言葉を理解しているのかどうか、庭妖精たちは両手を上げて小刻みにぴょんぴょんと飛びまわっている。
「たくさんあるから、順番ね。ほらほら、一列に並んで!」
優が手で指し示すと、庭妖精たちは口々にシーシーと息漏れのような音を出して、先を争う様に優の前に並んだ。中には列をはみ出す横着者もいる。
優がお菓子を差し出すと、右手で取った妖精は必ず左手も差し出してきた。
手は2本あるから、お菓子も2個寄こせと言うことらしい。
給食を配るみたいに一通り配り終えて辺りを見回すと、ひと際小さな庭妖精が、キャンディーの袋を剥けずにビービーと蝉みたいな声で泣き出した。
優が包みを開いてキャンディーを口に入れてやると、途端に泣きやんでクンクンと鼻を鳴らす姿は、人間の子どもに似ていた。
「みんな、可愛いね〜」
空になった盆を脇に置いて、優は柔らかな草の上に仰向けになった。星に手が届きそうなくらい、空が澄んでいる。
庭妖精たちは優を気に入ってくれたのか、周りからいつまでも離れない。もしかしたら、もっとお菓子をくれるのを期待しているのかもしれなかった。
けれど、優はしばらくは舞踏会会場には戻りたくなかった。静かに自分の気持ちを噛みしめていたい。
ついさっき自分が朱雀に言ったことや、朱雀が優に言ってくれたことが今も鮮明に思い出され、恥ずかしくて吐きそうなのに、同時に胸がくすぐったくて、心に春の陽だまりがあるみたいに温かい。
「ママも、こんな気持ちだったのかな、パパを思う時……」
もし両親が生きていたら、優は朱雀のことを、どんなふうにお父さんとお母さんに話しただろう。
まだ不完全な好きだけど、この気持ちを大切に育てていきたいと思えるなんて、不思議なことだ。
優は静かに目を閉じて、大地に身を任せた。心地よい眠気が誘いかけるのに、抗う理由はなかった。
一方、舞踏会会場では、朱雀がすぐに、優が魔力探知防御魔法を使ったことに気づいていた。
居場所が追えなくなるのは気がかりだったが、朱雀は、今夜は美空と過ごせと言った優の言葉が本気だったのだと悟る。
だから今夜は、美空と時間を過ごすことに集中するべきなのだろう。朱雀自身と優の未来のために、美空とのストーリーを完結するんだ。
ダイナモンに入学した当初から、空や吏紀と一緒で、ずっと朱雀の味方でいてくれたのが美空だった。優が言った通り、美空は朱雀にとって本当に大切に思える仲間だった。美空の好意を知っていながら、利用してきた自分が恥ずかしい。
「ねえ覚えてる? 2年の舞踏会の夜、こんなふうにダンスを踊った後、二人で城を抜け出そうとして、ひどく先生に叱られたわよね」
「ああ、あのときの桜坂教頭、ゴブリンの親玉みたいに怒ってたな」
「私ね、あの時思ったのよ。ああ、魔法監獄から脱獄しようとする囚人てきっとこんな気持ちなのね、って。とっても恐ろしかったけど、あの時、朱雀が私のことをかばってくれたこと、今でも忘れていないわ」
「そうだったか?」
「そうよ! もとはと言えば、城から抜け出して外の空気を吸いたいと言いだしたのは私の方だったのに、朱雀は、私は関係ないってかばってくれたんだわ」
「1年の時、俺が実験用のカエルをお前の鞄に入れたの、まだ怒ってる?」
「あー……そんなこともあったわね。嫌なことを思い出しちゃった!」
朱雀がニヤニヤする。
「そうそう、カエルがお前の鞄の中で潰れて……ガマ油が鞄にしみて、しばらく臭かったよな、ぷっ……」
「もう、朱雀!」
「あの時のお前の怒り方は、今思えば桜坂教頭より恐ろしかったぜ」
「新しい鞄だったのよ。気に入ってたのに。ついでに言うと、教科書と宿題のレポートもガマ臭くなったんですからね。私にあんなことしたの、あなたが最初で最後よ」
もうじき夜の12時だ。舞踏会は終焉に近づき、最後に恋人たちが踊るチークダンスが始まった。
しっとりと流れる曲に合わせて体を揺らしていると、自然と面白い昔話は尽きた。
「朱雀、私、あなたのことがずっと好きだったのよ。今でも本気で、心から愛していると言える」
美空が朱雀の胸に、自分の頭をもたげた。
「俺、ガキだったから、お前をいっぱい傷つけたな。……ごめん」
「私のことを女として、愛してはくれない?」
「俺は、誰のことも愛せなかったと思う。もし、優に出会ってなければ、きっと今も、お前とちゃんと向き合わずに、ただ上辺だけで付き合って、傷つけていたんだろうな……。美空は、俺にとって大切な仲間だ。そして、かけがえのない親友だと思ってる。お前のこと、心から大切に思ってるよ。優を思う気持ちとは違うけど、今言ったこと、嘘じゃないんだぜ」
美空が知っている昔の朱雀なら、きっとこんなことは言わなかっただろう。
誰かのことを愛しているとか、誰かのことを大切に思うとか、朱雀にはそんな温かさはなかった。
昔の朱雀は、まるで感情がない人形のように無機質だったのに、今はどうだろう。朱雀の全身から温かな炎が瞬いて、一緒に居ると安心させてくれる。
「あなた、本当に変わったわよ」
真珠のような涙が、美空の頬につたい落ちた。
「昔のあなたより、今のあなたの方がずっと好きよ。朱雀を変えたのが優のせいなのだとしたら、私、……かなわないなあ……」
それから、堰を切ったように美空は声を出して泣き始めた。
美空があんまり酷い顔で泣きじゃくるので、朱雀は困ったように笑って、そして優しく彼女を抱きしめた。
「美空、ありがとう」
そのままずっと、いつまでも朱雀と抱き合っていたかった。
だが、美空がそう思ったのも束の間、遠くで何かが唸るようなかすかな音がした。その音はだんだんと大きくなり、やがて大地を震わせるほどの凜音となって急速にダイナモンに近づいて来る。
ダンスミュージックが鳴り止んだのとほぼ同時に、朱雀がハッとしてテラスの外に視線を向けた。その横顔が、瞬く間に鋭い嫌悪に歪んでゆく。
すぐ傍にいた美空の顔にも明らかな恐怖が浮かぶ。
「朱雀……」
そう呼んだ直後、大地が小刻みに震えだした。
これまで実戦を重ねて来た美空は、闇の魔法使いと対峙するのは初めてではなかった。いくつもの危険な仕事を乗り越えて来た自分に、多少なりとも自信さえ持っていた。だが、今ダイナモンに近づいてきているものは、これまでの闇の魔法使いとは次元が違う……美空はそう直感した。
音楽が止んだダンスホールで、生徒たちがざわめき始める。
辺りが急に凍てつく冷気で覆われいくことに誰もが気づいたのだ。
「寒いわ」
美空の身体がブルブルと震えだした。周りにいる他の多くのダイナモンの生徒たちも、まだ見ぬ敵への恐怖と寒さで、皆ガタガタと玩具みたいに震えだした。
朱雀の瞳がシュコロボヴィッツの強い紅色に染まり、ピアスのルビーも炎の力で瞬いた。
「美空、お前は下がってろ。これから何があっても手出しするな」
朱雀が美空を自分の背後に押しのけた。そして、空宙から黄金のルビーの杖を召喚して叫んだ。
「全員窓から離れろ! 敵が来るぞ!!」
直後、テラスに何かが落ちて来た。瞬間、まるで空爆にでもあったかのように地面がズドーンと揺れて、窓ガラスが粉々になって吹き飛んで来た。
「イディオ!!」
朱雀が杖を振り、透明の壁が、爆発から逃げ遅れた生徒たちを守った。だが、何か強い力が働き、朱雀の魔法は打ち消され、反動で朱雀は広間の反対側まで吹き飛んだ。明らかに、何かの悪意によって、一度防がれたガラスがダイナモンの生徒を目がけて飛んでくる。
「ヴァヴァンカ!」
空の浮遊魔法で、逃げ遅れた生徒たちが壁際に引き寄せられ、幸いにも怪我人は出なかった。
12時の鷲時計が遠くで鳴っている。それはダイナモン舞踏会の終わりを示すのと同時に、恋人たちが最後に約束のキスを交わす時間でもあった。
重力が何倍にもなったような感覚を受けながら、それでも朱雀はすぐに起きあがって杖を構えた。
「朱雀……あれは」
アメジストの杖を手にした吏紀がすぐ近くで身構えていた。その視線は、最大の警戒をテラスに向けている。
空中の光が次々に掻き消され、光の妖精たちが力を失ってバタバタとホールに落ちて来た。一瞬にして辺りが闇に包まれる。
「俺の両親は、いつも最悪のタイミングで現れる」
吏紀に応えて、朱雀が自嘲した。
悲鳴と恐怖が空間を支配してゆく。
舞踏会にはダイナモンの生徒全員が出席しているから、中には実戦経験が全くない者や、まだ自分のマジックストーンさえ持たない下級生もいる。
「上級生たちは杖を抜きなさい! 下級生を守るのです!」
暗闇の中に、桜坂教頭の声が響いた。
「優はどこだ」
と、吏紀。小さな声に、緊迫感がある。
「わからない」
「一緒だったんじゃないのか」
「離れるべきじゃなかったよ。こうしていつも、あいつは俺に心配しかさせない……。けど、きっと無事なはずだ。それに、優がここにいなくて良かったのかもしれない。ウチの親には、本命の彼女は絶対に紹介したくないからな」
そう言いながらも、朱雀は内心では必死に自分を落ちつかせていた。
大丈夫、朱雀のプレシディオリングが優を守っているはずだ。だから優に何かあれば、朱雀には絶対に分かるはずだった。優は殺されたりなんかしない。
それに優自身が魔力探知防御魔法をかけているから、そう簡単には見つからないだろう。
学内で緊急事態が起こった時は、ガイドラインに従って、実戦経験のある上級生が下級生を守ることになっていた。
東條晃がダイヤモンドの杖を、地ヶ谷三次がオパールの杖を抜いて構えた。表情や言葉に出しはしないが、二人とも他の生徒と同じように震えている。
東條が叫んだ。
「下級生たちは広間の奥へ! 実戦経験のない者は杖を抜くな! 杖を抜いた者は即座に敵の攻撃の対象にされることを覚悟しろ!」
床に転んで立てなくなっている生徒を、三次が助け起こした。
「大丈夫だよ、さあ、君も広間の奥へ下がるんだ」
三次のオパールの輝きが辺りに満ち、混乱している下級生たちを上手く誘導する。
「マリー先生、小間内夫妻は私のもとへ。こんなときに、播磨先生はどこへ行ったのです!?」
桜坂教頭の声は、張りすぎたヴァイオリンの弦のように硬く強張っている。ただごとではない恐ろしいことが起ころうとしているのだと、その場にいる誰もが悟った。
教頭はマリー先生と小間内夫妻を伴い、敵を迎え撃つべく素早く窓際に移動した。
淑女である桜坂教頭からそんな大きな声が出ることに驚くほど、強く勇ましい声で、桜坂教頭がその場に居る全員に指示を出す。
「教師人は第一線を守ります。試しの門を受けた魔法戦士は第二線を守りなさい。次に第三線を上級生全員で守り、下級生たちの盾となるのです。言っておきますが、これは実習ではなく、命のかかった戦闘です!”」
――「シ・エスト クレイヤ!!」
桜坂教頭のピンクサファイヤの杖から強力な光が広がり、広間の暗闇を遠ざけた。
テラスに、二つの影が黒い煙に包まれて揺らめいているのが見えた。桜坂教頭の光が、その影の姿を浮かび上がらせた。
一人は、白いドレスに身を包んだ女、そしてもう一人は黒いローブをまとった漆黒の男。
黄金の杖を握る朱雀の手に、否応なく力がこもる。朱雀を捨てて闇の世界に堕ちた、恐ろしい魔法使い。
今の朱雀を生み、育て、だから幼い頃は彼らに認めてもらいたい、愛されたいと願っていた。けれど結局、朱雀のことを認めても愛してもくれなかった、朱雀の両親だ。
「ふうむ、懐かしい香り……。今年の舞踏会も、盛大に執り行われていたのでしょうね、桜坂先生」
冷ややかな女の声。
真っ白な肌に、真っ黒な瞳を光らせたその女は、踊るように優雅に広間に入って来ると、桜坂教頭に会釈して不気味に微笑んだ。
その後について入って来た男も、ローブを翻して紳士的にお辞儀をして見せはしたが、顔には侮蔑の笑みをたたえている。どこか、朱雀に似ていなくもない容姿だ。
「外では我らの女王を倒そうと無駄な血が流されているというのに、ダイナモンの子らは飯事まがいの浮ついた夜を過ごしているのですね。いい気なものですな。」
「高円寺夫妻……なぜここに。ダイナモンはアトスの聖なる結界で守られているはずです。一体、どうやって……」
「愚問ですな。いつの時代にも、『手引きしてくれる者』はいるものです。さらに言うなら、軍勢は囮ですよ。猿飛先生にここに居られては、私たちが動きにくいですからね」
「何が目的なのです!」
朱雀の父、阿魏戸が、教頭のすぐ後ろにいる息子を見つけて、満足そうに微笑んだ。
――「「なあに、我らの忘れものを、取りに来たまでですよ」」
桜坂教頭を筆頭に、マリー先生、小間内夫妻が一斉に杖を向ける。
それに対し漆黒の男は、虫でも払いのけるような仕草で、忌々しげに手を振っただけだ。 ――真空が生まれ、朱雀の背筋にゾッとする冷たさが走る。
『フランマ!!』
間一髪、父、阿魏戸の攻撃を予知した朱雀が叫んだ声と、父の声が重なった。
朱雀の周りに渦巻く真っ赤な炎と、阿魏戸の漆黒の炎が激しくぶつかり合い、周囲に衝撃が走った。
最前線にいた桜坂教頭やマリー先生、そして小間内夫妻は、黒炎に襲われて広間の奥まで吹き飛ばされ、大理石の壁を破砕した。
阿魏戸の炎に当てられて命が無事かどうかは、朱雀には分からない。
「我らに杖を向ける愚か者は、殺す。逆らわずとも、今宵は殺戮のために来たのではない。ただ、忘れ物をとりに来たのだ、我らの息子よ」
阿魏戸が炎を沈めた。
何年かぶりに見る、変わり果てた両親の姿を、朱雀は悲しく見つめた。
「父さん、母さん……」
朱雀の声が震えた。
女、朱雀の母親はしげしげと息子を見つめ、おもむろに何かを見透かしたように、夫である阿魏戸を振り返った。
「驚いたわ。阿魏戸、この子、恋をしているわよ!」
「恋……? ああ、愚かな弱虫がかかる、死の病のことか」
父、阿魏戸は興味もなさそうだが、母は執拗に興味を抱き、ダイナモンの生徒たちを見回して杖を傾けた。
「それで? お前が恋した子というのは、どの子なの? 是非ともその子を、生贄として持ち帰りましょう」
手当たり次第にダイナモンの女子生徒に向けて杖を振りそうな母親に、朱雀は肝を冷やした。
「ここには、いないよ」
朱雀の瞳が鋭く光る。
「舞踏会の夜に、なぜお前の傍にいないのだ?」
今度は父、阿魏戸が獲物を見据えるように朱雀に迫る。
朱雀の表情が一瞬、優を思って柔らかくなった。
「これからはずっと一緒だから、心がともにあれば、今夜は一緒じゃなくてもいい」
「何を馬鹿なことを! いや、わかるぞ。お前を慕っている者など居るはずがないだろう。その子も、お前に嫌気がさして、お前の元から去って行ったに違いない!」
「この子が恋をした相手を見てみたいわ、阿魏戸」
「愚かな息子をたぶらかす、取るに足りない子に決まっている」
「それもそうね……。朱雀、女王様がお前を歓迎してくれるわ。さあ、私たちと一緒に行きましょう」
実の両親とは思えないほど、真っ暗で冷たい存在。
今や桜坂教頭のピンクサファイヤの光は消え、息の詰まる闇が重力を増してのしかかって来る。闇は心の中にまで浸みこんで、深く恐怖を根付かせてゆく。
いっそのこと、抗うことをやめて屈してしまえば楽になるかもしれない。そんな弱い自分が心の中で主導権を握りたがる。
だけど、誘いかける闇に屈したりはしない。もう、朱雀は一人ではないのだ。
――優。
「トゥエリ・ムルーム・フランマ!!」
朱雀の瞳が紅色に輝き、炎の息吹が足もとから沸き起こってダイナモンの生徒たちを包みこんでいく。
「どこまでも身の程を知らない、愚か者!」
妖艶な母親の顔がたちどころに醜く歪み、ブラックダイヤモンドの杖が朱雀に向けて大きく振りおろされた。
鋭い氷の刃が、まだ完成していない守護魔法をかいくぐって、朱雀に襲いかかる。
それを、空のエメラルドの光が撃ち落とした。
氷の魔力は火の魔法使いに致命傷を与える。空はそのことをよく知っていたので、この時心底ヒヤっとしたのだった。
「噂に聞いてた以上に、恐ろしい親だな……本気で俺たちを殺す気だぞ」
空が苦笑いしながら呟いた。
「ともかく、お前が正気で安心したよ、朱雀」
と、吏紀。朱雀が両親に会ったら、もっと動揺するのかと思ったのだ。
「ああ、でもウチの親は、まだまだ、こんなもんじゃないぜ。来るぞ!」
「ア・デーラ!!」
阿魏戸の強力な呪文で、朱雀の身体が炎の守護壁から引きずり出されて床の上に叩きつけられたのは、ほんの一瞬のことだった。
「朱雀!」
絶対的な守護力を持つ朱雀の魔法が、いとも簡単に破られたことを目の当たりにして、ダイナモンの生徒たちが一層恐怖を募らせていく。
そうこうするうちにも、床に倒れている朱雀に父、阿魏戸が獲物を追い詰めたハイエナのように迫っていくのを見て、
「フラマ・フルド!」
吏紀のアメジストの光が朱雀を包んだ。
同時に、ミルトスの根が阿魏戸の足をからめ捕り、その動きを封じる。聖なる力があるミルトスを、闇の魔法使いは嫌って触ろうともしないからだ。
吏紀のミルトスは有効だった。少なくとも二人の闇の魔法使いのうちの一人、阿魏戸の動きを封じられたかのように見えた。
だが、
「忌々しい九門の血め!」
今度は女の力が吏紀を吹き飛ばし、不気味な長い呪いの言葉を唱え始めた。
たちまち、胸元を抑えて苦しみもがき始めた吏紀の胸に氷の結晶が生じ、それが体の内から外側に向かって、肉を引き裂いて広がった。
「吏紀!」
「吏紀くん!」
口から大量の血を吐いてその場に倒れる吏紀を、誰も助けることができなかった。
「二度と余計な真似ができないように肺を潰してやった。じっくりと時間をかけて、苦しみながら死ぬがいい!」
目の前で繰り広げられる本当の殺し合いに、永久は全身が震えて、倒れている吏紀に駆け寄ることすらできない。心が壊れてしまいそうだ。
だが、時は止められない。
残酷なことが次々に起こる。
アメジストの光とミルトスが消え、再び自由を得た阿魏戸が、朱雀の胸ぐらを掴み上げて、少しもためらうことなく息子を黒い炎で焼き始めた。
瞬間、声にならない朱雀の叫びが響き渡る。
「抗うことをやめれば苦しくなくなるんだ、朱雀、さあ、こちらの世界に来い。お前の力は、まだまだこんなものではないだろう!」
「スマラグディ!」
空のエメラルドの光に阿魏戸が一瞬ひるんだように見えたが、空が攻撃魔法を唱えたのとほぼ同時に女の力が襲いかかった。
ブラックダイヤモンドの一振りで、空の体は勢いよく天井まで持ち上げられ、磔にされた。
「う、ああああああああ!!!!」
骨が砕かれる音と、恐ろしい痛みに意識がとびそうになるのをこらえ、それでも空は歯を食いしばって杖を握りしめた。
代々続いて来た由緒ある東雲一族の例にもれず、その正当後継者である空もエメラルドと風の力に愛されていた。
その空が極限状態に置かれた時、瞳が淡く緑色に輝いた。そして、汚れた闇のダイヤモンドの力を跳ね返した。
「なんて生意気な! お前は、東雲の息子か!」
地面に落ちて来た空を見て、女が忌々しいとばかりに舌打ちしたが、空がすぐに動くことができないのを見て、蛇のように微笑んだ。
実際、このとき空の体はすでにボロボロだった。両手、両足、脇腹の骨が折れ、杖を握りしめるのが精いっぱいだった。
床の上にうずくまり、苦しそうに息をしながら、空は目の前の敵を睨みつけた。朱雀が黒い炎に焼かれ、それを阻止しようとする者があれば、手の空いている女の方が対処するという寸法のようだ。
どうやったら、朱雀を助けられるか。吏紀の意識はすでにない。空自身も、この体ではまともに動けない。
考えあぐねる空の前で、突如、杖を構えて一人の女子生徒が飛びだした。
「テレッド・フラグマ!」
流和の水の力が阿魏戸に直撃し、朱雀を覆っていた黒い炎を祓ったのだ。
「流和!」
瞬間、空の中に、これまでに感じたことのない恐怖が沸き起こった。
女のブラックダイヤの猛威が今度は流和に向けられたからだ。
咄嗟に、空が流和を守るために杖を傾けるが、阿魏戸がそれを許さなかった。
「呪縛魔法、囚われ」
黒炎の牢獄が空を捕えた。
「流和!!」
炎の中から手を伸ばす空の手は、流和には届かない。
無数の氷の刃が、矢のように流和に向かって飛んで行くが、狙われた流和には逃げ場がなかった。
守護魔法を唱える猶予はない。
もし瞬身魔法で逃げれば背後のダイナモンの生徒たちに攻撃が行くことになるから、流和はその場から逃げようともしなかった。
ここで死ぬかもしれない、と、流和が覚悟したとき。
瞬身魔法で朱雀が流和の前に現れた。
だから、氷の刃は流和には当たらなかった。
代わりに全身で刃を受けたのは、咄嗟に自分の体を流和の盾とした、朱雀だったのだ。
「きゃあああああ!!!」
一部始終を見ていた永久が悲鳴を上げた。
氷の刃は朱雀の全身に突き刺さり、そしてそれが、うごめく闇となって朱雀の体の中に溶け込んで行った。
瞬く間に朱雀の身体から血の気が引いてゆき、炎の熱が急速に失われて行った。氷の刃はまさしく朱雀にとっては致命傷なのだ。
物理的なダメージではない、魔法使いの命の光そのものを奪う、冷たい力。
力なく倒れこむ朱雀を、流和が抱きとめた。
「朱雀!!……どうして……」
こらえようもなく、流和がめそめそと泣き始めた。
朱雀は、一言も発することができなかった。すでに息さえ、まともに吸うことができない。
物凄く寒い……。
阿魏戸の呪縛魔法の中で炎に焼かれながら、空の頬にも涙が伝い落ちた。
――ダッせーな、空。悔しくて泣いてる暇があったら、自分の女に、誰にも手出しされないくらい、もっと強くなれ。
そうすれば、次からは、お前が守ろうとするものは、俺も守ってやる。
かつて朱雀が言った言葉が、空の記憶の中で蘇った。そしてその言葉が嘘ではなかったことも、空は知った。
『馬鹿、流和を守るためにお前が死んでどうすんだよ、朱雀。それは、俺の、役目だろ。』
だが炎に肺が焼かれて、空の言葉は声にならなかった。
「これじゃあ、使い物にならないな」
と、阿魏戸がつまらなさそうに言った。
「身を呈して他人を守ろうとするなんて、馬鹿な子……。けれど、朱雀はこれでいいのよ。私の力がこの子の中に入ったわ。さあ、この子を死の沼に捨てて、闇の魔法使いに転生するのを見ましょう。きっと上手くいくわ」
「なるほど、それはいい考えだ」
「女王様にはなんて?」
「代わりにもう一人の火の魔法使いを生け捕りにすると伝えればいいさ。もともと我らの女王はあの子に興味をもっておられたのだから」
そうして高円寺夫妻は、実の息子をまるで壊れたガラクタでも扱うように引きずって、連れ去って行ってしまった。
ダイナモンの生徒全員がそれを見ていたが、誰も、何もすることができなかった。力の差は歴然だった。
ものの数分の出来事だった。桜坂教頭でさえ、そして学校で一番優秀な朱雀や吏紀や空でさえ、高円寺夫妻にかなわなかったのだ。
そうして嵐のように高円寺夫妻が去った後も、取り残されたダイナモンの生徒たちはただジッと立ちつくしていた。
恐怖と闇に支配され、誰も動くことさえできない。
こんなに暗くて寒い夜を、これまで誰が経験しただろう。絶望と失望と、諦め、……あらゆる負の感情が辺りに渦巻いている。
完全なる闇の中で、誰もが震えていた。
「お願い、どうか助けて。……光よ――」
絶望の中で、永久が祈るように膝まづいた。
すると、永久の杖から零れた一滴の光が、深い闇に一点の、小さな小さな希望の明りを灯した。
それに呼応して、流和も泣きながら唱えた。
「フォース エイーナ」
「ルミーナ」
東條晃が、
「イリースダット」
三次が。
ただ光を求めて、小さな魔法の言葉を唱えた。
それに続いて、ダイナモンの生徒たち皆が、上級魔法使いも下級魔法使いも、杖を持つ者も持たない者も、口々にそれぞれの持つ光の魔法を唱え始めた。
難しい魔法ではないし、強い魔法でもない。
光の魔法は、幼い魔法使いが誰でも一番最初に覚える、最も初歩的な魔法だ。
けれど、その光は魔法使いがもつ光そのもの。色とりどりに輝くその光こそ、彼らが何者であるのかを物語る――我々は闇の魔法使いではない、我々は光の魔法使いなのだと。
そうしていくつもの小さな光が、太陽と月を失った絶望の闇の中で、星のように輝いた。
その時、
「ルーメン エスト!」
不意に軽やかに唱えられた優の声に、大気を覆っていた冷たさが祓われた。同時に、広間の蝋燭や暖炉に、勢いよく真っ赤な炎が燃え上がった。
第9話へ続く