月夜にまたたく魔法の意思 第7話16




 銀色狼たちが去った後、朱雀が優の手首を掴んできた。
 よく見ると、朱雀は汗びっしょりで、少し顔色も悪いようだ。
「疲れたの?」
 優が好奇心に満ちた目でニンマリすると、朱雀は意外にも「クタクタだよ」 と苦笑いで返し、柄にもなくその場に座り込んだ。
 おそらく他の者には見せなかっただろう朱雀の弱音に、すぐ近くに居た吏紀や空は驚いたが、優はつまらなさそうにちょっと肩をすくめただけだ。

「道は険しいし、飛翔術は上手く使えないしで、遅くなっちゃった。ここに来る間も、『これじゃ手遅れになる』って狼たちに言われてね、途中からイリウスが私を背中に乗せてくれたの」
「無事に戻って来てくれて何よりだが、最初から狼の背中に乗せてもらうことはできなかったのか?」
 疲労の色が滲む吏紀がもの申すと、空もゲンナリして優に続けた。
「そうだよ。あと少しでも遅かったら俺は本当に死んでたぜ」
「空だけじゃなく、私たち全員危なかったわ……」
「私は優助けてー! って叫んだのよ」
 流和と永久が口々に言う。
「遅くなってごめんね。でも心配はしてなかったよ。どんなに遅くなっても朱雀の炎の力をずっと感じてたから、きっとみんな無事なんだろうって思ってたもん!」
 無防備に笑う優の顔が、夕陽に照らされてキラキラ光る。
 それを見て朱雀は、今までに感じたことのない達成感で胸が苦しくなるのを感じた。
 吏紀や空、流和や永久が口々に優に何か言っているが、朱雀にはもはや、どうでもよいことに思えた。

 優は朱雀の隣に座り、背中からリュックサックをおろして、水筒を取り出した。
 そうしてコップに注がれた水を差し出され、朱雀はあたかもそれが自然であるかのように、何も言わずに優から水を飲んだ。
「アトスの聖水だったのか。意外に準備がいいな」
「うん。バスルームで汲んだの。疲れがスーッてとれる感じがするでしょう?」
「もともとアトスの聖水にはそういう効果がある。バスルームで汲んだっていう件(くだり)は聞きたくなかったがな」
「ふふん」
 なぜか得意げな優が、朱雀の手にコップを渡し、水を注ぎたす。
 その時、ピンク色の花弁が一片、コップの中に落ちたので、優と朱雀は少し驚いて顔を見合わせた。たちまちに桜の木の下にいたダイナモンの生徒たちがザワめき、驚いた声があちらこちらから上がり始める。

「桜だ!」
「本当! いつの間に?!」
 空と流和が声を上げるのとほぼ同時に、優と朱雀も千年桜の木を見上げた。
 なんと、それまで木の葉一枚もなかった裸の巨木に、今はこぼれ落ちるほどたわわにピンク色の花が咲き乱れているではないか。

 吏紀が思わず 「これは見事だ」 と呟くその横で、永久が 「魔法みたい!」と叫んでいる。

 ―― 千年桜が狂い咲きするとき
 優は森の奥で聞いた妖精たちの歌を思い出した。イタズラな妖精たちに隠された花の蕾……。千年間花を咲かせたことがないと言われていたこの木はもしかすると、本当は毎年こうして花を咲かせていたのかもしれないな、と優は思った。
 イタズラな妖精たちが、この桜の花がとても綺麗なので、普段は見えないように隠しているだけなのかもしれない。
 そんなことを考えて、楽しそうに笑いながら千年桜を見上げる優の横顔を、朱雀が何も言わずに見つめていた。
―― 真実は心と心が通じ合うとき、本当に見えるようになる
「あ! そうだ朱雀」
「うわっ」
 優がいきなり朱雀を振り向いたので、朱雀はまた柄にもなく驚かせられた。
「なんだ、いきなり」
「これ、ありがとう。あれ、取れない……」
 優は自分の右手の親指を左手で引っ張り、顔をしかめた。朱雀から借りたルビーの指輪が、親指から抜けなくなってしまったみたいだ。
「おかしいな、そんなにキツかったわけじゃないのに」
「かしてみろ」
 いざとなったら親指を切断してでも返せと言ってきそうな朱雀に内心ビクビクしながらも、優は素直に朱雀に右手を差し出した。
 すると不思議な事に、朱雀の手によって指輪はするりと優の親指から抜けた。
 優が腑に落ちない顔をしていると、朱雀はクスっと笑って意地悪に言った。
「俺がはめたものは、俺にしか外せない。飼い犬が主人にはめられた首輪を自分で外せないのと同じだ。強力な守護魔法がかかってるって言ったろ」
「なッ……!」
 優の顔がたちまち真っ赤に膨れ上がり、朱雀に向かって拳を振り上げる。
「人のことを犬扱いして、ほんっと、ムカツク!」
「わ……怒るなって。おかげで無事だったろうが」
「私は朱雀の所有になった覚えはないんだから! それに狼に頭を噛まれたし、言うほど無事でもなかったし!」
「狼は賢いから、お前を丸呑みにしたら腹を下すかもって思ったのさ。わざわざ指輪の力を使うまでもない。どう、どう、落ちつけ、お座り」
 優にグーで殴られても、朱雀はどこか楽しそうにそれを交わしている。
 優はこのときはまだ、朱雀の言葉の裏に隠された指輪の秘密と、朱雀の本当の覚悟には気づいていなかった。

 

 夕焼けに染まる空に、ピンクサファイヤ、アメジスト、サードニクス、オブシディアンと、そしてオパールの輝きが線を描いて千年桜の元に着地した。
 桜色のローブを纏った本物の桜坂教頭が、喜びを湛えた眼差しで生徒たちを見回した。
「よくぞ力を合わせて全員生きて乗り越えましたね。私たちはあなたたちのような生徒を持って、心から誇りに思いますよ」
 桜坂教頭はそう言うと、目もとをサッと拭い、こらえきれなくなったのか、不意に生徒たちから顔をそむけた。
 すると賢者ゲイルが前に進み出て、その皺がれた声を張り上げた。
「今日、そなたらが掴んだ勝利は、かつての魔法戦士たちの名に恥じない知恵と鍛練、そして種族を越えた結びつきによるものじゃ。太古の昔から賢狼たちが守り治めるこの森で、魔法使いと白銀の狼は今日も共に生きている。生きるとは闘うこと、また、生きるとは結びあうこと。種族を越えた結びあいの加護が、そなたらに生涯あらんことをここに宣言する」
 ゲイルの後を引き取って、まだ涙声の桜坂教頭が威厳を損なわないように声を張り上げた。
「怪我人は医務室に運びます! 余力のある者は真理子先生を手伝って、医務室に運ぶのを手伝ってください」
「マリー先生! 王の魂に捕りつかれた男子生徒がいるんだけど、大丈夫かな」
 と、空がマリー先生を見つけて駆け寄って行った。
 深紅のドレスに身を包んだ美しい先生がウィンクする。
「命さえあれば、大丈夫。精神的に回復するには少し時間がかかるかもしれないけど、ミルトスのお茶を飲ませて身を清めれば少しずつ良くなっていくはずよ」

 一度は自分を殺しかけた男子生徒のことを案じて、空がホッと胸をなでおろす。
「空、あなたやっぱり、昔と変わったのね」
 流和が優しく空の腕に触れると、空は不意にニコリと笑い、流和の頬にキスを落とした。
「君のために変わったのさ。偉いだろう」

 地面に座ったままの朱雀と優のもとには、眼帯をつけた男の先生が近付いて来た。
 だが優は今、峰子夫人が持たせてくれた弁当をリュックから取り出しているところなので、先生には気づかない。
「一人も死者が出なかったことは、称賛に値する」
 播磨先生はチラリと朱雀を見て微笑すると、今度はお弁当箱を開けようとしている優に話しかけた。
「君が明王児優だね」
 突然話しかけられて優がきょとんとしていると、隣から永久が、「魔法戦争学の播磨先生よ」 と耳打ちした。
「その眼帯、海賊みたい。左目どうしたんですか?」
 今まで誰も聞いたことのない、だが誰もが気になっているであろう事実を優が初対面でいきなり聞いたので、一瞬、周りの空気が止まった。
 播磨先生は面白いものでも見るように優をマジマジと観察すると、まるで子どもに重大な秘密を解き明かすときのような囁き声で、優に言った。
「僕の左目には呪いがかけられていてね。人の心の中を何でも見透かしてしまうから、普段はこうして眼帯で塞いでいるんだ」
 にわかには信じがたい話に、「本当かよ……」と朱雀がぼやく。
 だが、優は朱雀とは全く違う反応を示した。
 優は真剣な顔で播磨先生の顔を覗きこむと
「その呪いを解くためにはどうすればいいの?」
 と聞いた。
 播磨先生はクスクス笑いをこらえながら、優の頬にそっと手を置いて、わが子を見つめるように優しく見下ろした。
「君は優しく、純粋なんだね。そういう子には、最も単純で、けれど人々が見落としがちな最も重要な真実を、いとも簡単に見抜く才能があるんだよ。だから教えてあげよう。呪いを解く方法は、闇の世界に行ってしまった僕の親友しか知らないんだ」
 播磨先生はそれだけ言うと、優の頭にポンと手を置いて、それから他の生徒たちの所へ行ってしまった。
 優は播磨先生とのやりとりも早々に、楽しみにしていたハート形のお弁当箱を開けた。そして歓声を上げる。
「わあ! やったあ!! 唐揚げと、それにタコさんウィンナーも入ってる!」
 周りのみんなにお弁当箱の中身を自慢しようとしている優に、吏紀が無言で、「空気読めよ。今、播磨がすごいことを言っていただろう」と目で伝えて来た。
 優はがっかりして、わずかな期待を込めて隣にいる朱雀を見た。だが、朱雀は朱雀で、播磨先生の背中をスナイパーのように睨みつけている。まるでそうすることで、悪の根源を抹殺することができると信じているかのようだ……。もっとも、播磨先生は悪ではないし、優は播磨先生のサードニクスの美しい輝きを感じ取っていた。
 サードニクスは幸福や愛、それに親友との強い絆を象徴するマジックストーンだ。だから優には播磨先生が曇りのない善良な魔法使いだということが分かったし、播磨先生がさっき嘘を言ったのでもないことが分かっていた。

 優は唐揚げを口に入れた。瞬間、目を丸くしてまた感激の声を上げる。
「うおーいしーい!」
「お前は色気より食い気だな。もとい、何をおいてもまず食い気なんだろうが」
「だってお腹すいたんだよ」
 よく見れば全身泥まみれの優が、今度はタコさんウィンナーを口に入れる。
「地べたに座って、手も洗わずに食事をするなんて、不衛生だ……」
 と、空が嫌な顔をすると、
「あら、お花見みたいで楽しいじゃない」
 と言って、流和も傍に座って峰子夫人の美肌弁当を開けた。
「流和のお弁当、何?」
「どうやらこれは……フカヒレね!」
「それって弁当のチョイスとしてどうなんだ……」
 言いながら、流和がフォークで取り分けてくれた一口を、空は抵抗せずに口に入れてもらっている。
「うん、旨い」
「けど、峰子夫人の弁当って装飾が華美だから、男子にはウケが悪いよな。ハート型の弁当なんて、恥ずかしくて持ち歩けない」
 と、吏紀が困ったように眉をすくめた。
「じゃあ、あなたもお弁当を持ってないの?」
 元気が出る弁当を開いて、永久が、「良ければ一緒にどうぞ」と言って、吏紀にグリルチキンたっぷりのサンドウィッチを差し出した。

 流和と永久が男子にお弁当を分けてあげているのを見た優は、それなら自分も朱雀に少し分けてあげたほうがいいのかな、と思って口を開きかけて、だが辞めた。なぜなら、朱雀は優の膝の上のお弁当箱から勝手につまんで、すでに食べているからだ。
「どうしてあなたは、私が言う前に食べてるのよ」
「おやおや、そちらさんから分けてくれるつもりだったのかい」
 朱雀がおどけて言うと、優はフンッと鼻をふくらませた。
「そうよ。お腹をすかせている人が隣にいたんじゃ、気持ちが悪いからね」
「ふーん。俺はてっきり、また一人占めにするんだろうと思ったんだけどな。お、このブロッコリー、意外に美味い」
「ブロッコリーきらいだもん」
「そうやって好き嫌いするからそんな痩せっぽっちなんだぞ。食え」
「んん!」
 朱雀がいきなり優の口にブロッコリーを押しこんできたので、優の顔が物凄いしかめ面になった。が、ブロッコリーを呑み込んでその表情は一変した。
「……、あら。うん。美味しいね」
「なんだよそれ」
 意外にも大して怒らない優に、朱雀は拍子抜けする。
 食事中の優は、朱雀を怒ることよりも食べることに夢中なのだ。
「ねえ、この赤いのは何? ピーマン?」
 ブロッコリーをもう一口つまんでから、優が何やら赤くて、妙に光沢があり、歪な形の野菜? を指差した。
「ストロベリートマトだ。食べたことないのか?」
 朱雀に教えてもらった名前を反復しながら、優は恐る恐る、その赤い野菜? 果物? を口に入れた。
「何これ! 苺みたいに甘い! ……トマトなの?」
「子どもが好きな野菜の代名詞みたいなもんだぞ。物を知らない奴だな」
「そんなの東京にはなかったもん。私、これ好き!」
 子どものようにストロベリートマトを頬張る優に、朱雀がしかめ面で返す。
「これは手羽先かな?」
 と、今度は優が骨付き肉にかぶりついたのを見て、朱雀が笑いを噛み殺した。
「美味いか……?」
「うんッ」
「それ、ヒキガエルの後ろ脚だぜ」
「…… ッ!? うきゃああああ!!!!」
 一度口に入れてしまったものを吐き出すこともできず、優が苦しそうに身悶えする横で、朱雀が腹を抱えて笑い転げている。

 そんな楽しいお花見の場へ賢者ゲイルが近寄って来たので、吏紀が真っ先に立ちあがった。
 そして親しみをこめて、だが礼は失せずに頭を下げると、永久と流和も立ち上がり、老婆に挨拶をした。

 優は、偉大な賢者ゲイルをこのとき初めて近くでまじまじと見た。そして、不思議そうに首をかしげた。
「予言のハープから聞いたよ。……お前たち、書き換えの契約をしたんだね……」
 悲しみと憂いの混じる深い眼差しをたたえたゲイルが、優と朱雀のことを真っすぐに見つめているのだが、優にはゲイルが何を言っているのかさっぱり分からなかった。ただ朱雀だけが、ゲイルの言わんとしていることを理解したらしく、手のひらに残るナイフの傷跡を握りしめた。
「以来、ハープは歌わなくなった。奪われた予言書も今頃は固く口を閉ざしていることだろう。……くれぐれも気をつけなされ。真に予言を書き換えることのできる者は、そうそう居ない。お前たちがしたことに気づいた魔女が、お前たちの命を狙っている」
「おい婆ちゃん、一体何のことを言ってるんだ?」
「かあああ!!」
「いってッ!」
 口を挟んできた空が、老婆の小さな足によって蹴られた。

「空、お婆ちゃんなんて言うのは失礼だよ。この人はもっと若いんだから」
 優が何気なく言った言葉に、他のみんなは変な顔をした。
 「若い」なんて言う言葉はそうそう使ってはいけないくらい、目の前にいる老婆は、老婆なのである。顔にも手にも深い皺が刻まれ、声はガラガラで、背中はお化け柳のように曲がっているのに。

 しかし老婆は優の言葉に機嫌をとりなおしたようで、優しい目で優の紅色の瞳を覗き込むと、その皺がれた声でそっと囁いた。

「魔女はやがて、お前の目を恐れるようになるだろう。
――明王児 優。 ナジアスと同じ炎を持つ者よ 」


 ゲイルの意味深な言葉で、優たちのかなりキツイ野外実習は幕を閉じた。



 第8話へつづく